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ヨーゼフ・ホフマンを聴く

 ハロルド・ショーンバーグの名著「偉大なピアニストたち」によると、セルゲイ・ラフマニノフとヨーゼフ・ホフマンの二人は、楽譜の指示よりも演奏者本人の主張を色濃く反映した主観的ロマンティシズム全盛、19世紀後半から20世紀前半にかけてのピアノ演奏界において、後に主流となる、主情を排し楽譜に書かれていることを正確に再現する客観的姿勢を示したことで、「黄金期のモダニスト」ともいうべき、その時代に際立った地位を確立したといいます。このことは、実際に二人の遺した録音と、同時代のほかの大ピアニストの何人かとを比べてみれば、すぐに解ることだと思われます。パハマン、ブゾーニ、パデレフスキ、リストの有名な弟子たちの演奏と比べ、彼ら二人が行った改変というものは極端に少なく、あふれるファンタジーと同時に、確かな技術と審美眼、確固たる構成を強く感じさせるものとなっているのです。
 特にホフマンの1900年代から20年代初頭にかけての初期のアコースティック録音と、30年代にテスト録音という形で遺されたスタジオ電気録音は、まさに楽譜に書かれた音、テンポ、発想記号を細部に至るまで悉く正確に再現した、驚くべき偉業といえるのではないでしょうか。

音源① リスト「タランテラ」1916年録音

 不自然さ、いびつなところは完全に消え去り、作曲家が書いた音楽そのものが聴こえてきます。しかし当然これは、自動演奏ピアノなどでいうところの「正確さ」とは無関係であることに注意しなければなりません。然るべきタイミングで音が鳴り、然るべき音色、強弱、緩急のコントラストがあり、然るべきフレージングで旋律は彩られます。すべてが均一であるという意味での「完璧さ」ではないということは、お聴きになれば自然とお解りになるでしょう。ここでいう「完璧さ」とは、その演奏が、あまりにも細部まで磨かれ切っており、理に適っているが故の「自然さ」のことなのです。ピョートル・アンデルジェフスキは、ホフマンによるラフマニノフの嬰ハ短調プレリュードの演奏映像を評して、「ピアノとの格闘が全く感じられない」と言っていましたが、この的確な表現は、ホフマンのほぼすべての演奏にも適用できるのではないかと思われます。この「タランテラ」にも技術的な苦労の痕など微塵もありません。どんなに困難な箇所においても、それらはいとも容易く行われているように感じられます。重音であったり、跳躍であったり、多声部の同時進行であったり、演奏上の込み入ったところには、常にある種の「軽快さ」が、「余裕」が存在するのです。そういった意味での非人間的、或いは超人的な彼の演奏録音を聴くたびに、聴き手は本当にこのようなことが可能なのかと、つい自問することとなります。彼はおそらく、あらゆる天才の中でも特殊な例だったのでしょう。ホフマンの演奏を聴くと、彼にはピアノ技法上の困難など何も存在しない、まさにピアノを弾くように生まれついた人間なのではないかと思わざるを得なくなります。彼は神童で、血のにじむような練習で大成したタイプでもありませんし、これはもう、ショパンと同じ種類の天才だったと言っても差し支えないでしょう。

音源② ショパン「スケルツォ第1番 ロ短調 作品20」1923年録音


 ホフマンほど真珠のように粒のそろった音階を、とてつもない速さで弾ける演奏家は、後のグールドまで現れなかったのではないでしょうか。そしてここでの火を噴くような勢いと情熱はどうでしょう。低音の爆発するような衝撃、閃光のように鋭いパッセージ。また中間部においても、リズムやテンポに前のめりの感覚は失われていません。

音源③ スカルラッティ=タウジヒ「パストラーレとカプリッチョ」1923年録音 

 「パストラーレ」に漂う得も言われぬ気品。だらしのないところなど皆無で、最初から最後まで実に引き締まった雰囲気が感じられます。上行音階のなんという軽やかさとスピード。トリルと3度のパッセージは緊張で弾け、流麗な冒頭主題との見事なコントラストを作り上げます。「カプリッチョ」での精緻を極めた弱音の走句と、響き渡る和音の華やかさ。ホフマン特有の、演奏上の困難が完全に消え失せたことによる縦横無尽の音の戯れが、遺憾なく発揮されています。この録音における「気品を伴った軽やかさ」、人為的なものを感じさせない「自然発生的な味わい」は、ちょっと他では聴くことができないように思われます。

