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維摩居士の離言真如・文殊大士の依言真如

『維摩経』の維摩居士と文殊菩薩

 大乗仏典『維摩経』のハイライトとも言える「不二の法門」の一幕において、多くの菩薩たちがそれぞれの言葉によって意見を述べ、最後に文殊菩薩が言葉によって言葉を否定した後、維摩居士が沈黙によって「不二の法門」即ち「真如」を表現する場面がある。これは「維摩の一黙」として、多くの仏教者が取り上げて讃嘆されている。
 維摩居士の「維摩の一黙」は黙することによって、『大乗起信論』で云うところの「離言真如」(真如は言葉では表現できない)を示すのである。

 『大乗起信論』には確かに、「一切の法は、本より已来、言節の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ」と云って、真如や不二は話や文字にすること、思考や分別にいずれによっても表現できないとしている。

 しかし『起信論』では続けて、「言節の極、言に因って言を遣(や)る」と云って、言葉によって言葉を否定し尽くす「依言真如」(言葉によって真如を表す)も取り上げているのである。

 『維摩経』では維摩居士が沈黙する前に文殊菩薩が「依言真如」として、「一切の法に於て言も無く、説も無く、示も無く、識も無し。諸の問答を離れる。」と云って、当に「言節の極、言に因って言を遣る」ということを示されている。

 このように見てみると果たして、維摩居士のほうが文殊菩薩より一枚上手なのだろうか。たとえ絶対の境界ということが言葉にならないとしても、聴衆や教化する衆生がいれば、最終的には言葉や文字によって示すしかないのではなかろうか。
 それ故に文殊菩薩のほうが衆生に寄り添った菩薩然した態度であり、何とか衆生を導こうとする姿に親近感を覚える。

 この問題を日本の仏教者である夢窓疎石上人が答えを出してくださっている。
 夢窓上人の語録『西山夜話』に、
「言葉ではとどかぬが、黙っていては通じない」
「祖師たちが文字をおし立てぬのは、黙をよしとし、話すことを嫌ってのことではない。問題は、語とも黙とも関係ないところにあると言いたいだけなのだ。」(柳田聖山〔訳〕) 
と説かれている。

 つまり、維摩居士と文殊菩薩は共に、「不二」ということは夢窓上人が云うように「話すことや沈黙することとは関係ないところにある」ことを伝えたいがために、それぞれの方法によって示しているだけなのである。
 維摩居士の沈黙も素晴らしければ。文殊菩薩の言葉による言葉の否定も素晴らしいのである。
 しかしながら、凡夫の私には文殊菩薩の老婆心が身に染みる。

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