見出し画像

ウラディーミル・ホロヴィッツを聴く

 「ホロヴィッツの演奏を聴くまで、私はピアノの可能性を知らなかった」というラフマニノフの言葉は、私に限らず多くの人々にとっても、強い共感を覚える言葉なのではないでしょうか。彼の演奏を聴く前とその後では、ピアノ演奏に対する認識、その世界の幅がまるで違ったものとなるはずです。なぜなら我々は、不可能だと考えていた、或いは想像だにしなかったピアノ演奏というものを、ホロヴィッツによってまざまざと見せつけられることで、雷に打たれたような衝撃を受けるからです。生まれて初めて耳にする音響世界が目前で繰り広げられるのです。彼の持つ前人未到のヴィルトゥオジティ、音色のめくるめく色彩性、楽器が呼吸をしているかのような歌謡性は、まさに彼以外のどの演奏家からも得られない独自のものです。好むと好まざるとにかかわらず、ホロヴィッツの出現は、ショパンやリスト、ルビンシテインの登場と同様、ピアノ演奏史におけるひとつのセンセーショナルな事件であり、おそらくそれ以前もその後も、誰にもできないことを彼が鍵盤上で成し遂げたという事実を見過ごすことはできません。この一つをもってしても、彼が古今を通じて最も偉大な演奏家の一人であると言うには十分でしょう。(彼の生前も、そして現在でさえも、少数の頭の凝り固まった人間が、彼の色彩豊かな響き、超絶技巧、編曲類などを持ち出し、「ホロヴィッツには作曲家や楽譜への真摯な態度、真の音楽性が足りない」などと批判するのですが、芸術性には自身の技量を発揮するヴィルトゥオジティというものが不可欠であり、むしろそれを持たない自称「ピアニスト」がいかに多いかということを、彼らは忘れているようです)。
 ホロヴィッツの演奏スタイルの変換時期を大まかに区切るとすれば、有名な65年の「ヒストリック・リターン」以前と以後とで分かれると思います。20年代から53年の「シルヴァー・ジュビリー」の年までは、彼特有の電流が走るような超絶技巧を要所要所に用いながらも、全体的な造形は非常にスマートで、ペダルは比較的控え目、音のミスも少なく、どこかヨーゼフ・レヴィーンを彷彿させる気品あるスタイルでしたが、復帰後の演奏は、往年のヴィルトゥオジティはそのままに、より細部へのこだわりをみせ、コントラストはさらに明確に、音色のパレットはより豊かに、歌うようなフレージングにあふれる演奏となったのです。引退期間中に、マッティア・バティスティーニをはじめとする往年の大歌手のフレージングを学んだことなどが影響しているのでしょう。面白いことに、後年のこの傾向が強まるにつれて、彼の演奏にはミスタッチが多くみられるようになります。その理由が技巧の衰えにないということは、指摘するまでもないでしょう。

音源① プーランク「トッカータ」1932年録音

 ホロヴィッツの持つ、聴き手の意識を捉えて離さない吸引力は絶大です。彼の一糸乱れぬ集中力、それに伴う緊張感に聴衆は否応なく巻き込まれるのです。純粋な演奏技巧の上でも非の打ちどころはなく、走句の素晴らしい勢いと粒立ち、音色の光沢を生み出す高度なタッチが聴き取れますし、速いテンポの中にあって、ほぼ毎小節ごとに色彩の変化が生じるのを感じます。ほかの演奏家による同曲録音と聴き比べた時、ホロヴィッツの演奏が如何に見事な指さばきをみせ、柔軟且つリズミカルでコントラストに富んでいるかがはっきりとわかるでしょう。この演奏の、今まさに彼の指から迸り出たような前のめりの感覚、爽快なドライブ感は、「トッカータ」という曲の性格に見事に合致しているといえます。

