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教育移住と公教育の多様性


街への思い入れもあって、コミュニティにも属していた人が、小学校入学を機に移住してしまう。
公教育の残念さと、自分では何もできないと感じてしまう無力感。
毎日のやらされ宿題や、学びと遊びが別物になってしまう感覚。
学ぶことが嫌なことと捉えられてしまう環境。
保育園・幼稚園までは親子で行動し、親が環境や出会いを選択できたが、公教育はそうはいかないため、学校の雰囲気や担任次第で大きく環境が異なってしまう。
それらの不満から、よい学校・学ぶ環境へとシフトしてしまうことが多い。

「欲しい暮らしはつくる」という感覚を少なからず持ってきた人が「つくる」のではなく、好きな街を離れてまで出て行ってしまう。
移住とまではいかなくとも、何かしらの諦めを感じてしまう人も多い。
教育ってすごく大切なものだし、子どもの成長は待ってくれない。
だから、少しでも子どもに合う環境を選びたいって思うのはすごく分かるし、そういう選択を否定したい訳じゃない。

ただ、、、

私学や移住してまで人が集まるような学校には、価値観も似ている人が集まるし、のびのびと学べるのだと思う。
でも、社会はもっと泥臭くて大変なことも多く、関わるとすごく疲れたり傷つけられたりするようなこともたくさんある。本当にいろんな人がいる。

そういうこともひっくるめて学びだと思うと、子どもの頃の原体験として多様な人と生きるってすごく意味があるし、公教育にはその要素がめちゃくちゃあるんじゃないかと、今まさに公教育で働いている私は感じる。

学校の教室=同質的な集団
社会に出たら年齢も育った環境もバラバラな人と一緒にいるんだから、今の教室が合わなくても大丈夫。(もちろん、そのメッセージもすごく大切)

と言われることも多いけれど、歳を重ねるに連れて似たような価値観の人と過ごすことが多くなることを思うと、公立小学校って年齢が一緒なだけでだいぶ多様性の塊だと思う。

そんな環境の中で、たまに疲れたり傷ついたりしながらも「みんなと仲良く」じゃなくてもいいから、「合わない人ともお互いを尊重しながら、自分らしく心地よく、暮らせるんだ。」
という経験ってけっこう大事なんじゃないか。

これ以上、分断をうまないためにも。

街の学校には、そういう要素がたくさんあると思う。

街の教育力に可能性はあるか


学校が変わらなければならないのは重々分かっている。
でも、あれもこれもと学校に多くを求められすぎているのも事実。

教育=学校

と限定的に捉えるのではなく、もう少し街の誰しもが教育に携わることはできないのだろうか。

「専門じゃないから」なんてことはなく、
どんな人でも子どもの学びに火をつける存在になりうる。
親や先生以外の大人との出会いは、それだけで刺激的なものである。

Edcamp TAITOを始めてみて、
・学習支援をやってみたいけど場所もないし、どう始めたらいいか分からない。
・中高生の居場所が全然ない。

など、何かしたいけど動けずにいる人。
多様な世代が緩やかに関われる居場所を求めている人がたくさんいることが分かった。

もっともっと、街中に大人も子どもも関係なく交われる場所が生まれたらいいのだと思う。
きっと、我が子だけでない不特定多数の子どもと関わるようになってくると、街の教育に対する当事者意識がぐっと芽生えるのではないか。

子どもたちも、子どもと先生だけがいる学校や学童ではない、ごちゃ混ぜな空間は居心地がいいのではないだろうか。

「子どもの学び」も自分たちで作れるという実感がもてるような、そんな場所を作りたい。