世界史 その6 黄河文明と長江文明そして

 南船北馬という言葉がある。長江を中心に複雑に河川が流れる中国南部では移動に船を使い、乾燥した平原の多い中国北部では移動に馬を用いるという意味だ。実際、中国北部の黄河流域と南部の長江流域では文化が全く違うと言われている。南と北の境は、淮水(わいすい)という河だ。現代では淮河(わいが)と呼ばれている。
 淮水と長江の中間から植物相も変わり、北は落葉広葉樹林帯、南は照葉樹林帯となる。
 農業では北は小麦が中心、南は米が中心だが、古代では北はアワやキビを栽培していた。
 歴史上幾度も統一王朝が存在し、元が南宋を下してからは少なくとも名目上は統一を続けている現代の中国でも、南北で全く気質が違うと言われている。ましてや古代においては、その違いは現代の比ではなかっただろう。

 僕自身は長く黄河流域の黄河文明、長江中下流域の長江文明、長江上流域の四川文明がそれぞれ独自に文明を発展させ秦の統一ごろまでは独自性を保っていたと考えていたが、このコラムのために勉強し直してみると、話はそれほど単純ではないようだ。
 つまり渭水流域、黄河中流域、山東地域、長江上流域、長江中流域、長江下流域、更に遼河周辺にそれぞれ文明と呼べる文化があり相互に影響しあっていた。そのためその独自性と共通性の評価が研究者によってだいぶ違うようだ。
 長江流域の稲作の起源などを中心に新発見も多い分野なので、まだまだイメージを固め過ぎないのが良いかも知れない。

 ということで比較的無難な記述に徹すると、長く紀元前6000年~5000年頃に黄河流域でアワ・キビ栽培が、同時期に長江流域で水稲栽培が始まったと考えられていた。しかし黄河流域、長江流域での遺跡の発見で、農耕の開始時期はどんどん遡っていて、紀元前10000年頃氷河期の終了とともに初期農耕が始ったという推測もあって、メソポタミア地域の農耕より古い可能性が考えられるようになっている。
 またジャポニカ米の起源が長江文明にあることもわかっており、日本に農耕を伝えた弥生期の渡来人が、長江文明にルーツを持つ可能性がある。

 新石器時代の中国は大きく前期の仰韶(ぎょうしょう・ヤンシャオ)文化、後期の竜山(りゅうざん・ロンシャン)文化に分けられる。その交代時期は、僕が高校生の時に使っていた教科書では紀元前2000年~紀元前1500年となっていたのだが、1998年に出版された中央公論新社「世界の歴史2中華文明の誕生」では紀元前3500年~紀元前2600年という年代があげられている。昔の教科書だとまだ仰韶文化も始まっていない年代なのだが・・・。
 仰韶文化は彩陶、竜山文化は黒陶と呼ばれる陶器が特徴となる。黒陶は遼東半島から長江流域まで分布しており、この時期には遼河・黄河・長江のそれぞれの文明にかなりの交流があったことがわかる。それは平和的な交流だったのか、征服をともなうものだったのか?

 明石書店「中国の歴史を知るための60章」(軽い本ばかり参考にしているという批判は甘んじて受ける)にはそもそも仰韶文化、竜山文化という言葉自体が出てこない。紀元前3000年頃に急激に集落の形成が進み、首長制社会となる。紀元前3000年紀後半に長江下流の良渚文化が突然衰退、紀元前2000年頃には黄河下流域、長江中下流域の首長制国家が相次いで解体してゆく。黄河中流域のみ竜山文化から二里頭文化への連続的発展が認められる。としている。

 正直、参考にした本によって記述する視点や内容が違いすぎて、この時期についてはまだまだ勉強を続ける必要がありそうだ。
 ともかく中国は新石器時代から、青銅器時代へと進んでいく。その中心となるのは、伝承にある夏王朝の遺跡の可能性が高いとされる二里頭遺跡だ。

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