音源② リスト=ブゾーニ「パガニーニ大練習曲より第2番 変ホ長調」1930年録音

 小さな音符で書かれた、弱音で弾かれる装飾的パッセージのなんという美しさでしょう。得も言われぬ気品に満ち、重力を感じさせません。次の和音群との響きのうえでの、またはテンポ上のコントラストによる、確実性と不確実性との調和は見事というほかありません。真の名人はブラヴーラにおける弱音の効果を熟知しています。中間部ではホロヴィッツのトレードマークともいうべき、圧巻のスピードと歯切れの良さをみせるオクターブの連続が現れます。彼と同じ速さでオクターブを弾ける者はいるかもしれませんが、一音一音を区切らず、彼のようにその連なりを一纏めとして捉え、動きの連続性を失うことなくメリハリをつけて弾くことができる者はいないでしょう。過去の巨匠ピアニストたちは皆、作品を全体として捉え、演奏します。細部のコントラストに富みながらも、一貫性を失うことはないのです。

音源③ ショパン「エチュード ヘ長調 作品10の8」1930年録音

 見事な運指による音の粒立ちと、左手の歌心が聴こえてきます。ペダルが控え目なため、響きは濁らず非常にクリアなものとなりますが、光沢のある美しい音色と、そこに施された深い陰影が、乾いた印象となるのを防いでいます。完璧にコントロールされたデュナーミク。最後の弱音で弾かれる4つの和音(記譜上はフォルテ)は、彼の素晴らしい音楽的センスを証明するものです。彼の弾く走句は、微妙に揺れ動く繊細さと、高貴な雰囲気を纏っています。

音源④ ショパン「マズルカ 嬰ハ短調 作品30の4」1928年録音

 ホロヴィッツの最初期の録音のひとつです。彼の弾くマズルカほど歌心と詩情に満ちたものもないでしょう。これは若いころから一貫していたようです。めくるめく色彩の変化。一本調子とは対極にある演奏です。一体現代を生きる同じ年齢の若者で、このように多彩なコントラストをもって小品を魅力的に演奏できる者がいるでしょうか。それとも、大胆なコントラストは現代の流行ではないから、あえてそういうことはしないのだ、とでも主張するのでしょうか。残念ながら私にはそうは思われません。弱冠25歳にしてこのような音楽的センスを持ち、演奏に投射することができたという事実には驚かざるを得ません。この若さにして、演奏者独自の個性が、演奏にはっきりと刻まれていることがわかるのです。

音源⑤ ショパン「マズルカ イ短調 作品17の4」1985年

 こちらは晩年の映像です。テンポの揺れはより大胆になったかもしれませんが、概ね20代の頃と変わらぬ特徴が聴き取れます。歌手の息遣いが聴こえてくるようなこの旋律の扱いは、真似をしようにもできるものではありません。彼のマズルカは古き良き時代の上流社会の洗練を感じさせます。民族的ではなく都会的です。ショパンが生きた時代のサロンの雰囲気に根差すものとでもいえるでしょうか。見事なセンスをみせるルバート、美音と歌心に満ち、実に洒落ているのです。

音源⑥ バッハ=ブゾーニ「いざ来たれ、異教徒の救い主よ」1985年

 同じ映像作品に収められたこの演奏からは、楽器が生き物のように呼吸しているのを感じ取ることができます。楽譜を見ずとも、独唱旋律がどこで現れ、消えていくのかをはっきりと言い当てることができるほど、各声部には見事な明暗の対照が施されています。ピアノと歌声には、音が長く続かず減衰していくという共通点がありますが、ホロヴィッツほどこの性質をうまく利用し、歌手の息遣いをピアノで再現する演奏家はいないのです。彼は自身の演奏技術の秘訣を尋ねられ、一言「ベル・カント!」と答えたといいますが、まさに彼の全演奏を貫くのが「ピアノを人の声のように歌わせる」という理念なのです。前述したようにその傾向は年を経るごとに深まっていきました(もう一つの理念は「ピアノで管弦楽化する」というものです)。コルトーが「ピアノで物語る人」なら、ホロヴィッツは「ピアノで歌う人」なのです。

音源⑦ ラフマニノフ「チェロ・ソナタ ト短調 作品19より第3楽章」1976年録音

 この演奏でも「ピアノを歌わせる」という奇跡の実現を聴くことができます。構造上は打楽器とされるピアノが、一般的には声に近いとされる弦楽器以上に情感豊かに旋律を歌いあげます。このようなピアノの響きはめったに聴けるものではありません。打鍵後の響きは減衰するだけでなく、増大していくような錯覚さえ起こさせます。一体彼はどのようなタッチやペダル操作によって、このような偉業を達成し得たのでしょうか。

