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ワークショップは「探究」なのか?

これは、探究プレイヤーズ受講中に生まれた私の中での問いです。せっかくメモしてあったので、時間差はありますが残しておきたいと思います。

教員1年目に青山学院大学のワークショップデザイナー育成プログラムを受講し、いろいろな人と学校を舞台にワークショップを実践してきました。

それらワクワクする企ての数々は、自分自身の学びになったのは確実な一方で、子ども達にとって本当に価値あるものだったのだろうかと不安になりました。そこに「ね、楽しいでしょ?」という自己満足・押し付けはなかったのか。

ワークショップというと、企画者がいて、参加者がいて、人が集まり、共に時間を過ごします。そこで何かしらの「共に作る」or「作ったものを共有する」などの経験が待っていて、そこに集まった人たちの関係性が変化したり、好奇心に火がついたりと、教科書とノートでは得られないような【学び】があります。

そんな体験型の学びであるワークショップが世の中に溢れることはきっといいことに違いない!

そう信じてきたけれど…

この現象は、ワークショップをひたすら受け続ける人を増やすことになりかねないのではないだろうか。

と感じたのです。

探究とは、もっと地味で、静かで、粘り強い時間が大部分を占めるのではないか。←これは市川さんのジェネレーター講義動画で感じた感覚です。

お祭り=ワークショップ
研究=探究
みたいなイメージの違いです。

ワークショップという刺激で火が着いた好奇心を絶やさず、じっくりゆっくり、1人でもしくは仲間と突き詰めていくのが探究。

だから、ワークショップの一過性なワクワク・楽しさで満足してしまうのは、もったいないのだと思うのです。でも、そういったある程度用意された時間ばかりで楽しむ経験を積んでしまうと、また新たな刺激を求めてワークショップを受けてしまう。

何かの講座やワークショップに参加することでしか「学ぶことを楽しめない・実感できない」という現象が生まれてしまうのではないかと思うのです。(私にもそんな感覚があります)

社会教育士について学ぶ中でもしきりに言われました。学んだことは社会で活かすことが必要だと。きっかけはワークショップだったとしても、そこから探究し続けるためには学習者同士の繋がりや習慣、アウトプットの機会を自ら作れるかどうかが鍵なのではないでしょうか。

私がasobi基地に惹かれるのは、ワークショップ的な用意されたレールがとても少ないからなんだと納得しました。(自分は好きで、よく企画してるくせに)ただ、素材や環境があるのみ。そこで何をするか・しないかは本人に任せられる。

誰もレールを敷いてくれないからこそ、自分から遊ば(学ば)ざるを得ない環境、というのがとても大切な気がしました。あんまり、あれもこれもと用意しちゃいけないんだよな。

ごちゃごちゃっと素材(その場にいる多様な人も)がただそこにあって、思い思いにそれぞれが過ごしているような街中の居場所に惹かれるのも同じ理由かもしれません。

「子どもにはね、なんにもしないでボーッとする時間が必要なのよ!」と、私の尊敬する方もよく言っています。

以下は、受講中の振り返りです。学校に当てはめると、「探究」より「ワークショップ」の方がフィットしてしまう感じがするのは、1日の予定が分単位で刻まれており、クラスみんなで同じ科目を学ぶ、先生主導の授業など、私自身の身体がこれまでの学校の型にだいぶ染まってしまっいるからだと思います。これら型って、法的にはなんの縛りもないのだけど。

ーーーーーー受講中の振り返りーーーーーー

ワークショップは「探究」に当てはまるのか?

市川さんの探索と追求の話では「問い」は探索の積み重ねから本人もしくは仲間たちの間から自然と生まれるものであり、追求フェーズで調べたり発表する段階は、むしろこちらの介入なく黙々と取り組むようなイメージでした。

けれど、ワークショップデザインの視点では「問い」はこちらが用意するもので、創る活動そのものも主催者がデザインしておくものでした。創造性を発揮できる部分が用意されていたとしても、あらかじめデザインされたものをみんなで揃って受けるという形式では結局のところ、自ら学び続ける人ではなく「ワークショップを受け続ける人」になってしまうのではないかと感じます。一方、授業ではワークショップの方がフィットするように感じるのも事実。