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種蒔きのたとえ(2022年6月8日)

「ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、ある者は六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」マタイの福音書 13章18〜23節

たとえキリスト者であっても、この世のことに心を奪われ、1番大切な人生の優先順位を誤ることがあります。神のことばに信頼を置かず、自身の肉の力でなんとかこの世の問題を解決してしまおうと考えたり、この世の人に頼って解決の道を探そうとしたりします。しかしながら、これは神が全能であることを悟らない行いであり、一時的な苦難や迫害をも神がその全てをコントロールされているということの理解が乏しいゆえの結果でもあります。
みことばを実践するというのは、神が「信じなさい」と言った通りに、神の支配下にあるその1日を委ねて、「救いは主による」という確信を持って生きることです。
この世が神に立ち返るために備えられた場所ならば、そこで起こることの全てはすでに神がご存知であり、私たちの益とならないようなことはなさらないのではないでしょうか。
誰も神の許しなしに、地上生涯を終えることはありません。私たちが地上での役目を終えるまで、そして終えた後もいつまでも私たちを守っていてくださいます。だからこそ、安心して神にお任せしようではありませんか。

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