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バイブルメッセージ

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毎月2回配信している聖書関連のメッセージです。
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記事一覧

天国にある傷跡

私の顔には傷跡があります。はっきりと認識できるものですが、普段はまったく気に留めていません。でも、先日鏡を見ていた時にふと目に入り、少しの間、その事を考えていました。 それは、中学校の放課後、教室で友だちと遊んでいた時にできたものです。走り回っているうちに、友だちが思わず私の背中を押したので、バランスを失った私は倒れてしまいました。その際、机の角に眉毛のあたりを思いっきりぶつけ、二針ほど縫ったのですが、目に当たらなかったことが幸いです。 私は鏡を見ながら、「イエス・キリス

友だちについて考える

昨日、誕生日を迎えた友人がおり、特別な人の誕生日は自分にとっても特別な日だなと思いました。神がその人を通して私の人生にもたらしてくださった祝福を感謝すべき日ですから。そして、聖書を読みながら、友だちというものについていろいろと考えていました。 聖書には、友人関係について多く記されており、中でも有名なのは、この言葉でしょう。 クリスチャンになってからの人生を振り返ってみると、私が何らかの形で「倒れた」時には、友だちが必ずそばにいて、私を起き上がらせてくれたし、倒れないように

思い通りに行かない時に読みたい聖書の言葉

人生、思い通りにならないことは度々あります。「苦しい時の神頼み」で、普段は信仰心を持たなくても、そんな時だけ神にすがるという人もいることでしょう。 英語では、「好天時だけの信仰(fair-weather faith)」という言葉があり、それは、天気の良い時、つまり、物事がうまく行っている時だけ立派な信仰があるように見えるけれど、うまく行かなくなった途端に信仰が揺らいでしまうことを言います。 本当の信仰は苦しい時にも楽しい時にも神に頼り、天気の良い日にも悪い日にも神を信じる

人間は顔を上に向ける動物

「人という字はねぇ、ひとりの『人』がもうひとりの『人』を支えている字です」とは、ドラマ『3年B組金八先生』からの有名な言葉ですが、実際の起源は違うそうです。 甲骨文字までさかのぼってみると、ひとりの人を横から見た姿であることがわかります。左の部分は頭から手まで、右の部分は胴体から足までをシンプルに表しているとのことです。 聖書に出てくる「人」という言葉の語源も知っていただけたらと思います。まず、旧約聖書の原語であるヘブル語(ヘブライ語)では「アダム」という言葉が使われてお

聖書を生きてみる

聖書を読んでいるけれど、喜びを感じない、幸せじゃない、感激がわかない、という人のために、詩人・八木重吉からのこんなアドバイスがあります。 聖書を生きるとは、聖書に書かれていることをただ読むのではなく、実践して体験することです。料理本をいくら読んでも、そこに書かれた料理を実際に作ってみなければ、その味がわからないように、聖書も、読むだけでは単なる知識にすぎません。 ところで、皆さんの家に鏡はありますよね。私はいつも、朝起きた時に鏡を見て寝癖を直したりしますが、きっと皆さんも

私はひとり? そうではない

これまで何度か、水野源三というクリスチャン詩人が、身体が不自由なため、まばたきによって一字ずつ家族に拾ってもらうことで作り上げてきた詩を紹介しました。 少し前に、水野さんの4つの詩集から精選された詩をまとめた本を見つけて読んでいたのですが、中でも印象に残ったのは、水野さんがイエス・キリストを家の中に招き入れて、もてなしている様子を描いたものです。 もちろん、それは想像上のことです。しかしそれだけ、水野さんには、イエスが自分と共にいてくださるという意識が強かったのでしょう。

正しい裁き

法廷・弁護士ドラマでは、全体のテーマとして、あるいはエピソードの一つとして、冤罪が扱われることがよくあります。つまり、「無実の罪」であり「濡れ衣」です。特に今期はそのようなドラマが多いように思えます。 裁判に限らず、私たちの日常生活においても、個人レベルで人を裁き、知らず知らずに「冤罪」を生み出しているのかもしれません。 私が小学生の頃、こんなことがありました。妹が『小学一年生』という学習雑誌を読み始めたのですが、ある時、雑誌についてきた解答用紙に鉛筆で答えが記入されてい

