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七つのロータス 第19章 サイスIV

 第1章から

 サッラの大地は燃える陽光に包まれ、遠くには陽炎がゆらめいている。白銀しろがねと一緒に城壁を一回りしたアルタスは、何事もなかったかのような周囲の光景に、数日前までの戦いの景色を重ね合わせて見ていた。今や死体はすべて片付けられ、腐肉あさりの鳥や獣も、どこかへ行ってしまった。市民階級の男たちは武器を倉庫に収め、本来の生業にたち戻っている。日中の一時を城壁の外での訓練に費やす帝国の軍隊だけが、サッラが日常に復すことを妨げていた。
 アルタスは遠目から、整列したまま砂丘を駆け上る帝国の歩兵を眺めた。馬の背からそれを見守る指揮官を眺めた。

 サイスはここ数日、ずっと落ちつかない思いに捕らわれていた。それはサッラを守りきったものの、兵のほぼ半数を失った不満であり、敵の動向がつかめない不安でもあった。騎兵の大半を失ったために偵察が不充分で、敵の行方が掴めなくなってしまったのが一番つらい。サッラの騎兵も協力はしてくれたが、軍の主戦力としての誇りが高いサッラの騎兵は、偵察のような地味な任務に対する認識が低いのだ。タラスが未だに占領されており、多くのハラート族がいるらしい、 ということはわかっている。そして軍隊の移動の痕跡から見ても、敵の残りはタラスに引き上げたと考えるのが自然だった。だが、タラスとは全く逆方向の偵察に出た帝国騎兵が、戻ってこなかったという事実が、サイスの不安をかきたてる。敵はタラスで機会をうかがっているのかもしれない。あるいはどこか思いもよらぬ所にひそんでいるのかも知れない。とにかくサッラの危機はまだ去ってはいなかった。

 蹄が砂を踏みしめる音。振り返ると、サッラの族長の息子…。アルタスと言ったろうか…。芦毛馬の背に乗って、帝国軍の訓練を見守っていた。
「その馬は、将軍の乗馬でしたか」
族長の息子が話しかけてきたのは、訓練を終え、兵を解散させた後だった。
「厩で見かけて、気にしていたんですよ」
「何か問題でも?」
アルタスは馬から滑り降りると、サイスの馬に近づきその顔に触れた。背後では訓練を終えた兵士たちが、列をなしてサッラの城門を通り抜けている。
「いや、そういうことじゃないんです。ただ懐かしくて。この子は、僕が初めて世話させてらった馬なんですよ。帝国に売られていったこいつと、再会できるとは思っていなかったから、厩で見たとき驚いてしまって…」
「そうでしたか」
サイスもまた馬から降りた。馬はアルタスに頬を撫でられ、首の下を掻いてもらって気分良さそうに目を細めている。
「この子の名前は?」
「『紅蓮』といいます」
「嬉しいなぁ。こちらで育てていた時のままの名前で、呼んでくれているんですね」
別に馬の名前などどうでも良かっただけだが、自分より歳若い、少年とさえ呼べそうなアルタスの笑顔に、そのような気のない言葉を投げつける気にはなれず、 サイスはただ笑い返す事で相手の言葉に応えた。それにしても族長の息子がこんなにも無邪気な少年であるとは。初陣でずいぶんと華々しく武勲をあげたと聞く、その印象とはずいぶんと違う。

「どうです、よろしければ比べ馬などしてみませんか」
 ひとしきりサイスの馬とじゃれあうと、アルタスがそんなことを言い出した。
「よし、胸を貸していただきましょうか」
サイスは我知らず笑いがこぼれるのを感じた。思えば自然に笑いが浮かぶなど、久しぶりのような気がする。
 アルタスは前方にうねる砂丘を指差した。
「あの丘を越えると、泉があります。そこで先に馬に水をやった方を勝ちにしましょう」
「異存はないですぞ」
アルタスの満面の笑顔につられるように、愉快な気分になってゆくのが不思議だった。

