七つのロータス 第53章 アージュナ
女たちは荒地の中央でへたり込んでいた。僅かな荷車がともにあるばかりで、馬の群れも羊の群れも姿が見えない。馬の扱いに巧みな女たちを率いて、散り散りになった家畜を集めてきたアージュナは、頭の中が空になったような気がした。何も考えられない。部族がほとんどの家畜を失ってしまうなど、ほんとうに起こったこととは信じられない。呆然としている間にも、馬はうずくまる女たちの元へアージュナを運んでゆく。石だらけの丘に囲まれた荒地の中央で、馬は自然と脚を止めた。
失われた家畜の群れは、どこかに隠れているわけでもない。奪われるか逃げてしまうかしたのだと納得するまで一晩かかった。女たちが寝静まった中、一人で焚き火を見つめていても、それ以上の家畜を連れて現れる者は誰もいなかった。
朝、部族の男たちが窪地にやって来た。戦いに出ていった男たちの一割にも足りない。多くの者が深手を負い、馬の背に身を横たえたまま冷たくなっ ている者もいた。アージュナは丘を下り降りてくる男たちの群れに目を走らせ、夫の姿を探した。ジェンバ!ジェンバはどこ?男たちを迎えるために走る女たち。その先頭に立つアージュナの目の前に、一頭の馬が立ち塞がり、騎手が下馬した。
「奥方様」
騎手は地に両膝を突き、頭を垂れる。
「メリエ、族長はどうなさったのです?」
アージュナの声に、男はますます深く身をかがめる。
「族長はっ、討ち死にを……」
渇いた土の上に、涙が染みを作った。
「そう……」
昨日味わったのと同じ感覚が襲ってきた。頭が痺れたような、空になったような感覚。生き残った戦士と抱き合う女、夫や息子を求めて馬の間を速足で行き交う女、地にくずおれ、あるいは身を伏して泣き崩れる女。それらを見るともなく見て、最後に視線は空に向けられた。鮮やかすぎる青空を、真っ白な雲がゆっくり横切ってゆく。その景色が不意に滲んだ。
閉め切った狭い天幕の中に五人が車座になると、ずいぶん息苦しい気がした。火を焚いてはいないので、天幕のてっぺんに開けられた煙出しからの光 だけしかない。部族の最年長であるタブ、死んだ族長のジェンバの弟にあたるエン、ジェンバの腹心だったメリエ、ジェンバの母イーナ、そしてジェンバの妻であるアージュナ。
「やはり俺が族長になるのが、理にかなっているだろう」
いくらか話し合いが進んだところで、エンが言った。他の四人は皆、口をつぐむ。他に指導力のある男がいない以上、その言葉自体は筋が通っているのだ。それでもその場にいる者たちには、エンを族長とするのに抵抗がある。エンを族長にしなくてはならないと認めるとき、部族の全員が改めてジェンバを悼むだろう。
アージュナの心の中には、それとは別に煮えたぎる ものがあった。九百騎の戦士を擁していたグルタ族が、今や百騎にも満たない。それなのにこの男は一つの傷も負ってはいない!本人は運と武勇の故だと言い張るが、アージュナは信じてなどいなかった。アージュナの怒りを込めた視線が、エンの視線とぶつかる。肌が粟立つ。好色な目が自分を捉えている。この男に抱かれるのは耐えられない。そう思いながら周囲を見渡しても、エンが族長となることに意義を唱える者はない。ならわしに従えば、死んだ族長の妻たちは新しい族長に「相続」されることになる。
エンの勝ち誇った目が、自分を見下ろしている。顔が、頭が熱くなっている。
「誰も異存はないようだな」
またあの目だ。他の誰でもない、わたしを見ている。エンのその目が、口の端での笑いとともに弓なりに曲がる。アージュナの心が弾けた。
立ちあがりざまに、懐から短剣を抜き放つ。炉の燃え殻に一歩踏みこみ、全身を一直線に伸ばす。短剣の切っ先が喉を貫くまで、エンは何一つ、身をかわそうとすることすらできなかった。アージュナは更に一歩踏みこみ、剣の柄を両手で握った。喉が裂け、血が噴き出す。たった今まで得意の絶頂にあった男は、アー ジュナの体へとゆっくりと倒れ掛かってきた。
「いやよ」
アージュナは身をかわす。死体になろうがどうしようが、こんな奴に触れられたくはない。エンは炉の中央にうつぶせに倒れた。アージュナはつま先で体を転がす。目も口も虚ろに開かれ、死んでいることは疑いない。
アージュナは周囲を見まわした。メリエは立ちあがって、死体を見下ろしている。年配のタブとイーナは座ったまま、身じろぎもしない。誰もが声もなく呆然としているのだと思った。そして皆がこの麻痺から醒めれば、自分は裁かれるのだと。だけれどそれは間違いだった。
「これで決まったな」
タブが立ちあがりながら言った。あくびでもしそうな口調だ。
「ふさわしい者が残った」
イーナもそう呟く。
戸惑うアージュナの腕に、タブが触れる。
