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見仏~仏を見ること~

拘留孫仏云く、

身は実無しと見るは是れ仏を見る、心は幻の如しと了するは是れ仏を了す。身心は本性空なりと了得せば、斯の人は仏と何ぞ殊別せん。

 念仏や観仏などは仏を見る、すなわち「見仏」を所期とするわけであるが、「見仏」は如何なることであるかというに、仏が云われるには身体には実体が無いと観じ、心は幻の如くであると悟り、身心には本体がなく空である、要するに縁起による自性なき存在であると領解すれば、それが「見仏」であるという。
 何か仏の相好を見るわけではないと拘留孫仏はおっしゃる。

毘婆尸仏云く、

身は無相中より受生し、喩えば幻の諸の形像を出だすが如し。幻人は心識本来空にして、罪福皆な空にして住する所無し。

 仏が云われるには、そもそも仏ご自身の身体は相無きところより生じた身であって、その御身体は実は幻に等しく、実は空であるという。
 我々が見る仏身はあくまでも縁起によって生じたる化身に過ぎぬわけである。

釈迦牟尼仏云く、

およそあらゆる相は皆これ虚妄なり。もし諸相は相に非ずと見るときは、すなわち如来を見る。

 仏が云われるには、仏が現じるあらゆる姿というのは全て真実ではなく、仏を姿や形を超えたところに見て、初めて見仏が成るという。

維摩居士云く、

自らの身の実相を観ずるが如く、仏を観ずることも亦然り。我仏を観じたてまつるに、前際来たらず、後際去らず、今則ち住せず。色と観ぜず、色如と観ぜず、色性と観ぜず、受・想・行・識と観ぜず、識如と観ぜず、識性と観ぜず。四大より起るに非ず、虚空に同じ。

 大菩薩たる維摩居士も見仏とは去来現において見るのでも、形や認識を以て見るのでもなく、虚空と等しいというように見るとおっしゃる。

 仏や菩薩がおっしゃるには徹底した空観こそが見仏であるとしておられる。しかしながら凡夫には非常に難しい。
 そこで仏は方便として相好から入って仏の心たる慈悲を観じることも勧めておられる。

釈迦牟尼仏云く、

かの仏の円光は、百億の三千大千世界のごとし。円光のなかにおいて、百万億那由他恒河沙の化仏まします。一々の化仏にまた衆多無数の化菩薩ありて、もつて侍者たり。
無量寿仏に八万四千の相まします。一々の相におのおの八万四千の随形好あ
り。一々の好にまた八万四千の光明あり。一々の光明は、あまねく十方世界
を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。その光明と相好と、および化仏とは、つぶさに説くべからず。
ただまさに憶想して、心眼をして見たてまつらしむべし。この事を見るものは、すなはち十方の一切の諸仏を見たてまつる。諸仏を見たてまつるをもつてのゆえに念仏三昧と名づく。この観をなすを
ば、一切の仏身を観ずと名づく。仏身を観ずるをもつてのゆえにまた仏心を見たてまつる。仏心とは大慈悲これなり。

 仏は見仏の手始めに相好を見よと云われるが、「その光明と相好と、および化仏とは、つぶさに説くべからず。」として、結局は「ただまさに憶想して、心眼をして見たてまつらしむべし。」と云って、仏の姿形は説くことはできないから、肉眼を超えた心眼によって見るしかないとされている。
 心眼によって仏身はすなわち仏心であり、仏の心は抜苦与楽なる慈悲であると観じ、慈悲を観ぜばそれが見仏であるとしている。

 先ほどの「空」とここでの「慈悲」では矛盾しているようであるが、「空」は言わば「智慧」であるから、仏は「上求菩提 下化衆生」たる「智悲円満」から考えれば、聖道門の見仏は「空」、浄土門の見仏は「慈悲」であり、矛盾はない。
 いずれにせよ「見仏」というのは、仏の姿や形を超えたところで見る、見るとも言えないところで見る「空観」や「慈悲観」が本当の見仏であるというのである。


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