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教養って何だろう。 教養編・イントロダクション

 教養って言葉を知っていますか?君たち(筆者の子どもたち)がこの文章を読む時、今よりもう少し大きくなっていれば、言葉は聞いたことがあるだろうね。辞書的な意味も答えられるかも知れない。因みに手元にある広辞苑の第三版には「単なる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。その内容は時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる」と分かったような分からないようなことが書いてある。広辞苑の版が古いのは気にしないで欲しい。学生時代から使っているものだからね。
 さて、取り敢えず「あの人は教養がある」なんて言うときには、単に知識があるだけじゃなくて「創造的な理解力」、つまり知識を元にあれやこれや考えて理解していく能力まで含めている、ということだね。

 じゃあ教養を身につけるって、どんな意味があるんだろう。なんのために教養を身につけないといけないんだろう。学校のテストで役に立つ?少しはね。社会に出てから役に立つ?職種によるけど、役に立つこともあるね。
 でも君たちの父(この文章を書いている僕のことだよ)が考えている教養の意義は、もう少し違うところにある。

 世の中のみんなが自分に役に立つ知識だけを勉強して、役に立たない知識は無駄だから勉強しないとなったら、どうなるだろう。学校の勉強だけを言っているのじゃない。社会に出てからこそ重要な話だ。営業の仕事をしている人は、自分の扱ってる商品のセールスポイントしか知らない。経理の仕事をしている人は、数字しか見ていなくて、その数字の向こうに実際に働いている他の社員や、お金を払ってくれるお客様がいることなんて、これっぽっちも思わない。工場で働いている人は、自分が担当している一工程だけを考えて、隣の人がどんな仕事をしているかも知らない。もちろん趣味なんて役に立たないことはやらない。誰もが自分の仕事だけを考えている。そんな世の中だったら、どうなるだろう。
 ディストピアものというSFのジャンルでは、こんな世界が良く出てくる。こんな世界で他の人と仲良くになることがあるだろうか。友達になったり、恋人になったりすることができるだろうか。
 自分以外の人と仲良くなる、それ以前に他人とコミュニケーションをとるためには、共通の知識が必要なんじゃないかな?
 自分が知っていることがある。自分が知らないことがある。相手が知っていることがある。相手が知らないことがある。この4つを重ね合わせると、自分が知っていて、相手も知っていることがある。自分が知っているけど、相手は知らないことがある。自分は知らないけど、相手は知っていることがある。自分は知らなくて、相手も知らないことがある。という4つの組み合わせができる。わかるかな?実はこのほとんど数字の出てこない文章が、初歩的な数学になっていたりする。「はじめてであうすうがくの絵本」的なね。わかりにくければ、図に描いてみてごらん。
 大事なのは「自分が知っていて、相手も知っていること」。この部分が大きければ大きいほど、スムーズにコミュニケーションできるよね。片方が知っていることを、知らない方が「それどういうこと?」と聞くなら、それもコミュニケーションだけど、本当に話したいことがあるときに、何回もやられたら話が進まないよね。
 逆に片方だけが知っていることが多いと、一方が相手に自分の言いたいことを伝えたいんだけど、もう一方の人は相手の言ってることがまず単語の意味からわからないというふうになる。うん、家電量販店とか携帯ショップとかパソコンショップとかで、そうなることがあるけど、日常生活のいたるところがそうなったらどうだろう。
 同じ日本語で話しているはずなのに、まるでバベルの塔の崩れたあとみたいに言葉が通じないんだ。とてもストレスのたまる社会だし、それで結局伝えたいこと、伝えて欲しいことが伝わらなかったら、不便だし危険かもしれない。

 そういう社会になるのを防ぐためのものが教養だと、僕は考えている。自分も知っているし、相手も知っている部分を少しでも大きくするため、直接役に立たない知識でもできるだけ身につけるようにしておく。できれば付け焼き刃でなく、さっきの広辞苑の定義のように「創造的な理解力」とやらを伴っていれば、より深いコミュニケーションができるだろう。
 だから政治・経済・歴史・哲学みたいないかにも教養でございという知識だけでなく、スポーツや芸能の話題だってそれで話が弾むなら立派な教養だと思う。大人になると同じくらいの年齢の人と、子どもの頃流行ったものや、見ていたテレビ、やった遊びなどで盛り上がることもあるけどそれだって教養だ。

 ここで大事なのは自分が知ってるだけではコミュニケーションの道具にはならないということはわかるかな。相手も同じ知識を持っていてはじめて、知識は教養になる。誰も知らない知識は、オタク的なこだわりにしか繋がらない。それはそれで悪いことではないけど、覚えて欲しいのは僕が考える教養は「他人に差をつける」なんて発想とは無縁のものだ、ということだ。
 じゃあなんで「教養」っていうと、小難しい感じがするんだろう。それは芸能やスポーツの話は好きならすぐに身に付くし、せっかく覚えたことが通じなくなるのも早いからじゃないかな。だからわざわざ頑張って教養を身に付けようと思うとき、せっかくなら頑張らないと身に付かないくらいのところを頑張った方がいいし、簡単には古くならない知識を覚えた方がいいって、昔から考えられてきたからじゃないかな。

 僕はこれから君たちに、僕が知る限りの知識をここで伝えてあげようと思っている。知識は教養の素になるものだからね。時間の制約もあるから、どこまでやれるかはわからないけれど。
 それでやっぱり古くならない知識をと思うと、ちょっと難しく感じるかもしれないけど、歴史とかの人文科学や、生物とかの自然科学になっちゃう。出来る限り面白いと思ってもらうよう書いていくつもりだから、嫌がらずに読んで欲しいな。
 12歳くらいで読めるようになるくらいを想定して書いていくつもりだけど、時にはちょっと難しいところもあるかも知れない。そういうときはわからなくてもいいから、取り敢えず言葉だけ追ってほしい。僕も子どもの頃、本を読んでいる時にそうしていた。そうすると10年以上も経ってから突然、あああれはこんな意味だったんだ、とわかったりするんだ。だからそういうところは、ちょっとだけ頑張ってほしい。

 ところでこの文章にもちょっとイジワルな仕掛けをしたのに気づいたかな?僕はディストピアものとか、バベルの塔とかいう言葉をほとんど説明なしに使った。君たちには意味が通じただろうか。
 通じたのなら僕はこう言おう。そうだよ、そんな言葉を出してすぐに意味がわかる。それが教養の力なんだよ、と。
 通じなかったなら僕はこう言おう。そうだよ、相手がわかると思って言ったことがわからない。それが教養の無い不便さなんだよ、と。
 僕も教養があると人に胸を張れるほどの教養人じゃない。それに僕の知識はけっこうかたよっている。だから教養がない悲しさもわかる。わかるからこそ君たちには、僕が知っていることを全部教えたい、僕なんか軽々と踏み越えてもっともっと凄い大人になれるように。

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