「新しい族長のお披露目は、正午に行うことにしよう。それまでできる限り綺麗にしておきなさい」
新しい族長というのが自分だとわかったのは、皆が天幕を出ていってからだった。綺麗にというのが身に受けた大量の返り血のことか、それとも盛装をしろということなのかは最後までわからなかった。
紅く染められた牛毛の房で飾られた衣装を身にまとい、アージュナは皆を前にして丘の中腹に立った。部族の長老に名を呼ばれ、女の身でありながら 族長の位に立つ事を認められた。千人ほど生き残ったグルタ族に、戦える男たちは九十人足らず。戦士として認められる直前の少年が二十人ほど。あとは女と子ども、老人。良い放牧地から追われ、家畜を奪われ、着の身着のまま。不安げな目がアージュナを見上げている。誰も彼もが不安を湛えた目を向けている。アー ジュナは眩暈を感じた。ジェンバは死んでしまった。自分を助けてくれる者はいない。誰かの助けがいる。誰も助けてはくれないのに。
短い儀式が終わり、思い思いに日陰を探してうずくまる人々をすり抜けて歩く間にも、同じ思いが繰り返し浮びあがってくる。誰か助けて。誰か助けて。あたしに縋りつく二千の目から助けて。自然と足が止まった。たった今意識をかすめて流れていった考えを捕らえようと、明るい青空を流れる白雲を目で追う。なにか良い考えが今、浮びかけた。そうだ助けが要るんだ。アージュナは笑顔を浮かべた。あたしに助けが要るんじゃない。グルタ族に助けが要るんだ。では誰に助けを求めるか。強い者だ。帝国は遠過ぎる。それに草原の民に警戒心もある。ならばサッラはどうか。遠いのは遠いが、手持ちの食糧でなんとか辿りつけるだろう。アージュナは周囲を見渡す。何をして良いかもわからず、ただ日差しを避けてうずくまるだけの人の群れ。何年かに一度、家畜を売りに行くだけの関係でしかないサッラが、助けてくれるかはわからない。高い見返りを求められるかもしれない。だけど今のまま、新しく食べ物を手に入れるあてもなくただ座りこんでいるなら、死んでいるのと同じだ。悪くてもサッラに着くまでは、自分たちは生きていられる。アージュナは一人頷き、長老の元へと歩き出した。
斥候に出した子どもが、サッラが包囲されていることを告げた。数人の戦士を連れてサッラを見晴らす砂丘の上に出ると、確かに四つの門それぞれの外に一団の兵士が固まっている。
「なんてこと!」
アージュナはそれきり口がきけなかった。もう食糧も僅か。これ以上どこにも行けない。
「あいつらもハラートなのか?」
戦士の一人が、部族を滅ぼしかけた敵の名を口にする。だけれども、それがわかって何の意味があるだろう。
「アージュナさま、あれを」
サッラに視線を戻すと、戦いが始まっていた。サッラが城門を開け、騎兵を出したのだ。どうすればいいのか、すぐにわかった。
「戦士たちを全員集めて!サッラに加勢するわ」
僅かに残った百騎余りの手勢全員が、一団となって砂丘を駆け下る。アージュナはその先頭に立って、槍を構える。グルタ族の戦士たちは、背後からの攻撃にようやく気づいたばかりの一団にぶつかっていった。それぞれの槍が、たちまち敵の血に濡れる。
「サッラの兵と合流するわよ」
混乱しまともに戦えない敵を次々と槍の餌食にしながら、向うに見えるサッラの騎兵に近づく。邪魔な相手に槍を打ち下ろし、あるいは突き出すたびに、真っ赤な血が飛び散る。
「よせ!俺はタラスのもんだ!」
アージュナが狙いをつけた男が、叫びながら両手を振った。相手が武器を持っていないのを見て武器を止め、男を弾き飛ばすようにして傍らを駆け抜ける。見まわせば、戦わずにただ逃げまわっている男たちが、そこかしこに見える。
「武器を持たない者はほっといて!わざわざやっつけてまわる余裕はないのよ」
この戦いは、ずいぶんややこしいことになっているんだ。とにかくサッラの部隊と合流しなくては。
サッラの騎兵、ひとりひとりの顔が見分けられるほどの距離に近づく。全く別の生き物のように大きな馬に跨っているから、見間違いようがない。
「アラン山麓のグルタ族百九騎、サッラに加勢いたします」
サッラの騎兵に向かって名乗りをあげると、相手は何故だか困ったような顔をした。
「サッラの騎兵隊長イッポ。ありがたいが、気をつけられよ。タラスの兵に味方になるよう呼びかけているところだ」
サッラの騎兵は言いながら、二人の敵を打ち倒しアージュナと馬を並べた。
「だから自分に武器を向けている敵以外は、殺してはならん。できそうになければ、門の中に下がってくれ。味方に攻撃されぬよう、騎兵を何人か先導させよう」
「なんとかそのように戦ってみましょう」
アージュナは敵の槍を打ち払いながら、部族の一人一人に事情を伝える。全ての戦士が了解すると、サッラ騎兵と馬を並べて、敵陣を切り崩しにかかった。