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七つのロータス第3章 ネム

 第1章から
 第1・2章のあらすじ

 薄い布を透して届く柔らかな光に目を覚ました。籐の寝台の固いながらも僅かに弾力のある感触を背中に感じる。周囲は一面だけが漆喰の壁、あとは布がめぐらせてあるだけ。掛布を押しのけて慎重に上体を起してみる。今日はだいぶ調子がいいみたい。久しぶりに起きだして、館の中を少し歩きまわることもできるかも知れない。思いきって寝台から出てみようか。ゆっくりと身をひねり、床に足をつけてみる。かすかに熱を溜めこんだ焼き煉瓦の感触。ゆっくりと足に力をこめて立ちあがる。慎重に動いたにもかかわらず、何日も伏せっていた体が悲鳴をあげた。頭が痺れて、周囲が暗くなる。真っ暗闇の中で世界がゆっくりと回転している。
 不意に意識が戻った。額や首筋、あるいは脇に汗が浮いてきているのがわかる。ゆっくりと周囲を見渡せば、あいかわらず柔らかな光の溢れる部屋の中央に立ち尽くしている。もう大丈夫。そう悟ると、傍らに用意してあった短衣を取り、剥き出しの上体を包んだ。
 部屋を仕切る布をそっと開くと、ロティがひとり繕い物をしていた。
「おはようございます。もう、お起きになっても大丈夫なのですか?」
「ええ、今日はだいぶ調子が良さそうです」
「そうですか、それは良かった」
そう言って笑顔を浮かべる女官に、つられて微笑を返す。ネムがこの館に迎えられてからというもの、ずっと親身に世話をしてくれた女性とはすっかり打ち解けていた。
「何か召しあがりますか?」
「そうね、お腹すいてる」
「食欲があるのは、よくなってきてる証拠ですよ」
笑顔を残して出ていく後姿を目で追いかける。大きな体でいつも朗らかに笑いかけてくれるロティがいなかったら、隣国の宮殿でこんなにくつろいだ気分になることはなかっただろう。さっきまでロティが座っていた椅子に腰掛け、卓に頬杖をついて中庭を眺める。穏やかな風が、ゆっくりと顔や腕をくすぐってゆく。 部屋の壁に大きく開かれた戸口の向こうは、強い陽射しを受けて、燃え上がるように輝く白い土の中庭。向かいの建物がつくる日陰の中で、雄の孔雀が身を縮めている。平和で安息が支配している。タラスだってほんの一月前は、こんなふうに平和だったんだ。視界がにじんで、ネムは目をしばたいた。
 牛乳粥の器と檸檬水の水差しをのせた盆を持って、ロティが戻ってきた。戸口で一瞬、身を強張らせたのはネムの涙を見たからに違いないが、ロティは何も言わず微笑を浮かべながら食事の仕度を続けた。
「アルタス様はまだお戻りではない?」
匙を口に運びながらネムは尋ね、慌てて付け加えた。
「ロティが良くしてくれてるからまだましだけど、名前も知らない人ばっかり。心細い」
おどけて肩をすくめてみせるネムに、ロティは相変らず満面の笑みを返すばかり。
「まだグプタに到着もしておりませんよ」
「族長のゾラ様は?今日は調子がいいから、そろそろご挨拶しないと」
「昨日までは帰っておいででしたけど、今朝方また離宮にお戻りになりましたよ」
「そう…」
サッラの首長一家は騎馬民族の伝統を失わぬため、年に一月以上を荒れ野の天幕で暮らす。そのテント村を離宮と呼ぶのは、タラスの人々にとっては笑いの種だったが、今となっては少しも面白くはなかった。