音源⑧ ショパン「ノクターン ロ長調 作品62の1」1989年録音

 フリードマン、モイセイヴィッチと並ぶショパンのノクターンのもっとも美しい録音のひとつです。再現部のトリルには、眩いばかりの光に包まれる感覚があります。煌めく高音、温かな中声部、豊かに響く低音部の色分けは実に見事です。
 彼はあらゆるピアノ技法に通じ、楽器の可能性というものを知り尽くしていました。彼の編作を採譜したある音楽家は、ホロヴィッツを「疑いもなく当時最大のピアノ作曲家」だと評しました。ピアノ技法へのたゆまぬ研究は、前述の楽器から歌を引き出すことと同時に、それまで誰も想像し得なかった、管弦楽をも凌駕する響きと、神経に触るような興奮を生み出す超絶技巧をも可能としました。そして特筆すべきなのは、その最大の効果を生み出すための努力は、できる限り最少のものへと抑えられているということです。この点はまさにショパンと共通しており、ホロヴィッツが、この音楽史上最も偉大なピアノ作曲家と同等、或いはそれ以上に楽器に精通していたことを示すものでもあります。

音源⑨ リスト=ホロヴィッツ「ハンガリー狂詩曲第15番」1947年録音

 リストのピアノ作品の出版譜のほとんどは、その音楽を最も基本的な形に還元した姿であり、そこから演奏者の任意で様々な工夫を施し、広がっていく可能性を秘めたもの、というより、本質的に手を加えることを前提とした音楽だと思います。楽譜に記された音のみを拾って演奏されることなど、リスト本人は夢にも思っていなかったでしょう。つまりホロヴィッツが演奏効果のために施した改変の数々は、まさにこの作曲家の精神に倣ったものであり、その意図に忠実であったことの証に他ならないのです。そしてここでの彼の演奏は、リスト本人が聴いたらさぞ狂喜したであろう、素晴らしく多彩な響きと神経に触るような興奮を呼び起こす再創造芸術となっています。縦横無尽に鍵盤の全域を活用し、デモーニッシュで白熱した、信じられないようなおどろおどろしさを演出します。このような種類の音楽には慎み深さなど必要ないということを、彼はよく理解していたのでしょう。だからといって、この演奏に下品な趣味、野暮ったさなどは微塵もありません。彼の華美な響きには、興奮と同時に聴き手の神経を麻痺させ、陶酔させる効果もあるのです。曲の展開の方向性、音域の配置、緩急の匙加減などは、疑いもなく天才的な音楽センスによって成されています。果たしてリスト本人ですら、これを凌駕する演奏効果を出し得ただろうかと疑ってしまうほど、圧倒的な響きを生み出します。クライマックスの凄まじさ、スケールの大きさに押しつぶされそうです。ホロヴィッツのように誰もがピアノを弾けるのであれば、オーケストラは必要でなくなってしまうかもしれません。

音源⑩ メンデルスゾーン=リスト=ホロヴィッツ「結婚行進曲」1946年録音

 彼の編曲作品には稀有のピアノ技法の才能のほか、構成に対する素晴らしい感覚が、原曲へのカットという形で表れています。生粋の舞台人である彼ならではの、聴衆の注意を最後まで引き付けるための極意のひとつなのでしょう。この演奏に聴く壮麗な響きは、どのオーケストラをも凌いでいると思われますし、中間部の詩的な味わいには、ピアノならではの魅力があります。さざ波のような効果が聴き取れるでしょう。各変奏のコントラストは鮮やかですし、これ以上ないほど技巧は洗練されています。すべてのパッセージは明瞭でゆるぎなく、音のひとつひとつが研ぎ澄まされています。まやかしやハッタリの類は一切存在しません。楽器が完全に鳴り切っているという感覚が、弱奏、強奏にかかわらず常に存在しています。

