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「裁いてはいけない」

11月16日は、国連の定めた国際寛容デーです。

聖書には、他者の言動を一方的に間違いや悪と見なしたり、厳しく責め立てたりせず、忍耐強く見守るという意味で、寛容について多く書かれています。

たとえば、第1コリント13章にある愛の定義の1つ目は寛容です。

「愛は寛容であり、愛は情深い。」(1コリント13:4)

また、イエスは別の角度からも寛容について語っておられます。

「人を裁くな。裁かれないためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。」(マタイ7:1-3 聖書協会共同訳)

「裁く」とは、裁判をすることや、責任を与えられた機関や個人が物事を審査・判断することを言っているのではありません。

自分の価値観や基準、経験、常識などの尺度(秤)によって、他者を一方的に非難し、間違っていると決めつけることを意味しています。

そのように自分のことを棚に上げて、人の間違いや欠点ばかりを指摘する(あるいは決めつける)態度を、元大工であったイエスは「おが屑と梁」にたとえられました。

自分の目にある「梁」を取り除き、自分勝手な「秤」を捨てて、相手の立場になって考えるなら、それは決して相手の間違いではなかったと気づくこともあるし、間違いであったとしても、その人をもっと理解の目で見られるようになることでしょう。

私たちは、自分が当事者か証人、あるいはただの傍聴人に過ぎないのに、裁判官として振る舞いがちです。

本当の裁判官である神は、すべての状況や背景、動機をご存じなので、正しく裁くことができますが、私たちが知っている(あるいは、知っていると思いこんでいる)ことはほんの一部に過ぎません。

神が私たちのすべてを知っていながら、それでも寛容であられるように、私たちも他の人に対して寛容であれますように。

「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。」(ピリピ4:5)

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