 茫漠とした荒野を前にして、馬を並べる。かすかな風が吹いて、大地の表面を砂が流れている。
「いつでも走り出してください。それを見て、僕も走らせますから」
アルタスはサイスに笑いかけた。
「では」
サイスは一瞬苦笑したが、すぐに真剣な顔で前方を見据えた。しばし心を落ちつかせると、両脚の内側で馬の腹を叩く。一歩、二歩、と紅蓮は歩を進め、三歩、四歩、と滑らかに馬の行き脚が上がってゆく。速足から駆足、そして疾走に移る頃には、紅蓮とその主は砂丘までの半ばまで達しようとしていた。
「さすが。帝国の御仁にしてはお上手だ」
アルタスはそう呟くと、白銀を促した。純白に近い芦毛の馬は、一歩目から駆足の足運びで飛び出し、二歩目には疾走に移っていた。
 帝国の将軍と懐かしい馬の姿が、見る間に近くなってくる。馬の足運びに合わせて、馬上で激しく身を動かすサイスの背中をアルタスは眺めた。燃えあがるような鹿毛の背中で、全力で手綱を操ろうとするサイス。対するアルタスは馬上でやや前かがみになったまま、身じろぎもしない。ただ馬の行き足に任せていても、両者の差ははっきりとしていた。先を行く紅蓮に、白銀が迫る。砂丘の麓近くで遂に白銀が紅蓮に並びかけた。アルタスは白銀の脚を緩め、しばし両馬を併走させる。サイスは馬を急かすのに夢中で、アルタスには目もくれない。アルタスは帝国の将軍の騎乗ぶりを、隣からじっくりと観察した。もっと馬を信用してやればいいのに…。アルタスは思う。馬に常に走る事を強いていては、馬の方が走る気を無くしてしまう。紅蓮を憐れに思う気持ちを、アルタスは押さえこん だ。紅蓮はもはやサイスの馬、自分は何か言うべき立場にはないのだ。アルタスは自らのうちに涌きあがってきた思いを振りきるために、白銀を促した。白銀は軽い足取りで砂丘を駆け上がる。脚を砂に深くうずめて、前に進むこと自体に往生している紅蓮を置き去りにして。
 砂丘の頂で脚を止め、紅蓮とサイスを見下ろすと、アルタスは一息に砂丘を駆け下りた。脚もとの砂が崩れて流れ落ちて行くのも構わず、白銀は確かな足取りで滑るように下る。砂丘を下り終えても、脚を緩めはしない。泉が差し招くように、冷たく輝いている。地を駆けるそのままの勢いで、白銀は泉の中に踊りこんだ。激しい水飛沫。アルタスは思わず歓声をあげた。熱を帯びた体に、冷たい水が心地よい。水の冷たさが、汗や砂埃が体から洗い流される感覚が、アルタスを支配した。泉の岸に戻ろうとする白銀の体から離れて、アルタスは水と戯れる。水中で身を丸め、ゆっくりと息を吐き出した。そのままゆっくり回転しながら、 泉の底まで沈んでゆく。と、たわめられていたしなやかな枝のように、勢いよく身を伸ばし、水を蹴って水面に飛上がる。長い髪が踊り、その一本一本の先から細かい飛沫が宙に輝く軌跡を描いて飛んでゆく。理由もなく大笑いして、アルタスは白銀の待つ岸に向かって泳ぎ出した。濡れた衣服が体にまとわりつく感覚すら、いとおしいと思った。
 
 ようやく追いついてきたサイスは、腰布一枚で迎えたアルタスに驚いたようだった。
「将軍も水に入ってはどうです?気分が良いですよ」
アルタスは笑顔で言った。サイスは息をきらしていたので、アルタスを一瞥するだけで、言葉を返せなかった。紅蓮から滑り降りると、泉のほとりに座りこんで、両手で水をすくって口に運ぶ。アルタスは紅蓮の手綱を取って泉へと導いた。
「よくがんばったなぁ。あんなに走る邪魔をされてたのになぁ」
サイスには聞こえぬよう、紅蓮の耳元で囁いてみる。まるで子どもの頃のような、無条件の幸福感がアルタスを包んでいた。

 水を飲み、顔を洗い、息を整え、やっとサイスが口を開いた。
「帝国では、サッラの人間としてはいけない三つの事、という笑い話があります」
「へえ」
まだ荒い息をしながらサイスが言った言葉に、アルタスが笑い返す。
「その中に、『馬での競走』、というのがあるんだが、その意味がよくわかりました」
サイスはかなり苦労しながら、笑顔を作って見せた。
「あとの二つ、というのはなんでしょう?」
「まず『騎馬での決闘』、勝ち目がないから。そして『馬の話』、昼飯時に始めれば、翌朝まで付き合わされるから、というのがその笑い話ですよ」
アルタスは満面の笑みで、それに応えた。
「どうです、ついでにもう一つ、禁を犯してみては?」
「それは勘弁していただきたい」
砂と小石の荒れ野の中、緑に囲まれた泉のほとり。二人の武人の笑い声が、瑞々しい空気の中に流れ出していた。

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