日野は何を残したか: 今村夏子『むらさきのスカートの女』を読んで
『むらさきのスカートの女』朝日文庫版(以後『むらさき』)の解釈はかなり割れているようだ。それもそのはず、この小説はどこに着目するかで、どうにでも解釈できる。私も、いくつかの解釈が浮かんだ。
そうして思いついたものの中でも、「むらさきのスカートの女」・日野は裏の世界から迷い込んだという説を提示したい。この解釈はかなり恣意的なもののように思われるが、こうすることで全てがつながってみえるようになる。
また、本稿では、日野が権藤にどんな影響を残して去っていったのかという点についても検討したい。「むらさきのスカートの女」と出会うことで、権藤は何か変わったのだろうか?それとも何も変わらなかったのか。
現れて消えた「むらさきのスカートの女」
まず、ストーリーを確認しよう。
「むらさきのスカートの女」は物語の冒頭から現実世界に紛れ込んでいる。同じパンばかりを食べ、他者からの物理的攻撃を必ずかわすといった個性全開の「むらさきのスカートの女」に、主人公・権藤は自然と惹かれる。友達になりたがり、ストーキングを始め、いろいろなことがわかってくる。仕事を転々としてること、公園でいつも奥の席に座っていること・・・。
定職につけなかった「むらさきのスカートの女」だったが、ついに紆余曲折を経て、権藤と同じホテルの清掃の仕事を得る。そこで「むらさきのスカートの女」は存在を認められ、仕事が楽しくなると、日野は仕事に精を出す。そして、仕事を頑張る姿が目に留まったのだろう。愛人という立場ではあるが、所長と恋に落ち、色気付いていった。自然と化粧も濃くなる。
日野のシンデレラストーリーが始まったのも束の間、転機が訪れる。とあるバザーに日野と権藤が務めるホテルの備品が出品されており、その日野が窃盗したものであるという疑いがかけられたのだ。共犯を疑われた所長は、愛人・日野を訪ね、日野に罪を擦りつけようとした。それに反発した日野は、うっかり所長を突き落としてしまう。自分の罪と、動かなくなった所長に動揺した日野に、権藤が助け舟を出した。日野に逃亡を指南し、そのまま日野は姿を消した。それ以来、権藤も彼女に会うことはなかった。
早足で確認したがこんな感じである。
裏の世界からやってきた「むらさきのスカートの女」
ここまで、ストーリーを確認したところで、さっそく冒頭で提示した問題に迫りたい。
その問題とはつまり、むらさきのスカートの女が裏の世界からやってきたとなぜいえるのか、である。
まず、読者は、権藤がなぜここまでむらさきのスカートの女に執着しているのか気になったであろう。権藤は時にはぶつかりにいき、時には公園で待ち伏せする。極めつけには、犯罪をしたむらさきのスカートの女の逃走を助けようとする。変な振る舞いをすることが多いから付き纏って観察してみた、なんてことが執着の動機ではないことは明らかである。
興味本位で付き纏ったというよりも、権藤は自分の孤独な姿をむらさきのスカートの女に重ねていたからこそ、むらさきのスカートの女に執着したのではないだろうか。直接的に描かれていなくとも、権藤が現実世界で浮いた存在であることが想像できる。孤独に生きる権藤だからこそ、自分と同等またはそれ以上に孤独な人間を見つけたいと思っていた。
しかし、そのような人物は現実世界で簡単には見つからない。孤独に生きる人間同士が繋がることは非常に困難だ。だからこそ、権藤はむらさきのスカートの女を実体化させたのではないだろうか。あれだけあからさまにストーカーをしても、権藤を遠ざけようとしないむらさきのスカートの女の姿は、あまりに非現実的だ。権藤にとって都合が良すぎる対象を、権藤が裏の世界から召喚したと考えれば意外と腑に落ちる。
似たような設定は、辻村深月『冷たい校舎の時は止まる』でも見られる。8人の高校生が不思議な校舎に閉じ込められ、いろいろな展開をみせる話なのだが(あらすじを書こうとすると長くなるから割愛する)、その本の後半では登場人物内の一人・菅原は実際には存在しないことが明らかになる(正しくは、現実世界にいる人物をモデルとする空想上の人間が、高校生の姿に実体化したもの)。つまり、その登場人物の持つ観念があまりにも強いから、それが現実世界に実現してしまったのである。これは『むらさき』にも共通する。
権藤に与えた2つの影響
権藤は、孤独を感じていたからこそ、自分の姿と重なる実体を裏の世界から召喚した。これが私の提示した説だ。そして、本稿のもう一つのテーマである、むらさきのスカートの女が残した影響について検討したい。
