イザヤが預言したキリストの受難(2)
先回に続いて、イザヤによるキリストの受難の預言とその成就を見ていきたいと思います。
口語訳からの引用がメインですが、よりわかりやすい訳がある場合はそちらを用いています。
(罪は、「咎(とが)」「背き」「不義」といった言葉でも表現されています。)
「病」と「悲しみ」は、それぞれ「わずらい、悲しみ」「痛み、苦しみ」とも訳されています。
イエスは私たちの悲しみや苦しみを担うために、また、私たちに代わって受難の苦しみを味わうために、私たちと同じ肉体を取って、この世に来られました。
マタイは、イエスが人々の病をいやされたのも、この預言の成就の一部であると記しています。(マタイ8:16-17)
イエスは私たち人間の罪の身代わりとして十字架にかかり、手足や脇を釘とやりで刺されて砕かれ、その前にはムチで打たれて傷だらけになりました。
イザヤの時代の処刑法はユダヤ式の石打ちであり、十字架刑が始まったのは紀元前1世紀にローマに支配されてからのことだったので、「刺し通され」という表現は非常に興味深いものです。
罪と言えば、蛇や狼のような犯罪人を思い浮かべ、自分は関係ないと考える人が多いかもしれません。
でも、羊のようにおとなしそうな人でも、羊飼いである神なしに自分の道を行き、知らず知らずの内に罪を犯してしまうものです。(罪の自覚が、救いの第一歩になります)
イエスは裁判で、ののしられ、嘘の証言によって責められても、反論することはありませんでした。(マタイ27:11-14)
「正しいさばきをするかた【神】に、いっさいをゆだねておられた」のです。(1ペテロ2:23)
ちなみに、エチオピアの王室に仕えていた高官は、この箇所を読んだことがきっかけでイエスについて知り、洗礼を受けています。(使徒8:26-38)
不当な裁判の結果、イエスの命は断たれましたが、それは私たちの罪のために、身代わりとなってのことでした。
イエスは二人の強盗と共に十字架にかけられたので(マタイ27:38)、墓も一緒に用意されていたはずですが、ヨセフという金持ちが遺体を引き取って、自分の墓に納めました。(マタイ27:57-60)
当時、民の罪が赦されるように、その身代わりとして小羊のいけにえが献げられていましたが、イエスは誰でも信じる人の罪を赦すために、私たちの罪の身代わりとなってご自身の命を献げられました。(ヨハネ1:29、1ヨハネ2:2)
「生けるものの地から断たれ」ながらも「命をながくする」ことができたのは、復活されたからであり、「その子孫」とは、受難と復活のゆえに生まれた多くのクリスチャンのことです。
母親が出産の痛みの先に新しい命を見るように、イエスは「自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍」ばれました。(ヘブル12:2)
イエスは、罪人のひとりに数えられることをいとわず(ルカ22:37)、十字架の上で「とがの供え物」として自らの命を献げるという激しい戦いの結果、「取り分、戦利品」として、多くの人をサタンの手から解放してくださいました。
このように、イザヤの預言には、受難の目的や意義がはっきりと描かれており、それは、罪のない方が私たちの罪を背負って身代わりとなることによって、私たちが罪から救い出されることです。(参照:『贖い(あがない)とは』)
それほどにも深い神の愛を感謝します。