どこに焦点を合わせていますか

私たちの目がいかによくできているかは、驚くほどです。単にものの形をとらえるだけではなく、色を認識できるし、周りの明るさに応じて取り込む光の量を調節することもできます。 また、見るものの距離に応じて焦点を自動で合わせてくれるので、私たちは見たいものに集中することができ、視界の中でかすんでいくそれ以外のものに、あまり気を取られずにすみます。 そういった目の機能について考えていると、『目を上げて主の御顔を(Turn Your Eyes Upon Jesus)』という賛美歌を思い

もう少しで幸せになれそうな「辛」

先月の末(2024年4月28日)、詩画作家の星野富弘さんが、呼吸不全のため天国へ旅立たれました。 星野さんをご存じない方のために、星野富弘美術館(熊本県芦北町)のウェブサイトにあるプロフィールを引用させていただきます。 星野さんの故郷である群馬県みどり市にも姉妹館である富弘美術館があり、そちらのウェブサイトには、こんな説明がありました。 私もこの美術館へ行って、星野さんの作品に触れ、感動と励ましをいただいた一人です。4年前に、詩の一つを紹介するメッセージを書きましたが(

愛に裏打ちされた神の忍耐

何かの記事を読んでいて、「コーチには忍耐が必要」という言葉が目に留まりました。コーチがスポーツ選手を成長させるには、愛に裏打ちされた忍耐が必要だと言うのです。 確かに、選手が新しい技術を習得したり、記録を更新したりするには忍耐が必要ですが、コーチも忍耐をもって選手の成長を見守らなければ選手を支えることはできません。そして、選手がそのことを理解して、コーチを信頼するのも大切なことです。 それは、私たちと神との関係にも言えると思います。神が愛情と忍耐をもって私たちの成長を助け

イエスが生きておられるから

今年のイースター(復活祭)の頃に私がよく聴いていた曲の一つに、『Because He Lives(主が生きておられるから)』という賛美歌があります。日本語では、『主は今生きておられる』、『み子イエス世人のため』、『私をゆるすために』などの題名で訳されています。 この賛美歌は少しユニークで、イエスの復活を歌っているけれど、2番の歌詞が親子についてのものになっています。ほとんどの日本語訳では省かれているのですが、実は、この賛美歌で最初に書かれたのは、この部分でした。 簡単に翻

もし神の子なら

私たち人間は、「神だったら、こうするべき」という自分の考えによって、神のやり方を裁くことがあります。それは単純に、神のやり方や知恵が私たちのやり方や知恵をはるかに超えているのに、自分を神と同等か神の上の立場に置こうとしているだけなのですが。(イザヤ29:16; 55:8-9) 「神だったら、こうするべき」と言う時、それはそもそも、その人には神を信じる気持ちなどないからという場合がよくあります。イエス・キリストも、十字架にかけられた際に、自分を神の子と信じない人たちから、「も

「この人を見よ」

クリスチャンにとって、春と言えば、イエス・キリストの受難に思いを寄せながらイースター(復活祭、今年は3月31日)を待ち望む季節です。 受難とは、イエスが裁判と処刑によって、計り知れないほどの苦痛を精神的にも身体的にも味わったことを言います。裁判は短時間のうちに何度も行われており、祭司長や議員たちはイエスが死刑に値するとしましたが、ローマの支配下にある彼らには処刑の権限がなかったため、総督ピラトのもとにイエスを送りました。 ピラトは、「彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみ

私の名を呼んでください

3ヶ月ほど前のバイブルメッセージで、『悲しみよありがとう』という本から水野源三さんの詩を紹介しましたが、昨日はその本を読んでいて、また別の詩が心に響きました。 夜の闇の中にただ一人横たわり、不安を抱えている時に、ただ神に自分の名前を呼んでもらえさえしたら安心するのだと訴えているようです。 福音書には、イエスが不安を抱える人や、まもなく大変な経験をする人に対して、名前を呼んでから話しかける場面がいくつも記されています。 例えば: 多くのことに心を配りすぎて、思い煩ってい