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七つのロータス 第13章 サイスIII

 第1章から

 壊走する敵を追撃して勝利をより確かなものにする余裕は帝国軍にはなかった。
 サイスは敵の戦列が崩れ、敵が次々と背を向け始めたところで、もう一度戦列を整えるよう命じた。抵抗する敵の強弱によって、再び戦列に乱れが生じていたのである。その間サイスは再び遊撃兵を率いて、踏みとどまる敵を撃破した。もはや敵には戦列と呼べる物はなく、あちらこちらで百人規模で敵の一団が帝国軍の正面に対峙しているのみ。彼等も後方に回る遊撃兵と正面の重装歩兵との間で圧殺されるか、多くの仲間を見習って逃げ出すより他無かった。
「ファオの五百人隊は後衛につけ!残る部隊は反転だ。逆方向へ隊列を組みなおせ!」
敵が全面的に敗走をはじめた時、馬上からサイスの命令が響いた。
「敵を追撃しないんですか!」
五百人隊長の一人がすぐに反論した。
「騎兵を見捨てる気か!」
サイスは五百人隊長を一喝した。

 帝国の騎兵は長時間、敵の半数を必死で食いとめていた。もとより敵の撃破ではなく足止めが目的なので、帝国騎兵はまともに敵と切り結ぶことは避け、敵騎兵に遠目から矢を浴びせては退き、敵歩兵の側面から切りこんでは退き、敵騎兵が深追いしすぎれば取り囲んでこれを倒した。サッラからの軍勢が戦いに加わると、ただでさえ混乱していた敵はいっそう混乱の度を深め、武器を持つものも多くは右往左往するばかり。帝国やサッラの騎兵が、攻めては退き、右から攻め寄せたかと思えば左に回りこみ、と繰り返すうちに、敵の歩兵は数十人ずつ本隊から切り離されては、切り刻まれることとなった。
 それでも時が経つに連れ、帝国の騎兵にも損害が目立ち始める一方、敵は態勢を立て直し始めた。特に敵の騎兵は、容易に切り崩す事のできた歩兵とは違い、侮りがたい相手であった。帝国騎兵にとってサッラ産の大柄な軍馬を持っていることは大きな強みではあったが、遊牧民族と思しき敵は小柄な馬を巧みに操る。 結果として帝国騎兵と、敵の騎兵は同数ならほぼ互角の戦いとなっていた。攻撃を繰り返すたび、一人、二人と兵士を失ってゆくのは、たとえその損害の数倍もの敵を屠った代償だとしても、僅かな戦力しか持たない騎兵部隊には大損害である。そして敵の歩兵が充分に隊形を整えることもできないままに、数を頼りに押し寄せてくるに至って、帝国騎兵には敵を押し留める術がなくなってしまった。
 サッラ騎兵や、帝国騎兵と行動をともにする遊牧民達は、敵と同等の騎乗術とサッラの軍馬の力によって、帝国騎兵よりはいくらかましな状態にあった。だが結局はごく僅かな兵力で、圧倒的な数の敵に向かっているには違いなく、いつしか守勢に立たされる羽目に陥っていた。最初は敵側面を突く事で敵に損害を与えたサッラの歩兵隊も、今では大河のうねりのように押し寄せる敵の前に、踏みとどまる事さえも危うい有様であった。

 サイスは軍の隊列より前に立ち、必死に兵士たちを励まし続けていた。当面の敵を追い払い、気の抜けてしまった兵士たちに、もう一度戦意を取り戻させ戦いに促す困難を知らぬ訳ではない。現に気力も体力も使い果たした兵士たちの足取りは重く、中には杖がわりにした長槍にすがって、ようやく歩を進める兵士もあった。無理も無い。戦闘は夜明け前に始まったというのに、もう日は中天を過ぎ西の空へと向かいかけている。傷を負っていない兵士といえども、気力体力ともに使い果たしているのだ。サイス自身も戦の激しい興奮が去った後に特有の、体中の力を搾り取られ、手足も萎えてしまうような虚脱にとりつかれていた。だが、僅か半ミーリアほど先には、まだ戦っている部隊がいる。それも酷い苦戦の末、壊滅してもおかしくないような状態で。
 サイスは幾度も声をあげ、兵士たちを励まし励まし、ようやく敵の前面に布陣をはじめた。味方の援軍に気付いた帝国騎兵が、駈け寄ってきたがその数は、数十騎ほどでしかなかった。
 両軍は暫く睨み合った。充分に陣形を整えた帝国軍と、戦闘の混乱のまま部隊をまとめきれずにいる敵、という状況は今朝の状況に酷似していた。だがサイスは、今度は動かなかった。

