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『手製の弾丸』

 お耳汚しを失礼致します。
 皆さんは『利き手・利き足』をどの様に判断されますでしょうか。生まれ持ってバランスのとれた人も中には居られますが、2つ在る物は大概どちらかに偏る定めの様です。
 例えば、右投げ左打ち、ペンを握る手や刃物を握る手、事象は様々ですが、しっくり来る方が『利き手・利き足』と判断出来ますし、電話の際に受話器を宛がう耳を『利き耳』と判断して良いと思います。
 では、目はどちらが『利き目』でしょうか。

 こう云う方法は如何でしょう。
 遠くに目標を定めて、指でOKサインを作り、両目で輪を覗いて下さい。目標物が輪に入った状態で、片方ずつ目を閉じて、輪の中に目標物が収まって居た方の目が『利き目』だそうです。

 私が子供の頃、父からこの様な事をいくつか教わりました。
 シャベルの持ち方、塹壕の掘り方、手榴弾の投げ方、かまくらや雪祭りの雪像の作り方…etc。


 この話は、私が子供の頃に父から聞いた話なのですが…。

 父は二十歳前後の頃、北海道の帯広にある駐屯地で陸上自衛官をやって居りました。
 父は若い頃から血の気が多く、どんな厳しく辛い訓練でも根性でやり遂げて来たと振り返るのですが、当時一番きつくて音を上げそうになった訓練が1つだけ合ったのだそうです。

 それは近隣の駐屯地と合同で行う不定期なイベントで、10日間山中に入り、毎日10キロの荷物を担いで10キロの距離を歩く、通称『生き残り』と呼ばれる訓練が合ったそうです。

 敵地をいくつもの小隊で包囲して、少しずつ掌握して行くと云うのが、訓練の目的だったそうです。

 訓練開始日には、幾つもある入山道の入り口に、各大隊が早朝から集まり、無線の合図で同時に入山を始めます。ラリーレースの要領で、第1小隊がスタートしてから約5分毎に次の小隊がスタートする段取りで、前に追いついても後ろに追いつかれてもダメで、等間隔を維持しながら朝から晩まで唯々雪山を歩くのだそうです。

 10キロのリュック以外に空砲を詰めた自動小銃が加算され、人によってはその他に携帯シャベルや無線機を背負って歩かなければならず、父は無線係だった為、無線が使えなくなった場合の訓練では、小隊長の伝言を伝える為に前後の小隊に走らなければならなかったそうです。

 黙々と歩いて夕方17時頃には、各所に点在するキャンプ場に到着します。水が引かれて木を切り開いただけの名ばかりのキャンプ場で野営をする為に、到着した小隊から『夕食組』と『ビバーク組』に分かれて夕食と寝床の確保をするのだそうです。

 この時、大切な役を決めるのですが、お分かりになりますか?

 班毎に1人、夜回り役を決める必要があるのですが、 この役は皆が嫌がるそうで、父曰く、「真っ当な隊員であれば、翌日も早朝から10Km歩かされるのを分かって居てやりたがる奴は居らん。」との事。
 しかし、同じ小隊には毎回自分から希望する同僚が居たのだそうです。 皆からは「可笑しいんじゃないか。」とか「変態やな。」とか小バカにされて居たそうですが、彼には思惑が有った様です。

 ところで、北海道の雪山で怖いものは何だと思いますか?

 寝ぼけて起きて来た熊がとても怖いのだそうです。
 空腹で寝ぼけて居るので、かなり狂暴だとか。
 だから、夜回り組には1人に1発だけお守りに実弾が支給されるのだそうです。

 『警邏(ケイラ)』は各小隊から集まった約10名程が2人1組になって、1時間おきにキャンプ場を見回るのだそうです。
 実弾は後日回収されるのですが、父曰く、
 「どんくさい奴は良く失くしよんねん。基地に帰ってから始末書を書かされるんやけど、朦朧として真っ暗な処で失くしてるから、その時の事なんか覚えてへんやろ。勿論隊の皆で早朝に探すけど、訓練の時間は決まってるから長居出来ないし、新雪に真鍮の弾落として踏んでしもたら分からんで。」
 「それも嫌で皆やりたくないねん。」
 でも、彼はそれを逆手に取ったのです。始末書に勝るうま味とは…?感の言い方なら既にお分かりだと思います。


 10日間の厳しい訓練が終わり基地に戻って暫くした頃、彼が小隊の仲間に2発の弾を見せびらかしていた事があったそうです。

 「それどうしたぁ。」同部屋の隊員が彼に聞きます。
 「訓練でくすねた実弾と空砲をばらして、空砲の薬莢に火薬増し増しで実弾の鉛を込めて作った改造弾や。」と説明する彼。
 「危ない危ない。暴発するぞ。」と他の隊員。
 「1発目は湿気って不発やったけど、2発目は成功した。」と自慢げに過去の実績を自慢する彼。