 膝までの腰布と胸と背中の半分を覆うだけの短衣の上から、軽い布地の長衣を被る。肩から踝までを包む細い衣の腰を、鮮やかな色の布紐で絞ると、取りあえず族長の娘としての威儀を損わぬ程度の服装が出来上がる。素足にサンダルを履くと、ロティの案内であてがわれた棟を出、内塀を越えて、館の裏庭へと向かった。本来は広い土の広場になっている裏庭には、幾つものテントが広げられている。ロティが引き下がり、かわりに槍を持った兵士がネムの傍らについた。見れば内塀にそって十人余りの兵士が立っている。
「タラスからの難民は、信用されていないのね」
「ご理解下さい。外庭とは言え、族長の館の中に見知らぬ人々を入れねばならなかったのですから」
兵士は慇懃な口調で釈明した。自身の身分は低そうだったが、貴人に対する態度を教え込まれているのだろう。ネムは無言で天幕の並ぶ方へ向き直った。
 二十人あまりの人々は、それぞれ四、五人ずつ寄り集まって座りこんでいた。ある者はテントの中にもぐりこみ、ある者は支柱に布を張って作った日陰に集まって、あるいは塀にもたれ掛かって強すぎる陽射しを避けている。誰もが疲れきった様子で、身動きもせず声もたてず、ただ黙って座りこんでいるのだった。 胸の中に何か大きな物が膨れ上がってきて、息が苦しいような気がする。ここ以外にも五十人ほどの難民が別の場所で保護されているとは聞いていた。だが、それにしたってなんと少ないのだろう。一つの都市を飲みこんだ災難から逃れてきた人々がこれほど少ないとは。
 ネムは一番近い所に座りこんでいた五人の人々に、ゆっくりと歩み寄った。
「ネム様!」
集団の一人がネムの姿に気付いた。ネムは立ちあがろうとするのを手で制し、彼等の傍らに膝をついた。
「怪我や病気はありませんか」
「はい、おかげさまで!」
どうやら家族らしい一団の、年長の男性が答えた。
「そう。不幸中の幸いですね」
ネムは一度言葉を切り、周囲を見渡した。
「本当に、こんなことになってしまって。ついこの間、街中の人達にあたしの誕生日を祝ってもらったのが嘘のよう…。あれから、いったいどれだけ経ったのかしら」
「あれは、三月前でございますよ」
乳飲み子を抱いた女が言う。年長の男の妻であろうか、娘であろうか、あるいは息子の妻かもしれない。
「そうだったわね。本当に、もう何年も昔のように思えます」
ネムはゆっくりと立ちあがり、衣に着いた土を払った。
「今は苦しい時ですが、いつかまた良い時が来ます。それまでの辛抱ですよ」
頭を下げる一家に背を向け、次の天幕に向かった。天幕の側には三人の若い男が固まっており、先の一家と話しているうちにネムに気付いたのか、こちらに体を向け地に手を突いていた。ネムはまた彼らの側にしゃがんで言葉をかけた。
「無事なようで、なによりです。当面は不自由があるでしょうが、こらえて下さいね」
男たちは無言のまま、繰り返し頷いた。
「あたしの誕生日を祝ってもらった時には、ほんの数ヶ月の後にこんなことになってしまうなんて思いもしませんでしたね。憶えてらっしゃいますか?街中の大路にあたしの好きな百合の花が飾られて、それはきれいだった…」
ネムの目に涙が浮かんだ。
「勿論ですとも、忘れるものですか!」
一人の答えに微笑を返し、静かに立ちあがる。見上げる男たちに軽い会釈をして、また次の人の輪に向かう。
 次々と難民たちを見舞い、半時ほどを裏庭で過ごした。その間、ネムの背後には先の兵士が槍を携えたまま、辛抱強く控えていた。静かに油断なく目を配る兵士の視線は確かだ。ネムはこの兵士を信用する事にした。
「ねえ」
裏庭と内陣を隔てる塀の門まで来たところで、ネムは兵士に囁いた。
「あたしが二番目に話しかけた人たち、わかりますね」
「はい」
「あの人たちを捕らえてください。他の人たちに悟られないように静かに」
「なんですと!」
兵士は驚き、慎みも忘れてネムの顔をまじまじと見た。
「あの人たちはおそらく敵です。あたしの誕生日に街を飾ったのは、街の紋章にあしらわれている薊の花。百合なんかとは間違えっこない」
兵士はしばし無言で立ち尽くしていたが、やがて青褪めた顔のまま、他の兵士たちの方へ早足で歩み去った。
 嵐はタラスばかりなく、このサッラにまで迫ろうとしている。ネムは恐ろしい予感に身を強張らせた。