音源⑪ ラフマニノフ「ソナタ第2番 変ロ短調 作品36」1968年録音

 初版と改訂版を織り交ぜたこの演奏にも、彼の編曲センス、取捨選択のセンスが表れています。爆発するかのような響き、聴く者の髪の毛が逆立つような興奮は、ホロヴィッツならではのものですが、同時に彼の出す音そのものは非常に艶めかしい、感覚に訴える性質のものであり、耳に不快感をもたらす金属的な響きとはなりません。この独特の音色の艶は、ソフロニツキーの胸に突き刺さるような痛切さを伴う代わりに、人々をどこまでも陶酔させるのです。「空虚さ」とは対極にある音です。このことは年を経るにつれ顕著となっていきます。

音源⑫ スクリャービン「エチュード 嬰ハ短調 作品42の5」1953年録音

 このスクリャービン演奏からは内なる炎、苦悩に満ちたロマンティシズムが感じられます。第二主題のなんという艶やかさでしょう。コーダでの、それまで抑えられていた情感の波が一気に押し寄せ、再び静まるその繊細な揺れ動きに、聴き手の感情も深く共鳴するのです。

音源⑬ スクリャービン「エチュード 嬰ヘ長調 作品42の4」1972年録音

 この演奏には催眠にかけるような感覚があります。スクリャービン作品のもつ即興性、捉え難さ、流動的な性格をこれほど見事に表現した演奏はなかなかないでしょう。

音源⑭ リスト「ペトラルカのソネット第104番」1986年録音

 彼の演奏には常に独特の緊張感と熱気が張り巡らされ、聴衆の注意を引き付けずにはおかない性質があります。そして、ここぞという時の感情の爆発でみせる、電気が走ったような感覚は、他のどの演奏家からも味わえないほど衝撃的です。聴衆の意識を完全にコントロールするその舞台上での演出力は比類ないものです。情感の起伏をこれほど豊かに表現する演奏はほかにないのです。

音源⑮ ショパン「バラード ト短調 作品23」1965年録音

 有名な12年ぶりの復帰公演、通称「ヒストリック・リターン」での演奏です。彼の十八番ともいえるこの曲の演奏でも、そのドラマティックな展開は、聴き手に否応なく文学的な連想を抱かせるでしょう。特に素晴らしいのはコーダを静かに始めることで、次第に高まる緊張感、そしてそれが最高潮に達したときの演奏効果にはこれ以上ないものがあります。多くの演奏家が平凡なデュナーミクで弾き通すのに比べて、なんとコントラストに富み、抒情的なのでしょうか。

音源⑯ モーツァルト「ソナタ イ長調 K.331より第3楽章」1966年録音

 彼がヴィルトゥオジティを発揮したのは編曲ものやロマン派の華麗な音楽だけだ、というのはあまりにも暴論であると言わざるを得ません。彼の手に掛かれば、いかにシンプルな構造の小品であろうと、最大の音楽的効果を伴って聴き手の前に表れるのです。この演奏からは、淡々としたテンポで進む中、フレーズごとに変化する段階的な強弱と音色のコントラストを経て、最後の大団円にいたるという綿密な設計が聴き取れます。この誰もが知るシンプルな楽曲で、華美な装飾もなしに、これほどまで聴衆の熱狂を引き起こすことのできる演奏家がほかにいるでしょうか。まさに究極の音楽づくりの一例といえるでしょう。

音源⑰ モーツァルト「ソナタ 変ロ長調K.281より第3楽章」1988年録音

 ホロヴィッツのモーツァルト演奏ほど、この作曲家の音楽に血の通った感情を蘇らせるものはありません。そこには人形のように一見愛らしくもその実無機質で冷たい表情などは一切なく、作曲家がこれを書いた時に抱いていたであろう様々な感情が、音となって再び表出するのです。すべてのパッセージには深い陰影があり、平面的になる瞬間はありません。古典の偉大な作曲家であろうと、我々と同じ人間であることを彼は思い出させてくれるのです。なんという瑞々しさ!

