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名盤と人 第19回 離れられない2人  『Can't Buy A Thrill』 スティーリー・ダン

10代の時に大学で運命的に出会ったDonald FagenとWalter Becker。ジャズ好きとユーモア感覚が似ていることで直ちに親友となり、1972年に『Can't Buy A Thrill』でデビューを飾る。その時に類い稀なるユーモア感覚で奇妙なSTEELY DANというバンド名を付ける。別離しても寄りを戻し、40年以上の2人のパートナーシップはBeckerの逝去まで続いた。

Walter Beckerが急逝

Billboard Live Tokyoが開店して15周年だそうである。
2007年8月18日~8月24日、15年前のそのオープニングにはSTEELY DANが立つと言う、夢のようなLIVEが開催された。
好運にも高額なその席をゲットでき、アリーナの真向かいで観ることができてた。
Donald Fagenに当時は健在だったWalter Beckerは元気にギターソロを弾いていた。初めて観るKeith Carlock(Drums)によるAiaのドラムソロにど肝を抜かれ、Jon Herington(Guitar)、Michael Leonhart(Trumpet)、Jeff Young(Keyboards)等の信頼するバンドメンバーに囲まれた素晴らしい一夜だった。

そして、それから10年後の2017年。
『Blue Note JAZZ FESTIVAL in JAPAN 2017』はヘッドライナーとしてDonald Fagenの出演を予定していたが、急遽キャンセルとなる。
理由は急病だが、9月14日にはフェス自体が開催中止の発表された。

その直前の9月3日にSteely Danの片割れWalter Beckerが急逝している。
Fagenの病名などは明らかになっていないが、北米ツアーの残りの日程もキャンセルされた。

2012年にはDonald FagenにMichael McDonaldBoz Scaggsが顔を揃える「Dukes Of September」として来日しているが、ソロとしては初来日だっただけに失望が広がった。
Beckerの急逝に関しては、以下のような追悼コメント/声明を発表しており、急病というより、長年に渡る無二のパートナーを失った、精神的なショックでのキャンセルと噂された。

ウォルター・ベッカーとは1967年にバード大学で学生として出会って以来、私の友人で、私のライティング・パートナーで、私のバンドメイトでした。私たちは、大学が寮として使っていたハドソン川の古いマンションWard Manorのロビーにある小さい居間でアップライト・ピアノを使って、おかしな小さい曲を書き始めました。

我々は多くの同じものが好きでした:ジャズ(1920年代〜60年代半ばまで)、 W.C. フィールズ、マルクス兄弟、SF、ナボコフ、カート・ヴォネガット、トーマス・バーガー、ロバート・アルトマンの映画が好きです。同じくソウルミュージックやシカゴ・ブルースも。

『Can't Buy A Thrill』 50周年

さて、Steely Danのデビュー作である『Can't Buy A Thrill』(1972年11月)が50周年を迎えリイシューされた。Fagenが自ら監修した超高品質レコードの謳い文句に魅かれてアナログを購入した。

Can't Buy a Thrill (50th Anniversary Vinyl LP) 

1973年の『Countdown to Ecstasy』、1974年の『Pretzel Logic』、1975年の『Katy Lied』、1976年の『 The Royal Scam』、1977年の『Aja』、1980年の『Gaucho』はアナログで持っているが、本作をアナログで聴くのはお初である。
流石に音にうるさいFagen監修だけに、見違えるような音となっていた。

現在の我々にはSteely Dan=Donald FagenWalter Beckerの2人によるプロジェクト型のユニットだが、本作と2作目まではバンド形態が生きていた。

1971年にABC Recordsのスタッフライターとして雇われ、ニューヨークからLAに移転したDonald FagenWalter Beckerの2人だが作曲家としては売れず終い。
仕方なくバンド形態にするために即席でメンバーが集められた。
古くからの知人のDenny Dias(ギター)はNYから呼び寄せられた。
Jeff Baxter(ギター)はプロデューサーのGary Katz(ゲイリーカッツ)の紹介。
さらにBaxterのツテでドラマーのJim Hodderが参加する。