 タラス以外のオアシス都市を偵察に出た一隊は、夜半に戻ってきた。街の門はすでに閉ざされていたが、困難な仕事を終えて戻ってきた者たちの為、特に門が開け放たれた。同時に深刻な報せが、城内を駆け巡る。滅ぼされたのはタラスだけではなかったのだ。隊商がやってこないのを不振に思う者もないほどの短期間のうちに、他にも六つのオアシス都市が、占領され、あるいは完全に廃墟と化していた。街中が炎で焼かれ、生きた人間は誰一人として残っていない都市もあった。回復しきっていない体を気遣って早目に休んだネムも、タラスからサッラへ避難しようとしていた難民が保護された、という報せに慌てて身支度を整えた。
 館の正門の内側にある広場は、かがり火に照らされた武者たちで埋められていた。馬に跨ったままの戦士たちの間に、数人のやつれた男たちが所在なげに立ち尽くしている。その中に見知った顔があった。
「クシュ!」
ネムは乳母の夫に駈け寄って、その手を取った。
「姫様、よくぞご無事で…」
男は言葉を詰まらせた。
「ルチエは?どうなったか、わからない?」
「妻は…、殺されました。敵の剣に刺し貫かれて地に頽れるのをこの目で見ました…」
ネムは目に涙を浮かべた男を無言で抱き締め、両腕を丸めた背にまわした。
 暫くそうしていてから、こんどは他の人々に向き直った。
「皆、タラスから?」
「ええ、途中で行きあって、一緒に…」
クシュが背後から答える。ネムは素早く辺りを見まわした。いつのまにかネムの左後ろ、護衛の位置に昼間の兵士が貼りついている。一瞬、口元が固く強張るのを、なんとか微笑に取替える。静かに息を吐き出すと、難民たちひとりひとりに、ねぎらいの言葉をかけてゆく。
「あなたのお顔、お見かけしたことがありますね。お祝いの時、街の広場で」
最後の若い男の前で、ネムは言った。
「光栄です」
男は慌てたのか、しばし口篭ってから、ようやくそう言った。
「旅の大道芸人だと言ってたのに、本当はタラスの人だったのですね」
その言葉を聞くや、男の顔色が蒼白になった。と、ネムは後から右肩を掴まれ、乱暴に引き摺り倒された。その体を銀色の光を放つ小さな刃がかすめる。地にしりもちをついたネムは、わずか一瞬の差で自分が短剣の一撃をまぬがれたのを、即座に悟った。ネムが下から見上げる視界の中を、男が伸ばした腕を引くのよりも早く、兵士が突き出す槍が横切る。槍の石突が相手のみぞおちに叩きこまれる。兵士は仰向けに倒れこんだ相手の腹を足で踏み、顔に槍の穂先を突きつけた。 周囲の兵士や騎士たちも駆け寄って狼藉者を取り囲む。
 痛みをこらえるネムの顔の前に、兵士の手が差し出された。素直にその手を取って立ちあがる。男が両脇を押さえられながら引きたてられてゆくのが、視界の片隅に映った。
「手荒な真似をしてすみませんでした。しかしもう少し慎重に振舞っていただきませんと…」
ネムは乱れた衣をなおすと、兵士に向き直った。
「仕方ないでしょう。あたしにも確信がなかったのだから」
そして危険を危うくかわして紅潮した顔に、柔らかな笑みを浮かべた。
「ありがとう、命を助けていただいて。感謝していますよ」
兵士は呆気にとられたまま、口もきけなかった。

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