 長い睨み合いの後、最初に動いたのはサッラの部隊だった。帝国軍と行動を共にしていた遊牧民の騎兵と合流したサッラの部隊は、歩兵の両脇を騎兵が固める定石通りの布陣で、敵とサッラの城門の間を固めていたが、大地に落ちる影が長くなる頃、ゆっくりと退却をはじめた。
 サイスは馬上で身じろぎもせず、その退却を見守った。敵は逃げ腰になったサッラ軍を、襲撃しようとするだろうか…?しかし敵には全く動きがなかった。整然と城門の中に引き上げていこうとするサッラ軍を、ただ見送っている。敵にも余力がない事を確信して、サイスは帝国軍にも撤退を命じた。ゆっくり、整然と。たとえ敵が襲撃してきても対応できるよう気を配りながら、帝国軍は荷車で囲んだ自分たちの陣地へと戻った。敵はその間にも攻撃どころか、まったく動きを見せなかった。

 兵たちに食事の仕度をさせている間、サイスは各隊の隊長から、点呼の結果を報告させた。四千五百の重装歩兵は、ほぼ半減。二百いた騎兵のうち、生き残ったのは四十余り、戦える者はなお少ない。その他八百の軽歩兵、すなわち弓兵、投石兵、遊撃兵らも、それぞれ一割から三割程度の損失。
 暗澹たる心持のまま、塩漬け肉を入れた粥を受け取り、すする。塩味と熱さ以外、何も感じられない食事である。サイスは器に口をつけたまま、帝国軍の陣地とサッラの城門の間に横たわる空間を眺めた。長い一日の戦闘で踏みにじられた敵の陣地。隙間無く積み重なる死体の山を片付けようとする者は、いつしか集まり、音も無く舞い降りる無数の鳥以外誰も無い。引き倒された天幕は乾いた土にまみれ、ところどころに倒されずに残った支柱ばかりが粗末な墓碑のように突き立っている。その場に敵はいない。ただ濃厚な死だけが、空間を支配している。
 さて敵さん、日が変わる前にもう一戦交える気があるかな…?そう思いながら、サイスは食事を終えた兵士たちに天幕をたたむよう命じた。
「撤退か?」
「退却するのか?」
「グプタに逃げ戻るのか?」
続いて食糧、燃料、その他の装備いっさいを荷車に積みこむよう命じるサイスの耳に、兵士たちの囁き交わす声が聞こえてくる。撤退を喜ぶ声が無いのは、大変よろしい。サイスは堂々としたしぐさで、指揮杖を振り上げた。
「部隊ごとに整列。我々はこれより、サッラに入城する」
沈黙が周囲を圧した。兵士ばかりでなく隊長や幕僚たちまでもが、無言のままサイスを見つめていた。
「どうした。何故作業の手を止める?皆、作業を続けろ。もう終わっている者は整列するんだ!」
当たり前のように言葉を続けても、兵士たちの視線はサイスに注がれたまま。誰一人その言葉に従う者はいない。皆、自分たちの置かれた状況を正しく把握しているのだな。サイスは思った。帝国軍の兵力は半分に減ってしまった。特に騎兵は壊滅状態だ。それに対し敵のほうは、一度は蹴散らされたとは言え、まだまだ大きな兵力を持っている。相対的な戦力差は、むしろ増大したと言えるくらいだ。今、城門との間に敵がいないからといって、のこのこ出ていったら、両側から挟撃される。そして今度も帝国軍が、攻撃をはね返せるとは限らない。そう考えるのが当然だろう。
「安心しろ。我々が出ていっても、敵は攻撃しない。昼間、皇軍の強さをあれほど見せつけたのだ。敵にはもう、皇軍と戦う気力は無い。我々が目の前を横切っても、天幕の中で怯えて震えているに違いない」
重い沈黙の中、幾つかの笑い声があがった。その声を耳にした兵士たちの表情が、少しだけ緩んだ。母であればもっと上手くやったんだろうが、とサイスは思った。それでもこれで充分だろう。
「さあ、作業を再開しろ。日が暮れる前に着かないと、街に入れてもらえないぞ」

 荷車を通すためには、折り重なる屍をどかして道をつくらねばならなかった。二百人ほどの兵士たちが、部隊の先鋒として死体の除去にあたる。二人一組で、 一つずつ死骸を運ぶ。邪魔にならないところに、勢いよく死体を放り出すと、何十羽もの鳥たちが泡を食って飛上がる。時には四人、あるいは六人で軍馬の死骸 をどかさなければならないこともある。そんなことが延々と続く。
 いったいどこから涌いて出たのかと思うほどの鳥たちが次々と飛上がり、空を真っ黒に覆い尽くしていた。黒やこげ茶色の羽毛に身を包む、悪食な猛禽ども。 連中は驚いて飛上がると暫くは宙で円を描いているが、やがてまた地上に降りたって、その鋭い嘴を容赦無く倒れた戦士たちの目玉や頬に打ちこむのだ。更に遠くを見渡せば、上目づかいにサイスたちを睨みながら何頭かの山犬が、死体からはらわたを引きずり出し、鼻の頭から頬まで血に染まった口でひたすらむさぼっている。まるでわざわざ敷き詰めたような無数の死体の広がる野には、乾いた土地であるにもかかわらず、耐えがたい臭気が満ちる兆しがあった。

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