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【ネタバレ注意】 映画「ノア 約束の舟」

 ネットフリックスで視聴しました。旧約聖書のノアの箱舟のエピソードの映画です。ネットフリックスのリストで見るまでこの映画の存在を知らなかったのですが、何となく見始めました。
 えー、感想としては「映画としては良くできている。名作とまでは言えなくても、佳作・良作という言葉よりは傑作という言葉の方が近い。けれども物語やノアの人物についての解釈が斬新すぎて落ち着かない。いや、断じて落ち着かない」という感じです。

 最初、衣装が現代的とかノアが武闘派(ラッセル・クロウだし)とか言って笑っているうちは良かったんですが、だんだん色々なテーマが見え隠れし始めます。途中には色々現代的・普遍的だけれどノアの箱舟とは直接関係のないテーマを色々盛り込まれ、そしてクライマックス近くになるとノアのキャラクターが聖書のイメージとかけ離れてきて、何とも先が見えなくなって「自分は今何を見ているのだろう」と精神的にかなり不安になってしまいます。そしてラスト近くなり再度急転回(誤字じゃなくあえてこの字を使ってます)。人により感想は異なるだろうけれど、僕としてはギリギリ「聖書の大胆な再解釈」の範囲に戻ってきたかな、と思っています。

 かつて見た映画「トロイ」では、イーリアスとは全然違うけど映画1作の時間に収めるにはやむを得ない改編ではないかと感じました。原作改変を非難する人の気持ちは良くわかるけど、自分は傑作だと思っています。
 「タイタンの戦い」では、何故この映像の技術でオーソドックスなギリシア神話の話通りに作ってくれないのかと思いました。ダブルスタンダードもいいところだけれど、結局は映画が気に入るかどうかなんでしょう。
 「ノア」の場合はこの中間くらい、繰り返しですが映画として良くできているけれど落ち着かない、これに尽きるんですね。

 ここからは完全にネタバレ。読んでいただいている方は映画を見ている前提で、細かい説明は省略いたします。
 映画を見て感じた全てをコメントしたい気持ちは強いのですが、語るべきポイントが多すぎるので、神の意志と人の自我の問題に限って語ることにします。

 映画「天地創造」をはじめとして単に罪深い存在として描かれることの多いノアの時代の人々は、トバル・カインという王を得て、神に見捨てられてなお必死に生きようとする姿が強調されています。彼らは確かに暴力的ではあるのですが、近代的自我という意味では、神の言葉を絶対とするノアの家族より好もしい姿に見えるくらいです。

 神の意志に従って善良な存在として生き延びることを許された筈のノアの一族は、子どものできない体だった筈のセムの妻が妊娠したことで危機を迎えます。ノアは神の意志は「人間のいない世界」、自分たちの使命は箱舟ですべての生き物のひとつがいを救うことで終わると考えていたので、ノアの子孫が残ることは許しがたいことでした。ノアは生まれてくる子どもが男ならばよいが、女ならば(更に子孫を増やすかもしれないので)殺すと宣言します。懐妊を喜んでいたノアの妻、セム、セムの妻とは別の意味で驚愕したのが、ハム、そしてモニターの前の僕です。箱舟に乗り込もうとしたハムの恋人が群衆に呑まれるショッキングなシーンの意味が全く変わってしまったのですから。ノアはハムの恋人を助けられず見殺しにせざるを得なかったのではなく、あえて見捨てたのです。
 妻を連れてセムは箱舟から脱出しようと筏を用意しますが、ノアに破壊されます。筏を破壊したノアに「善い人だから、神に選ばれたと思っていたのに」とセムは問いかけますが、これはそのまま視聴者がこの時点で思っているだろうことでもあります。これに対するノアの答えは「私は神の道具に過ぎない」です。
 アブラハムとイサクの話でも明らかですが、聖書で善き人と言えばそれは神に忠実な人という意味です。頭ではわかっていても、ノアを善き人と呼ぶ時、自分は無意識により一般的な意味での善人を思い浮かべていることを思い知らされます。セムの言葉は創作技法として、登場人物に視聴者の感情を代弁させているのだとすると、キリスト教圏である欧米でもこのイメージは共通しているのではないか、とも推測します。

