見出し画像

大都会の血肉となったストリートフード「ヴァダ・パウ」

3回目の尾道マサラフィッシュクラブを因島で開催してきた。インド料理やスパイス料理が好きな人たちが集い「スパイス」と「フィッシュ」をテーマに一緒に調理するクラブ活動だ。色々なものを作る中で様々なサブジやアチャールなどカレーや魚料理でないものも作る。ふと市場で見かけた里芋の親玉みたいな大きな里芋を衝動買いしたので、茹でてアジョワンとチャートマサラで炒めてサブジみたいにした。あまりの大きさに量も多かったのでペースト状にしたのを団子にしてベッサン(ひよこ豆の粉)であげてみた。インドはムンバイでよく食べられているジャガイモを味付けしてベッサンを衣にして揚げてコロッケみたいなものをちぎりパンで挟む「ヴァダ・パウ(vada pav)」の里芋バージョンの誕生である。

熱々のヴァダ(ジャガイモのコロッケ)に2、3種類のチャツネをかけパンで挟む。片手で持ちながらムンバイの喧騒と雑踏の中を颯爽と駆け抜ける。人がこぼれ落ちそうな列車も、タクシーやリキシャーに轢かれそうになってもヴァダパウを片手にヒラリヒラリとムンバイの街を進んでいける。

19世紀から20世紀にかけてボンベイは紡績、綿織工場がたくさんありそのエリアをギランガオン(Girangaon)と呼んでいた。最盛期には約30万人もの人が働いており、ムンバイの発展に大いに貢献したといわれている。そこで働く人々はムンバイ近隣から政府や企業により集められ、働く場所と住宅を提供されていたが、決して良い状態のものではなく、多くの住宅は衛生的にも悪く陽があまり当たらなかった。劣悪な環境は彼らを家の中ではなくストリートに追いやり、ほとんどの時間をそこで過ごしたといわれている。労働時間は長く、環境は悪く、賃金は安い。時間もお金もない中で生まれたストリートフードが「ヴァダ・パウ」である。1966年にアショーク・ヴァディヤ(Ashok Vaidya)がダダール駅でヴァダ・パウを売ったのが始めらしいといわれている。同じ頃にカリヤンでも民家の窓からヴァダ・パウを売る人がいたため、どちらが最初かはわかないが大体は1960年代半ば頃だそうだ。早くて安くて片手で食べられるファストフードは瞬く間にギラガオンの人々を虜にしていった。何十万人もの空腹を支えたヴァダパウはのちのムンバイの大発展を支えたのはいうまでもない。そして1970年代から80年代は劣悪な労働環境に不満が高まり、各地でストライキが起こり、一つ、また一つと綿織工場は閉鎖していった。

仕事も住む場所もなくなってしまった労働者を救ったのもまたヴァダパウであった。当時の偉い地元の政治家が綿織工場で働いていた労働者に「経営者たれ!」と呼びかけ各地に屋台を開業するのを後押しした。彼らは自分たちを支えてくれたヴァダパウを各地で作り、提供していった。それはどれもちょっとしたアレンジや工夫が凝らされていたため、どこも違う味だ、と各屋台にファンがついていった。同じヴァダパウでも違う味。それぞれのお気に入りのヴァダパウがそこかしこで生まれ、増えていった。その数はムンバイだけで2万店舗もあるそうだ。

ムンバイ生まれのヴァダパウはその後インド全土に広まっていき、今ではインドを代表するストリートフードだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?