音源④ ワーグナー=ブラッサン「魔の炎の音楽」1923年録音

 音のプリズム。万華鏡のような色とりどりの響きの効果を感じ取れはしないでしょうか。「モダニスト」とはいっても、彼は現代の無味乾燥な学術的楽譜至上主義者とは違い、なによりも音色の美しさに重きを置く、偉大な黄金時代の系譜に名を連ねる色彩の大家でもあるのです。
 ホフマンの持つ、この驚くべき正確さと自然さ、豊かで美しい音、引き締まった音楽の流れは、後年のスタジオ録音においても、はっきりと確認することができます。

音源⑤ ショパン「ソナタ第3番 ロ短調より第1楽章」1935年録音

 ラフマニノフは、コンサートでホフマンの弾くこのソナタを聴き、「この曲を自分のレパートリーから外した方がよさそうだ」と友人に漏らしたといいます。この録音はテスト録音という形で幸いにも後世の我々に残された訳ですが、つくづく、彼が残りの楽章を録音しなかったことが悔やまれるほど、素晴らしい演奏です。すべてのフレーズが明確な線を描き、はっきりとした輪郭を与えられ、いとも自然に響きの中へ溶け込んでゆくような感覚があります。後のグールドのバッハ演奏に少し似て、すべての声部に命が与えられ、意志をもつことにより、音楽の密度が高まります。各指、各声部が同等の役割を担うことで、音楽が引き締まり、流れに独特の緊張感が生じるのです。ホフマンの演奏には、この独立した声部の多用な動きから生まれる、常に何かに引っ張られるような感覚、リズムとテンポ、フレージングにおける独特の「張り」があるように、私はいつも感じるのです。それは柔軟ではあるけれど、ピンと張った太い糸のようなもので、小さなフレーズ単位にいたるまで、引いたり緩めたりを繰り返しながら、演奏全体を貫いています。彼の演奏がポリフォニックで、隠れた旋律の表出が頻繁にみられることは、至極当然であると言えるでしょう(しかし、彼の演奏からは縦のリズムの感覚を強く感じることもまた事実です)。またここには、恣意的な解釈は一切なく、完璧な技術と演奏者自身の優れた音楽性、趣味の良さからくる絶大な説得力があります。全曲録音を遺していれば、同曲最高の名演のひとつとして、広く聴かれることとなったでしょう。
 
 ホフマンは、偉大なロシア・ピアニズムの祖、アントン・ルビンシテインの個人レッスンを受けた唯一の弟子でした。ルビンシテインはレッスンで、常に楽譜に忠実であることをホフマンへ要求したといいます。彼の楽譜に対する正確さは、師の教えの賜物であったのかもしれません。しかし、ルビンシテイン自身の演奏は、その教えとは全く異なる、自発性にあふれた再創造行為以外の何物でもありませんでした。ホフマンがその矛盾を師へ問い質すと、彼は「君が今の私と同じ年齢になったら、私のようにしてもよい。君にできるのなら」と答えたといいます。どうやらホフマンは、このルビンシテインの教えにも従ったようです。レコード録音に懐疑的であったホフマンは、この時代のピアニストとしては珍しく、いくつかのライヴ録音とラジオ放送録音を遺しています。それらは主に1930年代後半から40年代、彼の演奏活動の後半に録られたものなのですが、そこに聴かれる演奏には、スタジオ録音にはみられない感情の奔流といいますか、それ以上の深いコントラストが刻印されているように思われるのです。音楽の情緒はより大胆に揺れ動きます。

音源⑥ ショパン「ワルツ 変イ長調 作品42」1935年録音

 相変わらず寸分の狂いもない演奏です。絶妙なレガート、はじけるような走句、煌びやかな音色、コーダのヴィルトゥオジティ。ペダルの乱用は避けられており、パッセージの歯切れが良く立体的で、実に生き生きとしています。

音源⑦ ショパン「ワルツ 変イ長調 作品42」1936年録音(ライヴ)

 スタジオ録音での特色に加え、強弱や緩急の変化が若干強調され、和音のアルペジオ化、内声のアクセント、テンポもより流動的です。そしてバスに轟音のような効果を与えて鳴らすのも印象的です。
 ここからは演奏活動後期のライヴ録音を取り上げていきましょう。
 彼の真珠のように粒のそろった滑らかな音階は、多くのピアニストたちの憧れの的であったことでしょう。

音源⑧ ショパン「ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調 作品21より第2楽章」1945年録音(ライヴ)