権藤と同じく孤独だったむらさきのスカートの女はしかし、孤独から卒業する。むらさきのスカートの女は社会の中でどんどん地位を獲得していったのだ。権藤とは対照的だ。恋をし、自信をつけてきたむらさきのスカートの女は、孤独とは一時無縁となる。しかし、窃盗の容疑をかけられ、むらさきのスカートの女は再び孤独の底に落とされた。そんなタイミングで、彼女は権藤と最接近する。そこで権藤は「わたしは、黄色いカーディガンの女だよ」といった。このセリフをどう解釈するか。
これは、黄色と紫、スカートとカーディガンという組み合わせに着目するのが最良と言えるだろう。黄色と紫は、中学美術で習うように色相環において反対の色だ。つまり、一方がもう一方と合わさることで、両方の色が映える組み合わせである(青と黄色、赤と緑なども)。補完物の関係にある。そして、カーディガンとスカートも同様だ。一方は上半身、もう一方は下半身。その両方が揃って初めて、上下のコーディネートが完成する。
ただ、これらは、補い合うという意味にとどまらない。むしろ、対立物としての性質を強調される場合がある。例えば、白黒つけろという言い回しがあるが、この時の白と黒は対立的な関係にあり、両者が交わる事は無い。紫と黄色の件についても同様に考えられる。2つの色は対立している。
ここまでの話を踏まえると、「わたしは、黄色いカーディガンの女だよ」というセリフは補完・対立の両義的な意味を持つと解釈できるのではないだろうか。すなわち、孤独であり続けた権藤が、孤独を脱したむらさきのスカートの女のようにはなれなかったことを確認するセリフとして。他方では、再度孤独に転じたむらさきのスカートの女と権藤が合わさってこそ孤独を共有できるという意思確認のセリフとして。権藤にとってむらさきのスカートの女は、孤独を乗り越えたいという心の中の希望を体現したもの(対立物)、そして孤独を補い合うもの(補完物)、両方の意味を持っていた。
そんなむらさきのスカートの女に、権藤は接近し過ぎてしまった「裏の世界」からの使者に近づき過ぎてしまった。非現実は、現実と接近しすぎると効果を失ってしまう。権藤は、それ以降、むらさきのスカートの女に会うことはなかった。むらさきのスカートの女は現実の世界から裏の世界へ帰還してしまったのである。そして、権藤はふたたび孤独に生きる道を選んだ。
おわりに
宮﨑駿監督作品、『君たちはどう生きるか』をご覧になった方はいるだろうか。
『君たちはどう生きるか』は、一言で表すなら実母からの離脱の物語である。アオサギに引き寄せられ「裏の世界」(作品中では「下の世界」)に連れられた主人公・眞人は、その世界で少女の姿になった実母・ヒミに出会う。そしてヒミに助けられながら、いくつもの災難を乗り越え、実世界へ戻ることができた。実世界へもどる過程で、実母へ執着することをやめ、新しい母親や弟を受け入れる決意をする。そんな少年の成長物語である(『君たち』は細部こそが面白いから、まだ見ていない方はぜひ見てほしい)。
じつは、この『君たちはどう生きるか』をふと思い出したことが、上記の発想を得たきっかけだった。そういえば、裏の世界と通じている物語があったなあと。実際、『むらさき』は明示的に「裏の世界」に言及しなかったが、むらさきのスカートの女を裏の世界からの使者であると解釈すれば、いろいろな点が腑に落ちる。裏の世界と現実社会の緊張感。『むらさき』に漂う不気味な雰囲気はここから生まれていたのかもしれない。
両作の設定には大きな違いがあるが、決定的な違いは、過去の自分からの離脱を決意した眞人とは反対に、所長に借金をしてまで元の孤独な生活に戻ることを決意した権藤は、結局なにも変わらなかったということだ。むらさきのスカートの女との衝撃的な出会いを経てもなお、孤独からの離脱はしなかった。
やや後味が悪い気もするが、これはこれで、現代の我々にも考えさせられることがある。社会性を身につけ、「むらさきのスカートの女」としてでなく人間・日野として社会の歯車として働くことになっても、その努力が裏切られるというのは、日野に限った話ではないのだ。われわれは常に、孤独から逃げようとするが、その先に待っているのもまた地獄であることが多い。孤独でもなく、生きにくい社会生活でもないちょうといい生活がいい。バスに向かって姿を消したむらさきのスカートの女の背中を想像し、そう思った。
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