 「止めとけ止めとけ。」と言いながらも同部屋で興味のある隊員達が集まって来て、何を打つのかを質問すると、
 「基地のケイラの時に柵の外で『テン』を見つけたから、捕まえて『襟巻』を作るんや。」

 「射撃演習場の柵の向こう側が丘になっとるやろ、そこで月明かりで照らされてヒラヒラ白いのが跳び跳ねてるのを見たんや。」
 「そんな銃でテンみたいな小さい動物を撃ったら、当たり所によってはバラバラになって、綺麗な襟巻にはならんだろ。」だとか、
 「テンだってバカではないんだから、もう来ないだろう。」だとか、集まった数人の隊員が口々に野次ると、
 「それがまだ同じ所で跳ねとるねん。」

 「1発目不発で、2発目は外したってことか。」
 「柵の向こうやったからな。暗かったし…。でもその後も逃げんと来とるから次は当てたる。」
 等と、夜の消灯前に3〜4名程が2段ベットの下で頭を突き合わせて話して居る内に、当たる当たらないと『賭け事』になったそうです。

 素人のやることだから危なくない訳がないと、父は話に混ざらず、『事の顛末』は人伝に聞く事になったそうです。


 さて数日が過ぎ、彼がケイラの担当になった夜の事、深夜に駐屯地の門の辺りで銃声が響き大騒ぎになったそうです。
 翌日、上官から知らされた情報によると、バディーを組んで居たケイラ隊員曰く、ライフルが暴発して怪我をしたとの事でした。

 バディーを組んで居た隊員も実は賭けに参加しており、暴発以外の事は黙って居たそうですが、弾の出所や賭けの事などが捜査により全て浮き彫りとなって、後に全貌が明かされました。

 いつも通り1時間交代で彼等がケイラを始めて、射撃訓練場近くに辿り着いた時、柵の向こうの丘の稜線に沿って、煌々と輝く満月に照らされてキラキラと照り返す雪の上を白銀に輝くテンが飛び跳ねて居るのを見つけました。
 二人は目配せして、柵沿いにそっと近づき、凍てつく空気で鼻の奥が痛むのをグッと我慢して息を止めて狙いを定めました。
 キーンと甲高い音を耳の奥で感じながら、ゆっくりと引き金を引くと、遠くの方でテンが「キャン!」と跳ねて、茂みに逃げてしまったのだそうです。

 「あ~。当たったけど逃げられたぁ!」「もう来んかな。」と悔しがる二人。
 「しかし、キャンと鳴いたな。」「月明かりと雪の照り返しで白く見えて居たけど、あれはキツネやったかな?」等と、賭けに負けた悔しさを噛み締めながら、ゴール地点の門前まで戻って来ました。

 門前の立ち番をして居た別のバディーと交代した後、手袋を外してポケットから紙切れを出そうとライフルを壁に立てかけた刹那、下顎から右頬を鉛が貫いてモノクロの風景の中に鮮血が散ったのだそうです。

 当時配備されて居たライフルは、『64式自動小銃』と言われる日本で設計製造された国産の自動小銃でしたが、「直ぐにジャムる。」と揶揄された不評の銃だったそうで、メンテナンスが複雑で手間がかかると云う問題や、部品の清掃や潤滑が適切に行われて居ないと、作動不良(ジャム)のリスクが高まる事が指摘されて居ました。
 また、重量が重く取り回しが悪いと感じる隊員も多かった様で、長時間の携行や戦闘訓練において不満の要因にもなって居たそうです。

 グリップ部が地面に「コツン」と触れた事で、激鉄が起きたのではと結論づいたとの事。要は父が懸念した様に、精密な銃に素人が対応出来ず、事故が起きたと云う事でした。
 「この事故、新聞にも載ったんやぞ。」とも。

 その事故から約1年半後、右目は義眼、右上顎骨を豚の骨で補い、舌は牛の舌で補って、大手術の末、彼は職場復帰を果たしたのですが、大きな事故の噂話に尾ひれ手ひれが付いてしまい、利き目が義眼であることも相まって在籍し辛くなり、除隊して故郷である関西に帰られたそうです。

 別れ際、彼曰く「エゾギツネも祟るのかな?」と寂しそうに語ったとか。
 それから約5年の月日が過ぎた頃、風の噂で自殺されたと訃報が耳に届いたそうです。


 私が子供の頃に、父はこんな自衛隊話を良く語って呉れました。
 「え?怪談か?そうやな『減らない洗濯洗剤』って話が在るぞ。」
 「当時は洗濯洗剤や歯磨き粉は粉のを使って居てな、各々名前を書いて洗濯機置き場に保管してたんや。消耗品やから時期が来たら大体皆同じ頃に買い出しに行くはずなんやけど、在る一人の隊員だけは一向に減らんかったんや。」
 「お父や周りの隊員が買い出しに誘っても、俺は良いわって断りよんね。シレッとしたもんやったぞ。」
 「な、怖いやろ。」

 以上、『手製の弾丸』と云うお話しでした。
 ご清聴ありがとうございました。


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