が、ここで問題が派生する。
Fagenは自分は作曲家なので歌いたくないとボーカルを拒絶する。
自分の声域に自信がないFagenとは別にボーカル専任のDavid Palmerと言う人物を雇い入れ、6人編成で即席バンドを結成する。
ここにオリジナルSteely Danが完成する。

オリジナルSteely Danの面々

Palmerが2曲を受け持ち、ドラマーのJim Hodderが1曲リードを担当し、1作目はFagenのリードボーカルは4曲にとどまる。
ラストの"Turn That Heartbeat Over Again"に至ってはWalter Beckerも歌い、Fagen、Palmerと共に分け合っている異色のナンバー。
つまり表面的には4人のボーカルがいるEaglesのようなバンドであったとも言える。
たまたまLAにいた彼らは同年デビューのEaglesらと一まとめにカントリーロックバンドくらいに認識されていた可能性もある。

Fagenが歌わないSteely Dan

「僕の声域が狭くて経験もない。もっとでかい声が出るロックンロールボーカリストが欲しかった」とボーカルに消極的だったFagenは語る。
そのためDavid Palmer(ボーカル)をスカウトし、Dirty Workではリード・ヴォーカルをとる。
メロウな名曲でL.A.録音によるウエスト・コーストらしい雰囲気は、同年6月にデビューしたEaglesを想起させる。

ABCのライティングチームだった2人がスリードックナイト辺りに歌わせようと作った売れ線の歌で、当初はアルバムに入れない予定だった。
Fagenが歌っていない分、2人のソングライティング力が際立つ曲。
Billboard Live Tokyoでも演奏されたが、Fagenは歌わずに女性コーラスが歌っていた。

Palmerが歌うもう一曲のBrooklynはBaxterのペダルスティールが効いていてカントリーテイストが強い。
後にSteely Danからはカントリーテイストは消え去るので、Baxterが好きなテイストだったのかもしれない。

後にJeff Baxterが参加するDoobieの"South City Midnight Lady"とも似たテイストだが、この曲のペダルスティールもBaxter。彼が後にDanを辞めてDoobieに移ったのも必然の流れか。

"Midnight Cruiser"はドラマーのJim Hodderがリードボーカルを担当、当初はHodderをボーカルとして立てる構想もあった。

1972年6月にデビューシングルとしてリリースされた DallasでもHoddarはボーカルを担当。だがカントリーロックに寄り過ぎて誤解をあたえる理由で回収された幻のデビュー盤。Jeff Baxterのペダルスティールがいい味を出しているが、カントリーテイストに拍車をかけている。
Dallas

後に同じABCのPocoに提供されており、カントリーロックの彼らにマッチしている。

Fagenが歌わない3曲はスルーされやすいが、その分、曲としてのクオリティは高く、2人の職業作曲家時代の面影を伺わせる。

予想を超えたDo it againのヒット

1stシングルのDo it againは1972年11月にリリース、USチャート第6位となったグループとして2番目のシングルヒットとなる代表曲。
ゲストのPercussion PlayerのVictor Feldmanが叩く印象的なラテン・リズムのイントロは聴いているだけで高揚してくる。ボーカルを拒絶していたFagenだがこれぞFagen節と言える声色を披露し、このバンドの魅力を象徴する名曲となる。Denny Diasエレクトリック・シタールのソロも含めたアシッド感覚が溢れ、さらにFagenのオルガンソロもそれに続く。
「マイナーキーで普通ならシングルカット向きではない」と考えられたが、ラジオ局の編成マンたちの支持を受けてABC がシングルカットを決めると、予想を超えたヒットとなる。
エンジニアのRoger Nicholsは、ドラムのHoddarは不得意なリズムパターンがあり安定したリズムをキープできず、この時初めてループを使用したと語る。「Faigenは不安定なリズムの揺れに対して病的なまでに神経質で完全謝主義者」とも語る。
後にNicholsグラミー賞ベスト・エンジニアリング部門賞」(1987年)を獲得する。

