マントラを唱える=「ゆだねる」練習

瞑想を「あえて」しないことを書きましたが、マントラを唱えたり歌ったりすることは時々あります。

一つには、つらいことがあって自分ではどうしようもないとき、マントラを唱えます。神頼みというよりは、「ゆだねる」練習です。

普段は「自分でどうにかしなくちゃ」なんて思って暮らしていますが、思い通りにいかないことはたくさん起こります。自分は宇宙のなかではミクロな存在なので、思い通りにいかなくて当たり前です。

それでも、「私」が「サブジェクト(主語)」の世界で生きているので、私主体で考える癖がついてしまっています。マントラを唱えるとき、自分が本当はどこまでも「オブジェクト(目的語)」であることを思い返します。

自分が主体であるのはこの「物質世界」での一時的な幻想にすぎません。自分が主体となり自由にできることはありがたいです。でもいったん「物質世界」を離れたら、もちろん、自分が自由にできる「物質」はありません。

魂の世界では、考えてみれば当然のことですが、自分の物質的な欲求を自由気ままに満足させる、なんてことはできません。というか、そんな欲求自体が存在しません。

私もうまく想像できないのですが、魂の世界では「私」は主語ではないそうです。マントラを口にするとき、その音は自分が発したものではありません。その音は生きていて、私の舌の上に自らの意志で降臨してきたのです。

舌の上で飛び跳ねて踊っているーーそれは「音」でさえなく、ただ私には「音」として感じることができ、魂の世界へ導いてくれる「何か」です。

そんなふうに思って唱えたり歌ったりしていると、「物質世界」を離れたときの感じがちょっと体感できるような気がします。それを「ゆだねる」、サンスクリット語で「シャラナーガティ」と言っています。

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