世界史 その14 アフリカの農耕文化

 オリエントの各地域、インド、中国、そしてエーゲ海の農耕文化の開始と文明の始まりについてここまで見てきた。ここで歴史のジャンルであまり語られないアフリカに目を向けてみようと思う。

 アフリカと一口に言っても、一つの大陸を丸ごと含むエリアであるので、その中での区分をまずはっきりさせないといけない。まずは古代より文明の栄えたナイル川流域、今までもエジプト・ヌビアとして取り上げてきた。そしてサハラ砂漠の北側、地中海に面する北アフリカ地域。早くからフェニキア人やギリシア人の活動の舞台となり、ローマ帝国の属州を経てイスラム文化圏に入って現在に至る地域だ。ヌビアを除くエジプトを含む北アフリカは、歴史的・地勢的には古くは地中海文明の領域、中世から現代に至るまではイスラム文明の領域となっている。
 一方でサハラ以南のアフリカはサブサハラ地域と総称されるが、気候・民族・文化のいずれもバラエティーに富んでいて、どの要素に注目するかで区分の仕方もかなり変わってくる。
 この項の舞台となるのはサハラの南側、エチオピアから現在サヘル地域と呼ばれているサハラ砂漠のすぐ南側の地域を経て、西アフリカのニジェール川流域に至る地域となる。

 この地域の初期の農耕文化について理解するには、サハラ砂漠の環境の変化について、まず述べなくてはならない。
 氷河期が終わり地球全体の気温が上昇すると、サハラ地域も湿潤期となる。紀元前9000年期頃からサハラ地域に人が戻り始める。紀元前8000年紀・7000年紀が湿潤のピークとなるが、紀元前5500年頃に短いが厳しい乾燥期があって、この地の文化がいったん途絶える。紀元前5000年紀・4000年紀には再び湿潤期となりサハラは草原となった。
 サハラの環境の変遷を説明するのによく引き合いに出されるのが、岩に描かれた動物の絵だ。紀元前8500年頃から多くの野生動物や狩猟の様子が描かれていたのが、紀元前6000年頃から家畜化されたウシの絵が描かれるようになる。紀元前2500年頃から乾燥が進むとともに野生動物が少なくなる。紀元前1500年頃~紀元後500年頃にはウマが、紀元前後から紀元後1000年頃まではラクダが多く描かれ、その後人々はサハラから南側やナイル川流域に移動していったらしい。

 アフリカ原産の作物として異彩を放っているのはヒョウタンで、ペルーでは紀元前1万3000年~1万1000年前、中国の河姆渡遺跡からは6500年前、日本の鳥浜遺跡の貝塚からは8500年前の果皮や種子が出土しており、人類の移動とともに世界に広がったことがわかる。人類は本格的な農耕を始めるよりもはるか昔から、種子を蒔けば収穫があることを知っていたのかもしれないし、単にヒトが持ち運んだヒョウタンから種がこぼれて、人の移動する先々で芽吹いていったということなのかもしれない。

 紀元前6000年頃~5000年頃にサハラに家畜のウシが現れる。その後、この地域や隣接する地域で農耕が始まっても、ウシに犂を引かせたり、休耕地を放牧地として利用したりするようなことはなく、農業と牧畜は別々に営まれていたようだ。これはこの地の人々が効率的なやり方を編み出せなかったというわけではなく、地域と時代によって変わる気候の中で、農耕中心の生活・牧畜中心の生活・半農半牧の生活を切り替えていくためだったのかもしれない。

 農耕文化に関する語彙の分析からは、紀元前3000年までには北緯5度以北のアフリカの大半で農耕が始まっていたようだ。アフリカの農業の特色として、アフリカ原産の植物の栽培がある。ニジェール川流域では我々の食べているコメとは別種類のイネであるグラベリマ・イネやメロン、フォニオという作物、サヘル地域ではモロコシ、トウジンビエ、ササゲ、オクラ、ナイル流域のエティオピア高地ではテフやシコクビエが栽培化された。
 農耕技術についてはエジプトから伝わったという説や、独自に生まれたという説があるが、麦類の育たない地域で独自の作物と農法が発達したことことは確かである。
 考古学的な農耕の証拠は紀元前2000年紀のモーリタニアやガーナの遺跡が最古になるが、アフリカ起源のモロコシが紀元前2500年頃のアラビア半島や紀元前2000年頃のインドに伝播しているし、紀元前1800年頃にはシコクビエもインドに渡っている。トウジンビエ、シコクビエ、モロコシは後に雑穀としてアジアでも広く栽培されることになる。

 ここから先は参考にした本にもはっきり書かれているわけではないのだが、ほのめかされているところから推察すると、ナイルからニジェール川に至るサハラ及びサヘル地域が湿潤な時代、人々は自生する植物を採取して利用していた。その中で人為的な選択により、利用する植物はゆっくりと栽培植物化していく。ゆるやかな半栽培の植物の利用が、農耕という手間のかかる仕事に変化したのは紀元前4500年頃の乾燥期のインパクト、もしくは湿潤期の人口増加による必要な食料の増加だろうか。
 こうしてナイル川からニジェール川に至るエリアに生まれたアフリカの農耕は更に南へと伝播してゆく。サハラとその周辺の乾燥化によって、人々が移動することで伝播には拍車がかかる。紀元前後には農耕文化は赤道を越え、南緯5度あたりまで広がった。この傾向は更にバントゥー系やナイロート系の民族移動によってアフリカ大陸南部にも及ぶことになる。これらアフリカの民族移動については、またその時代に改めて触れることにする。

 知識の乏しい部分について纏めるのは大変だ。無難に纏めるにしろ、大胆な仮説を持ち出すにしろ、しっかりした知識が無くてはできない。今回は中央公論新社の「世界の歴史24 アフリカの民族と社会」と講談社新書「新書アフリカ史改定新版」のおかげでまとめることができたけれど、それがなければ独立した項目で取り上げることもなかったかもしれない。
 世界史の中でアフリカ史が取り上げられにくい風潮については、また次に纏めたいと思う。

 本業のサイトもご覧いただければ幸いです。


 

もしサポートいただけたら、創作のモチベーションになります。 よろしくお願いいたします。