音源⑱ バッハ「トッカータ ハ短調」1949年録音

 これはホロヴィッツの演奏で聴くことができる唯一のバッハのオリジナル作品ですが、私は未だかつて、これほどまでに情熱迸るバッハ演奏というものを聴いたことがありません。トッカータという曲の性格に見事に合致した即興的な感情の奔出が聴こえてきます。あまりにも巨大なその波に、聴き手は為す術もなく飲み込まれていくのです。「熱情ソナタ」に通づるような激情、苦悩と葛藤が感じられます。モーツァルト同様、ホロヴィッツはバッハ作品にも人間的な生身の感情を復活させているのです。またこの演奏は、彼がバッハの線的書法を完璧に操っていることも示しています。各声部に声の抑揚が失われることはありません。多声部処理における技巧的な余裕が常に感じられます。

音源⑲ シューマン「トロイメライ」1986年録音

 有名な「トロイメライ」の演奏でも、彼による線的書法の巧みな処理が聴き取れるでしょう。多声部が複雑に絡み合いながらも、常に色分けがはっきりとしているため、響きの透明性が失われることはありません。

音源⑳ ドビュッシー「喜びの島」1966年録音

 ホロヴィッツのドビュッシー演奏からは、印象派の雲のような捉え難さは消え去っています。そのクリアな技巧と魅惑のペダル効果で、確固たる造形そのものが浮かび上がると同時に、作曲者自身も想像し得なかったと思われるほどの鮮やかな色彩が加わるのです。彼が「映像」「前奏曲」よりも、この曲や「練習曲」「子供の領分」を比較的多く取り上げたのも、彼のピアニズムの特徴を考えれば当然だったのかもしれません。そしてこの作品ほど、彼のピアニズムと相性の良いドビュッシー作品もなかったでしょう。ドビュッシーにもヴィルトゥオジティが必要であることがよくわかります。
 素晴らしい録音の全てを取り上げていてはキリがありません。コンチェルトの演奏にも触れなければなりませんが、チャイコフスキーとラフマニノフの名演には今さら何も言うことはないでしょう。これらは同曲最高の演奏のひとつであり続ける(ラフマニノフの第3協奏曲は作曲者自身の録音をも凌駕しています)と言えば十分です。

音源㉑ ブラームス「ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 作品15」1936年録音

 ブルーノ・ワルターとのこのライブ録音は、マグマの噴出を思わせる熱気とおどろおどろしさ、漲る活力、むせかえるようなロマンティシズムなど、ヴィルトゥオーゾ的な面と感情面の両方における、演奏芸術のひとつの頂点である様に思われます。駆り立てるような雰囲気、はち切れんばかりの興奮とともに若者の苦悩が全編にわたって横溢しています。この演奏は、作品が疾風怒濤時代の若きブラームスによって書かれたという事実を思い出させてくれます。作曲家の精神が乗り移ったかのような気迫が感じられます。これはもはや「ピアノがオーケストラの一部となった協奏曲」ではなくなっていますが、それでいいのです。この曲を第2協奏曲、或いは晩年のピアノ独奏曲を弾く時と同じような落ち着いた態度で演奏する人がいますが、一体どちらが再現芸術家としての正しい姿勢といえるでしょうか。
 ホロヴィッツが楽器から生み出す未曽有の響きを知らずして、ピアノ演奏芸術を語ることはできません。特にピアノを学ぶ若者にとっては、彼の演奏を知っているのとそうでないのとで明らかな進歩の差が生まれるでしょう。なぜなら、彼らが到達すべき、目指すべき目標の高さ、人間が作り出し得る響きの可能性の知覚に大きな隔たりができるからです(彼と同じように弾くことを目標としても意味がありません。しかし彼の演奏には、自身の理想へ近づくための膨大なヒントが隠されていることでしょう)。ホロヴィッツは、人間がピアノを弾くという行為におけるひとつの究極の姿を示しました。彼と同じ道をたどって彼を超えることなど不可能ですし、その必要はありません。未来のピアニストたちは彼の技術を、成し遂げたことを、録音を聴いて学び、彼とは別の道を歩まなければならないのです。

音源㉒ ホロヴィッツ「カルメン変奏曲」1968年録音


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?