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イザヤが預言したキリストの受難(2)

先回に続いて、イザヤによるキリストの受難の預言とその成就を見ていきたいと思います。

口語訳からの引用がメインですが、よりわかりやすい訳がある場合はそちらを用いています。

(罪は、「咎(とが)」「背き」「不義」といった言葉でも表現されています。)

まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
(イザヤ53:4)

「病」と「悲しみ」は、それぞれ「わずらい、悲しみ」「痛み、苦しみ」とも訳されています。

イエスは私たちの悲しみや苦しみを担うために、また、私たちに代わって受難の苦しみを味わうために、私たちと同じ肉体を取って、この世に来られました。

マタイは、イエスが人々の病をいやされたのも、この預言の成就の一部であると記しています。(マタイ8:16-17

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
(イザヤ53:5 新改訳第3版)

イエスは私たち人間の罪の身代わりとして十字架にかかり、手足や脇を釘とやりで刺されて砕かれ、その前にはムチで打たれて傷だらけになりました。

イザヤの時代の処刑法はユダヤ式の石打ちであり、十字架刑が始まったのは紀元前1世紀にローマに支配されてからのことだったので、「刺し通され」という表現は非常に興味深いものです。

われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
(イザヤ53:6)

罪と言えば、蛇や狼のような犯罪人を思い浮かべ、自分は関係ないと考える人が多いかもしれません。

でも、羊のようにおとなしそうな人でも、羊飼いである神なしに自分の道を行き、知らず知らずの内に罪を犯してしまうものです。(罪の自覚が、救いの第一歩になります)

彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
(イザヤ53:7)

イエスは裁判で、ののしられ、嘘の証言によって責められても、反論することはありませんでした。(マタイ27:11-14

「正しいさばきをするかた【神】に、いっさいをゆだねておられた」のです。(1ペテロ2:23

ちなみに、エチオピアの王室に仕えていた高官は、この箇所を読んだことがきっかけでイエスについて知り、洗礼を受けています。(使徒8:26-38

彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
(イザヤ53:8)

不当な裁判の結果、イエスの命は断たれましたが、それは私たちの罪のために、身代わりとなってのことでした。

彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
(イザヤ53:9 新改訳第3版)

イエスは二人の強盗と共に十字架にかけられたので(マタイ27:38)、墓も一緒に用意されていたはずですが、ヨセフという金持ちが遺体を引き取って、自分の墓に納めました。(マタイ27:57-60

しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
(イザヤ53:10)

当時、民の罪が赦されるように、その身代わりとして小羊のいけにえが献げられていましたが、イエスは誰でも信じる人の罪を赦すために、私たちの罪の身代わりとなってご自身の命を献げられました。(ヨハネ1:291ヨハネ2:2

「生けるものの地から断たれ」ながらも「命をながくする」ことができたのは、復活されたからであり、「その子孫」とは、受難と復活のゆえに生まれた多くのクリスチャンのことです。

彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
(イザヤ53:11)

母親が出産の痛みの先に新しい命を見るように、イエスは「自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍」ばれました。(ヘブル12:2

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。
(イザヤ53:12 新共同訳)

イエスは、罪人のひとりに数えられることをいとわず(ルカ22:37)、十字架の上で「とがの供え物」として自らの命を献げるという激しい戦いの結果、「取り分、戦利品」として、多くの人をサタンの手から解放してくださいました。

このように、イザヤの預言には、受難の目的や意義がはっきりと描かれており、それは、罪のない方が私たちの罪を背負って身代わりとなることによって、私たちが罪から救い出されることです。(参照:『贖い(あがない)とは』)

それほどにも深い神の愛を感謝します。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
(1ヨハネ4:10-11)

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