主よ、いつまでですか
少し前に、友人から「祈ってほしい」と連絡があり、話に耳を傾けている内に、「主よ、いつまでですか」という詩篇13篇からの言葉が思い浮かびました。
その人の悩みは、かなり長い期間続いている問題が関係しており、「主よ、いつまでですか」という問いは、本人もそうだと思いますが、聞いている私にとっても、自然と出てくるものだったのです。
そこで、電話口で友人のために祈りながら聖書を開き、祈りの言葉の一部として詩篇13篇全体を引用しました。
信仰のあるなしに関わらず、人生に逆境や痛みはつきものですが、そこであきらめるかどうかはその人の選択です。
この詩の作者ダビデは、出口の見えない絶望の中にあっても、あきらめずに祈り続けることを選択しました。
2節ずつ、3つのパートに分かれているので、パートごとに見ていきましょう。
まず、この詩はダビデの魂の叫びで始まります。
主よ いつまでですか。
あなたは私を永久にお忘れになるのですか。
いつまで 御顔を私からお隠しになるのですか。
いつまで 私は自分のたましいのうちで
思い悩まなければならないのでしょう。
私の心には 一日中 悲しみがあります。
いつまで 敵が私の上におごり高ぶるのですか。
(詩篇13:1-2 新改訳2017)
この短い箇所で、4度も「いつまでですか」と尋ねていることから、絶望の深さが分かります。
不平を言っているようにも見えますが、私たちが神のもとへ行く時、何も取り繕う必要はなく、苦悩をすべてそのまま、正直に神に伝えることができます。
そして、ダビデはただ窮状を訴えるだけではなく、それを次の祈りに変えているのです。
私に目を注ぎ 私に答えてください。
私の神 主よ。
私の目を明るくしてください。
私が死の眠りにつかないように。
「彼に勝った」と 私の敵が言わないように。
私がぐらつくことを 逆らう者が喜ばないように。
(詩篇13:3-4 新改訳2017)
あなたにも、「敵」がいるでしょうか。
それは、職場や学校、SNS、近所などで、あなたを憎んで攻撃し、意地悪をし、悪い噂を広めるような人かもしれません。
あるいは、人ではなく、病気だったり、過去のトラウマや将来への恐れだったりするかもしれません。
そして、すべての人の魂の敵である悪魔(1ペテロ5:8)もいます。
ダビデの場合、彼を殺そうとする人か、死に至りそうな病気だったのかもしれません。
魂の叫びから始まった祈りは、苦しみから解放してほしいとの願いに変わり、さらにここで、感謝に変わります。
私はあなたの恵みに拠り頼みます。
私の心はあなたの救いを喜びます。
私は主に歌を歌います。
主が私に良くしてくださいましたから。
(詩篇13:5-6 新改訳2017)
現実の状況はまだ変わっていないでしょうし、しばらくは変わらないかも知れませんが、祈りが聞かれ、救いが訪れるという確信にあふれています。
なぜダビデがそれほどの確信を持てたかというと、「あなたの恵み」に信頼しているからです。
恵みと訳されたヘブル語の「ヘセド」は、「いつくしみ」「あわれみ」とも訳されており、「契約にもとづいた、変わることのない誠実な愛」を意味する重要な言葉です。
「契約にもとづいた」と言っても、契約の義務に縛られて表面上だけ何とかするということではなく、心から愛しているので契約を結んだ相手を、神は決して見捨てることがないということです。
ダビデは過去を振り返り、主が恵みを示し良くしてくださった時のことを思い出して、今回も自分を見捨てることはないと確信したのでしょう。
そうなると、彼にとって、苦境が「いつまで」続くのかは一番大切なことではなくなりました。
「いつまでも」(永遠に)続くものの方が大切であり、それは、神のヘセド、つまり、自分を見捨てることのない愛です。
主は恵みふかく、そのいつくしみ[ヘセド]は、いつまでも絶えることがない。(エレミヤ33:11)
心が辛くてたまらない時、正直にそれを神に打ち明けると共に、神は私たちの「悩める時のいと近き助け」(詩篇46:1)であり、その愛は決して私たちを見捨てることがないのだと覚えていてください。
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