わたしが洗礼を受けた後

 神を信じる道をたどる
   わたしは小さいころからお母さんと共に菩薩を信仰していました。だが、結婚した後、夫が鬱病にかかったため、家の中でごたごたが絶えなかったのです。この時、わたしは菩薩や如来を信仰しても役に立たないと感じました。そのため、わたしの気持ちがずっと落ち込んでいました。ある日、わたしは一人の年取ったおばさんに出会いました。彼女はわたしに主イエスを信じるように勧めました。主イエスは真の神であって、天地万物を創造することができるだけでなく、また死人を復活させ、生きている人を変えることができると、彼女はそう言いました。彼女のこの言葉がわたしの心を動かしました。あの時わたしは、自分が主を信じた後、主がいつでもわたしを助け、またわたしの頼りとなることを期待していました。そのため、わたしは神を信じる上で大きな力を持っています。週末になると、わたしはこのおばさんと一緒に教会堂に行って集会に参加します。わたしは一度も欠席しようとしません。

    洗礼を受けてキリストに結ばれた
    数か月後、教会堂は洗礼を受けることになった兄弟姉妹たちに勉強会に参加することを知らせました。わたしは「洗礼を受ける」という言葉を聞くと、この言葉が新鮮だと感じ、それに好奇心を持つようになりました。すると、わたしはおばさんに、洗礼を受けるとはどういうことか、なぜ洗礼を受けなければならないかを聞きました。おばさんはこう言いました。「洗礼を受けることは、一種の儀式のように見えますが、わたしたちが主の追随者になるのに必要な手順です。洗礼を受けると、わたしたちは神の家の人になります。こうして、大きなことにおいても小さなことにおいても、神はわたしたちを助けてくださいます。しかもわたしたちがどこへ行っても、神はわたしたちを顧みます。今、あなたは主を信じたけれど、洗礼を受けていません。それは、あなたがまだ神の家の門の外にいることを意味しています」。わたしは洗礼を受けることがこんなに重要だと聞くと、「わたしも洗礼を受けて神の家の一員になりたい。わたしは門の外の者になりたくない!」と思いました。それ以後、わたしは心の準備ができて、その日の到来を切に待ち望んでいました。

わたしが洗礼を受けた後

    洗礼を受ける日がとうとう来ました。その日、わたしは早々と集会所に着きました。そこに着いた時、十数人の洗礼を受けたい人はもう列を作って待っていました。わたしはどのように洗礼を受けるかを見てみたくて、あたりを見回していました。この時、牧師は道を説き、次の言葉を読みました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28:19-20)。牧師がクリスチャンが洗礼を受けることの意義を語った後、洗礼を授ける儀式は始まりました。都会に川がないから、洗礼を授ける儀式は非常に簡単でした。水を入れた洗面器1つ、タオル1本、牧師1人、手伝い人1人。当時、ある姉妹が地面にひざまずいていました。手伝い人は水を入れた洗面器を両手で持って、牧師のそばで立っていました。牧師があの姉妹の名前を呼ぶと、あの姉妹は返事をしました。牧師は「わたしは聖なる父と聖なる子と聖霊の名によってあなたに洗礼を授けます」と言い、そして手で水をすくってこの姉妹の頭上に注ぎました。この時、手伝い人はすぐタオルでその水をぬぐいました。こうして、洗礼を授ける過程が終わりました。牧師がわたしに洗礼を授ける時、わたしは自分がもうすぐ真のクリスチャン、神の家の一員になると思って、言い表せないほど喜び、興奮しました。

    この小さな儀式はわたしに次のことを分からせました。洗礼を受けることは、すべての信徒に対する主の要求です。それは、信徒がキリストが死に、葬られ、復活したことを認めることを意味しています。儀式の形式から言えば、わたしたちの体が水に浸ることは、わたしたちが罪の中で死ぬことを象徴し、わたしたちが水から上がることは、救いによって、きよい聖なる命が現れることを象徴します。ローマの信徒への手紙第6章4節でこう書かれています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。わたしたちがキリストを受け入れ、イエスと共に死ぬことによって、罪はもはや死んだわたしたちを束縛しなくなります。神がこう言われたからです。「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」(ヘブ8:12)。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。……

    信じて洗礼を受ける者は救われると、わたしは確信している
    洗礼を受けた後、わたしは非常にうれしかったのです。洗礼を受けたその瞬間、わたしの命はもはや罪、邪悪な勢力に属さなくなり、もはや自分に属さなくなり、それ以後、神がわたしを顧み、守り、わたしと共にあると、わたしは思っていました。なぜなら、神は人を赦し、また人の罪を赦されました。しかも主は「信じて洗礼を受ける者は救われる……」(マコ16:16)と言われました。だから、それ以後の日常生活の中で、わたしは主の言葉にしたがって行うことをいっそう重んじます。ある時、夫は気持ちが悪くて、わたしをののしりました。すると、わたしはつらい気持ちになって、彼がご飯を食べるかどうか、腹がすいたかどうかをかまいたくなくなり、彼と一言も話さないと決めました。しかし、主がわたしたちに人を七十七回赦すように教えたことを思い出し、また聖書に「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません」(エフェ4:26-27)と書かれている言葉を思い出した時、わたしは進んで夫と話し、依然として彼の生活を気遣うのでした。わたしはまたいつも、我が家の近くに住んでいる、生活に困った姉妹を助けます。祝日、休日になると、彼女にお金を施して、彼女に家族の生活を改善させます。もし入院する姉妹があれば、わたしは栄養食品を買って、ほかの姉妹と一緒に病院に見舞いに行き、また彼女のために祈ります。特に毎月聖餐式が行われる時、わたしはいくら忙しくても参加します。わたしは次のことをかたく信じています。わたしが洗礼を受けた後、主はもはやわたしの罪を覚えなくなります。わたしが依然として罪を犯すのですが、わたしが聖餐を食べるたびに、主の尊い血がわたしの罪をきよめます。そのため、わたしはきっとキリストの中で聖なる者となります。しかも主イエスが御国に入られる時、わたしがきっと天の国の中に携え上げられることができます。

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