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春分の日とイースター

現在、日本を含め、世界の標準になっている暦はグレゴリオ暦と呼ばれますが、それが作られた理由は、復活祭(イースター)の日取りを決めるためだったと知っていたでしょうか。

復活祭の日取り

復活祭とは、イエス・キリストの復活を祝う日です。

十字架にかけられたのは過越の祭りの最中のことで、 この祭りは通常、春分の後の最初の満月の頃にあたります。

そして、その数日後の日曜日に復活されたので、日曜日は主日(主イエスの日)と呼ばれる大切な日であり、礼拝日また休日となりました。

そこで、4世紀に復活祭の日取りが統一された時、「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に行うことが定められたのです。

この計算のための春分の日は、時差と関係なく世界中で同じ日となるように、当時使われていたユリウス暦の3月21日に固定されました。

春分の日とグレゴリオ暦

16世紀後半になると、ユリウス暦の誤差は累積して、実際の(天文学的な)春分が3月11日頃に来るようになっていました。

そこで、誤差を最小限に抑える暦が開発され、当時の教皇グレゴリウス13世により、このグレゴリオ暦が発布され、次第に世界に広まっていったのです。

日本では、明治6年にこのグレゴリオ暦が採用され、その数年後には日曜が官庁の休日となっています。

そのように、今では日本でも当たり前になっているグレゴリオ暦や日曜休日制は、もとをたどれば、イエスの復活と深く関係していました。

(ちなみに、今年の復活祭は4月17日になります。)

過越の祭りとは

過越の祭りに話を戻しますが、その起源は出エジプトにあります。

ユダヤ人を奴隷状態に置いて、彼らを去らせようとしなかったエジプトに大きな災いが送られることになりました。

しかし、小羊をいけにえとして、その血を戸口に塗ったユダヤ人の家は、災いが「過ぎ越し」ました。

(いけにえと言っても、調理されて食事になっており、ただ殺すわけではありません。)

その後、エジプト王はやっとユダヤ人を去らせることにしたので、彼らはエジプトを出て自由になれたのです。

そのことを記念して祝うのが過越の祭りなのですが、実は、それはイエスの犠牲と救いを予告するものでした。

ちょうど、ドラマの伏線のようなものです。

伏線とは、後に展開される重要な出来事などについて、前の方でほのめかしておくことです。

その出来事が起こった時に初めて、「作者はこれを言いたかったのか」とわかるようになっています。

聖書の「作者」である神は、出エジプトから千年以上経った時に、本当の「過越の小羊」イエスを出現させて、過越の祭りの意義を明らかにされました。

過越の小羊イエス

わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
(1コリント5:7)

出エジプトの際、過越の小羊は、神が奴隷状態のユダヤ民族を救って自由にされることを表しており、そのいけにえによって災いが彼らを過ぎ越しました。

そして、私たちの過越の小羊イエスは、罪の束縛状態にある私たち(一つの民族だけではなく、世界中誰でも)を救って自由にするために十字架で血を流し、その犠牲によって罪の裁きが私たちを過ぎ越したのです。

イエスは死の直前に、弟子たちと一緒に過越の食事をされており(いわゆる最後の晩餐)、その最中にこんなことを言われました。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである。」 また[ワインの]杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」
(マタイ26:26-28)

イエスがこのような犠牲を払って私たちを贖い、罪を取り除く神の小羊であることは、他の箇所にも書かれています。

[洗礼者]ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
(ヨハネ1:29)
あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。
(1ペテロ1:18-19)
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。・・彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。
(イザヤ53:7,12)

そんなにも私たちを愛してくださった主に、感謝するばかりです。

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
(1ヨハネ4:9-10)

罪の束縛と贖いについては、こちらもお読みください。

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