米テレビ音楽番組『ミッドナイト・スペシャル』での「Do it again」のライヴ映像があるが、David Palmerにリードを譲っており、当時のFagenのボーカルへの苦手意識、特にLIVEでの自信のなさが窺える。

デビュー当時は不安視された演奏力も74年のLIVEでは迫力を増している。
それもそのはず、Jeff Porcaro が加わりTwin Drumsとなり、若き日のMichael McDonald がKeyboards&Vocalsで参加する豪華メンバー。ここでもFagenはRoyce Jones(Percussion, Vocals)に半分のボーカルを任せていて、ボーカル嫌いは続いていた。

「Do it again」Deodatoをはじめ、Club House 、Herbie Mann、Richie Havens、Rhythm Heritage、 Waylon Jennings、Falco等、Danソングでは再多数のアーティストがカヴァーしている。

一枚目から起用されたセッションマン

全米11位と2曲目のヒットとなる "Reelin in the Years"では、ソロが上手く決まらないBaxterの代わりにElliott Randallが起用された。
後にジミー・ペイジによって「"Reelin in the Years"のギター・ソロこそ、史上最高のギター・ソロだ」と絶賛された。

Elliott Randallをメンバーに引き合わせたのも、Jeff Baxterらしい。
Steely Danからの信頼は厚く、Katy Lied (1975)、Royal Scam (1976)にも参加する。

彼以外にも本作から外部が起用された。今後欠かせない常連となるVictor Feldman(percussion)やJerome Richardson ( tenor saxophone)、Snooky Young ( flugelhorn)、Clydie King(BKV)など外部ミュージシャンが数人参加している。

次作の「Countdown To Ecstasy」では、Ray Brown(string bass)、Ben Benay ( guitar)、Rick Derringer (slide guitar)、Ernie Watts(sax)、Victor Feldman (vibraphone, percussion)とさらに外部からの起用が増える。

Steely Danの誕生秘話

Donald FagenWalter Beckerが出会ったのは1967年ニューヨークのバード・カレッジに在学中。
Trafficの「Mr.Fantasy」を愛聴する学生だったFagenが、カレッジ内のカフェのそばを通りかかると中からブルースギターが聴こえてきた。それはBeckerが奏でる音だった。
ジャズ好きでウィリアムSバロウズを愛読すると言う共通項で2人はすぐに意気投合して一緒に曲を書き始め、ニューヨーク内のいくつもの音楽出版社に持っていくが採用されることがなかった。

やがてプロデュース業をしていたGary Katzと出会う。
1970年の夏、Gary Katzが見出した19歳のLinda Hoover(リンダ・フーヴァー)の作品にBeckerFagenが曲を提供。さらにスタジオ入りし、彼女のファーストアルバムをサポート、演奏にはDenny Dias、Jeff Baxterも加わり、ほぼこの時点でSteely Danの陣容が揃う。
だがデビュー・アルバムになる予定だった『I Mean To Shine』はお蔵入りとなる。(2022年6月に日の目を見る)
タイトル曲のI Mean To ShineBeckerFagenの曲。

さらに、BeckerFagenにKatz経由のJeff BaxterKatzとLindaの5人で新グループCody Canyonを結成。いくつかレコード会社のオーディションを受け失敗するが、ここにSteely Danの原点があった。

横浜から来た大人のおもちゃ

後にGary KatzはABCレコードに入社し、レコード会社にBeckerFagenのデモテープを渡す。それがきっかけで2人はABCのスタッフライターに雇用され、そしてLAに移住する。
しかし奇妙すぎるテイストはABCにはウケが悪く、誰も2人の曲を採用しようとは思わなかった。
それなら自分たちでバンドをやるしかないと発想を転換し、バンド結成の動機となる。
そしてウィリアム・S・バロウズの小説「裸のランチ」に登場する男性器の大人のおもちゃ「Steely Dan III from Yokohama」(横浜から来た大人のおもちゃのダン)に由来して、バンド名は「Steely Dan」と命名される。