 速いパッセージの、文字通り光り輝くような効果。音色、フレージングの妙技は言うまでもなく、彼は多数の音から成る装飾を、変に粘ったりせず、次の楽想の中へ自然に溶け込むように、一息にさらっと弾くことで、そのような印象を生み出しています。それによって、元の旋律を彩る装飾音としての最高の効果を得ることができるのです。装飾音の見事な、正しい扱い方を、ここから学ぶことができるでしょう。多くの現代の演奏家は、このような音型を、情感たっぷりにテンポを揺らして弾くことで、長いフレーズの一部であるべきその音群に、独立した時間を与えてしまい、流れの中断を引き起こしてしまっています。また、ノン・レガートの魅惑的なタッチも特筆に値します。どんなに速く弾いても、一音一音が実に立体的です。さらにここには、ひねくれたアゴーギクなども一切ありません。現代の音楽界には、主観的に過ぎる、または感情過多であるなどと言って、過去の巨匠たちを批判する傾向がありますが、このショパン演奏などは、現代のネチネチして節度のない、全体像のぼやけた演奏よりも、よほど抑制され、引き締まった印象を聴き手にもたらします。客観主義を掲げているはずの現代人の方が、よほど作品を歪めているということに、早く気づくべきです。まさにこの演奏は「まるでモーツァルト風に古典的に扱われた素晴らしいショパン」(ホルクマン)といえるでしょう。

音源⑨ ショパン「夜想曲 ロ長調 作品9の3」1938年録音(ライヴ)

 即興的な指慣らしから、すでに魔法のような響きの片鱗を垣間見ることができます。前述の装飾音の妙技がここでも発揮されています。軽やかに素早く弾かれる装飾音と、主旋律の芯のある音とのコントラストは鮮やかです。演奏全体の活力、リズムやフレージングにおける「張り」は、前述したようにホフマン独特のものです。テーマの冒頭、六度の跳躍からすでにそれは感じられます。また、前のめりのテンポと、ダイナミクスの鮮やかな対比によって、このノクターンの夢見がちな雰囲気を打ち破り、隠れた活気、8分の6拍子のアレグレット楽曲であることを、聴き手に思い出させます。重々しさの欠片もない、信じられないような軽やかなパッセージの弾き方は、誰にも真似のできないものでしょう。ペダルは控えめですが、絶妙なレガート・カンタービレによって、響きの潤いは損なわれていません。
 師のアントン・ルビンシテインの演奏を彷彿させる名演として有名なのが、1938年、カシミール・ホールでのリサイタルにおける、ショパンのヘ短調バラードです。

音源⑩ ショパン「バラード第4番 ヘ短調 作品52」1938年録音(ライヴ)

 ホフマンのもっとも想像力あふれる演奏のひとつでしょう。ダイナミクスの驚異的な幅、内声に隠れた旋律の表出、彼特有の「張り」と活気。こういった特色に加え、あらゆる抑制を取り払って、自身の内なる激情を表面化させたような、鬼気迫る雰囲気がここにはあります。情感が爆発するところでの劇的効果、迫力は、あのホロヴィッツをも凌ぐものがあります。変ニ長調での第2主題の再現からコーダにかけての、聴き手を圧倒する響きの増減のコントラストは実に驚異的です。
 有名な「ゴールデン・ジュビリー・コンサート」でも、ライヴならではの即興性、めくるめく響きの変容、聴衆を前にした時のヴィルトゥオジティを堪能することができます。

音源⑪ ラフマニノフ「前奏曲 ト短調 作品23の5」1937年録音(ライヴ)

 ホフマンの演奏は、この、ややもすれば騒々しい軍隊行進曲となりがちなプレリュードに、一種の気品のようなものを与え、作品をより高い次元へ運ぶことに成功しています。主部は分厚い和音を扱っているとは思えないほどリズミカルですし、各音のバランスはまったく自然です。中間部の、特に内声に旋律が浮き立つ様は見事の一言に尽きます。
 同じ演奏会の最後のアンコール曲となった、モシュコフスキ「スペイン奇想曲」を聴いて終わりにしましょう。わずか10歳ですでにコンサートに出演していたホフマンは、如何にして聴衆を沸かせるか、その術を完全に心得ていました。舞台上ではある程度の誇張が必要であること、色彩のコントラストを縦横にちりばめること。やはり現代人が彼の演奏から学ぶべきことは、とてつもなく多いようです。

音源⑫ モシュコフスキ「スペイン奇想曲」1937年録音(ライヴ)



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