父としての幸せ、子としての幸せ
昨日は父の日・・皆さんは何かされましたか。
私は、父に感謝するとともに、自分自身が父親であることの幸せをあらためて感じました。
息子とは、これまで楽しい時間をたくさん過ごしてきたし、叱らなければならない時や、ぶつかる時もあったけれど、一緒に過ごしてきた時間の記憶はすべてかけがえのないものです。
天の父である神もきっと同じように、私たちがあまり「いい子」ではなかった時も含めて、私たちとの時間をすべて大切なものとし、父親である喜びを感じておられるのではないかと思います。
そう思うのは、イエスがそのように私たちを愛し、喜んでくださるからです。
人それぞれ、自分自身の父親の姿と重なる「父親像」を持っており、特に聖書を読み始めたばかりの頃は、その父親像に照らして、父としての神を考えがちです。
厳しい裁判官のようだ、逆に自分をほったらかしにする、また、助けが必要な時そこにいない・・そんなイメージを持っている人もいることでしょう。
弟子たちとの最後の食事の席で、イエスは大切なことを告げています。
ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します。」 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。」(ヨハネ14:8-9)
イエスがどのような方だったかを見れば、神が愛情深く、私たちを大切に世話し、思いやりや赦しに満ちた父だと分かるのです。
旧約聖書にも、神が父であることは書かれていましたが、それは神の民全体の父ということで、個人的なものではありませんでした。
でも、イエスは神を個人的に「父」と呼び、また私たちもイエスを信じて受け入れることで、神を父と呼べるようにしてくださいました。
彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。(ヨハネ1:12)
イエスが弟子たちに教えられた有名な「主の祈り」も、「天にいますわれらの父よ」という呼びかけで始まります。(マタイ6:9-13)
「天にいますわれらの父よ」・・なかなか硬い表現に訳されていますよね。
新約聖書は、地中海地方で共通語だったコイネーと呼ばれるギリシャ語で書かれています。
ただ、人の呼び名や会話中のちょっとした言葉がアラム語で書かれている箇所も多くあり、それがイエスや弟子たちの普段話していた言語だと考えられています。
「父」という呼び名についても、アラム語で「アバ」と書かれている箇所があります。(マルコ14:36、ローマ8:15、ガラテヤ4:6-7)
アバとは、幼児から成人に至るまで、子どもが父親を呼ぶ時に使われ、敬意が込められていながらも、愛情と親しみのこもった、砕けた呼び方です。
主の祈りも、もともとはアラム語だったと考えられるので、私たちは親しみを込めて、「天にいるお父さん」や「天のパパ」など、自分にしっくり来る表現で祈ることができます。
神は私たちと父子のような親しい関係を望んでおり、そのために、イエスは大きな犠牲を払われたのですから。
人の子[イエス]がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。(マルコ10:45)
それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。(ガラテヤ4:5)
わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。(1ヨハネ3:1)
そのことを考え、神の子とされた幸せを、今一度噛みしめてみませんか。
(あるいは、もしまだであれば、あなたもイエスを信じて神の子となりたくはありませんか。)
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