この奇妙なバンド名と由来には、後にはFagenもBeckerも後悔し悩まされたらしい。

そして、本作『Can't Buy A Thrill』(1972年11月)が生まれる。
アルバム・タイトルの"Can't Buy A Thrill"Bob Dylan「追憶のハイウェイ 61」に収録されている「悲しみは果てしなく」(It Takes a Lot to Laugh, It Takes a Train to Cry)の歌詞「 Well, I ride on a mailtrain, baby Can’t buy a thrill」から抜粋された説が有力だ。

さて、その後のDanは1974年の『Pretzel Logic』リリース後にLIVE活動を休止し、Jeff BaxterJim Hodderは脱退する。
そして、BeckerFagenによるプロジェクト型のユニットとなり、腕利きの外部ミュージシャンを全面的に起用して行く。

Walter Beckerとの別離

だが大成功した「Aja」の次作1980年発表の「Gaucho」はトラブル続き。
このアルバム制作中、薬物の過剰摂取でBeckerの彼女が亡くなり、遺族から訴えられる。
さらにBeckerは麻薬に溺れたり交通事故を起こしたりで、スタジオに来ることもできない事態に。

ようやくリリースできた後にも、タイトル曲の『Gaucho』が Keith Jarrett から盗作で訴えられ、クレジットはJarrettも表記されることになった。
そして1981年6月にSteely Danはあっけなく解散してしまう。

その後2人は疎遠になる。
そしてあるきっかけでツアーを開始し1995年にLIVEアルバム『Alive in America』をリリース。
2000年、Steely Dan名義としては『Gaucho』以来20年ぶりとなるスタジオ・アルバム『Two Against Nature』を発表。全米6位のヒットを記録し、グラミー賞では最優秀アルバムをはじめ4部門を獲得し復活を遂げる。

Steely Dan=Fagen、なのか?

1982年にFagenは初のソロ・アルバムで名盤となる『Nightfly』を発表。この名盤の評価でやはり「Steely Dan=Fagen」だと言う認識が広がった。

だが別離したかに見えた2人はそれでも再度組んだ。

FagenBeckerとのコンビについて「アレンジとか曲のベースは元々ウォルターから出たもの。僕らは音楽的な好みや価値観が似ている。」と語り、「歌詞は一緒に作り、またレコーディング関連や物事の運営はウォルターが長けていた」と語り、Beckerに頼っていたことを明かしている。
Gary Katzは金銭面をBeckerが音楽面でプロデューサー的な役割も務めていたようだ。
さらに「ユーモアのセンスが豊かで楽しい」と彼が精神的な安定剤であったようだ。

そして、1990年録音開始され1993年にリリースされたソロ2作目の「Kamakiriad」のプロデューサーにBeckerを任命し、コンビは再結成となる。
Beckerはベースとギターで演奏にも貢献し、SnowboundWalter Becker&Donald Fagenの久々の共作となる。

Beckerはフロントマンよりもプロデューサー的な役目に長けており、プロデューサーとして多くの快作を世に出している。
チャイナ・クライシス、マイケル・フランクスなど多彩なアーティストをプロデュースしたが、Rickie Lee JonesFlying Cowboys (1989年)は最も成功した事例だろう。
RickieはBeckerの死に際して感動的な追悼文を寄せている。

Beckerの死後、Fagenはプロモーターに商業的な理由からSteely Danとして今後も活動するよう要求されていると語り「僕にとってのSteely Danは自分とウォルターなんだよね、正直なところ。Danは僕たちが一緒に考え出したものだったから」と語っている。

10年の別離期間を除いては、40年以上も2人は濃密なパートナーだった。
Fagenにとっては「別れても好きな人」だったわけである。



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