 少し聖書の知識のある人ならば、と言うか僕は、このあたりでノアが神の意志を読み間違っていることにも、落ち着かない気持ちになっていました。水が引いた後に告げられる言葉で、この時点のノアたちは知りえないことながら、神のオーダーは「産めよ増やせよ地に満ちよ」の筈です。ところがノアは反出生主義というおよそ聖書の思想とかけ離れた思想に行き着いています。
 話は逸れますが、「人類の存在が環境破壊の根源、人類が絶滅すれば全ての環境問題は解決する」と人類絶滅を目論む過激環境保護団体は、フィクションでは時折目にしますが、現実にそのような主張を掲げている団体ってあるんでしょうかね。

 緊張を孕んだまま時は過ぎ、セムの妻は双子の女の子を出産。ノアは宣言していた通り赤子を殺そうとしますが、情に妨げられてできませんでした。
 多大な犠牲‐ノアの家族以外の全人類を含む、箱舟に乗らなかった全ての地上の生き物、その中にはノアの祖父メトシェラや箱舟建造に協力した堕天使である守護者たちも含む‐を伴った神の計画を完遂することができなかったという思いに打ちひしがれるノア。ノアが泥酔するエピソードをこの感情に繋げたのは上手いと思いました。
 ノアはやがて人類が存続することを受け入れ、双子の赤ん坊を祝福します。そして自分の子孫たちに「生めよふえよ地を満たせ」と語りかけます。

 ・・・。

 ・・・。

 お前がそれを言うのかよ!

 いや、この映画の神は、夢で啓示を伝えたり、聖書の通りにラストシーンで虹を出したりはしますが、言葉をもって語り掛けることはしないので、ノアが言うしかないんですね。それにしても聖書では神の言葉とされているものをノアが述べてしまうのは、ある意味この映画で最も衝撃的なシーンでした。
 神の沈黙というのはキリスト教徒にとっては、重大な問題だというのは、遠藤周作の「沈黙」の解説か何かで読んだと思いますが、あまりに遠い記憶過ぎて良く覚えていません。映画前半でもトバル・カインが神の沈黙から、人類は神に見捨てられた存在だと述べていますので、この映画でも大きなテーマであると思います。

 人間は自分の意志のみに従って利己的暴力的に振る舞うのでもなく、狂信へと直結する盲信の中に閉じこもるのでもなく、他者への愛とともに自分の脚で歩んでいくことができる。言葉にしてしまえば陳腐ですが、結局はそれがこの映画の結論なのでしょう。

 僕はかつて大学で西洋哲学史を学び、つまるところ近代の西洋思想とはキリスト教から解放されようとして進歩してきたのだと感じました。そして自分が父になって思ったことがあります。聖書では創造主である唯一神を「父」「父なる神」と呼びますが、父と言うのは口ではうるさいことを言うし、子どもから見れば時に高圧的・抑圧的に感じられもするけれど、心の内では子が自分を乗り越え、自分よりはるかに優れた人間に育つことを望んでいるのではないか。聖書の神が真に父なる神であるのなら、神もまた人類に宗教の軛を乗り越え、より理知的な存在へと進歩することを望んでいるのではないか。
 キリスト教を信仰しているわけでもないのに不遜な考えかもしれませんが、「ノア約束の舟」は僕が元々持っていたそのような思いに完全に命中したわけではないにしろ、かなり近いところを掠めていったが故に、単によくできた映画という感想を越えて、長々と感想を書きたくなる、書かざるを得ない映画だったのだと思います。

 聖書では父ノアの怒りに触れるハムのキャラクター造形が良いとか、ラッセル・クロウ、エマ・ワトソン、アンソニー・ホプキンズなどのキャスティングとか、とても舟に見えない箱舟のデザインだけど「箱船」だしこれで良いのかもとか、守護者って何だこれは?と思ったら、聖書偽典に出てくるのかとか、守護者はエグリゴリって漫画「ARMS」の敵組織の名前の元かとか語りたいことはいっぱいあるのですが、先に断った通り散漫になるのでこの文章はここで筆を置くことにします。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。本業のサイトもご覧いただければ幸いです。
 亀モチーフ雑貨の福袋。いっぱい詰めますので、ぜひご検討ください。


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