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アルフレッド・コルトーを聴く

音源① サン=サーンス「ワルツ形式のエチュード」1919年録音

音源② リスト「ハンガリー狂詩曲第11番 イ短調」1926年録音

 冒頭からいきなりこの2つの録音を挙げた理由は、現代まで根強く残っている、「コルトーは技巧面で弱い」という誤った認識を払拭するためであります。この偉大なフランスの大家について書く時、一種の決まり文句のような形で、彼のテクニック上の欠陥を指摘せずには済まされぬという風潮が、未だに多くみられるのは、なんとも残念というほかありません。録音に聴かれる彼の素晴らしいルバートを絶賛する評論家、演奏家、愛好家のことごとくが、「ミスタッチは多いけれど」という一文を加えずにはいられなかったり、もっと酷い場合には「テクニックは現代の若手には及ばぬ」などといった暴論まで飛び出す様子には、ほとほと呆れてしまいます。いつも私は不思議に思うのですが、一体彼らはコルトーの演奏の何を、どこを聴いて、テクニックが弱いと判断するのでしょうか。彼がピアノ技法の最も困難な要求にも答え得る素晴らしい指の持ち主であることは、この2つの録音や、有名なショパンのエチュードの録音を聴くだけでも十分わかります。そこで要求される様々な技巧課題を、彼が鮮やかに解決していることが、はっきりと聴き取れるからです。するとやはりこのような批判を彼に浴びせる人々は、彼の録音の中に聴かれるミスタッチを逐一数えては、その数量でテクニックの有無を判断しているとしか考えられません。まさか、身体的衰えが垣間見える、晩年の録音の手のもつれを引っ張り出してきて「彼は下手だ」と断定するなんてことしはないでしょうから(それならホロヴィッツも、ルービンシュタインも、モイセイヴィッチも、ギレリスも、ミケランジェリも、皆テクニックに難ありの演奏家ということになってしまいます)。昔の大家たちは、細々と作品を解体するのではなく、大きな全体像を把握して演奏します。木を見て森を見ず。愚かな聴き手は小さな失敗を論い、演奏の本質を捉えようとはしないのです。こういう聴き方をする人の耳は、ただの計測器であって、音楽的な耳であるとは到底考えられません。今すぐ耳を取り換えるか、音楽から離れるべきでしょう。
 ホロヴィッツは技巧と技術の違いをこう説いています。技巧とは「遅く、速く弾いたり、音階、和音、アルペジオ、トリル、オクターヴなどを弾く能力のことで目的に対する手段であるが、目的そのものではない」。技術とは「自身の楽想を楽器を通じて聴き手の中へ投射すること。耳に聞こえる演奏へ楽想を変換させることを可能とするすべてのもの。ペダルの加減、色彩性、情感を投射する能力。技術とはどういう風にやるかを心得ることなのだ」。
 コルトーのミスタッチを非難する者は、それを数えることに夢中なあまり、彼の表現する音楽そのものに耳を塞いでしまっています。彼が如何に色彩豊かなコントラストを用い、情感を適切に作品へと投射させているかを全く無視してしまっているように思われてなりません。そんなに間違った音が気になりますか? それらは彼の素晴らしい表現を邪魔するほど耳障りなものですか? 
 なぜ彼の録音には、比較的初期のものも含め、少なからぬ間違った音がそのまま残されているのでしょうか。当時の編集技術で消し去ることができなかったことは別として、それは彼に高度な技巧が欠けていたからではないのです。彼がタッチ、音色のコントラストに何よりも心を砕いていたからにほかなりません。コルトーには黄金時代の巨匠の名に恥じない、最高級の演奏技巧がありました。正確に弾こうと思えば弾けたのです。しかしそれは彼の演奏の目的のひとつですらありませんでした。鍵盤上の困難を克服した経験を持つ者と、そうでない者とが犯すミスタッチには、明らかに聴いてわかる違いが存在すると思います。前者には、その経験からくる余裕が常に存在し、間違ったとしても、演奏者自身がそれを気にも留めていない、彼ら自身の中で、音楽の流れはそれと無関係に進んでいくため、演奏の土台そのものはピクリともせず、聴き手も進行の違和感、不自然さを感じることなくいられるのですが、後者の場合は、間違えずに弾くこと自体が目的のひとつとなってしまっているので、少しでも音をひっかけた途端、音楽の流れが滞り、その土台、バランスが崩れます。それは聴き手にも、明らかな不快感として伝わることとなります。その作品を弾くための技術的余裕を持ち合わせていないため、賢い処理の仕方がわからないのです。
 ではなぜ、タッチへの心配りのためにミスが多くなるのでしょうか。様々な音色の変化を生み出すためには、椅子を高くするか・低くするか、手首の位置を上げるか・深く落とすか、手を高々と上げて振り落とすか・鍵盤に近づけ水平を保つか、指を伸ばすか・曲げるか、体重をかけるか・腕の重みだけに頼るか、手首は硬直させるか・柔軟にしておくか、などといった多種多様な工夫が必要となります。何をどのように用いるかは個人によって異なります。一方、正確さのためには、リラックスしたフォームを一つ決め、目は楽譜、或いは鍵盤に釘付けにし、一音一音を注意深く追っていくだけでしょう。簡単なこととは言いませんが、ひどく機械的な単純作業であることは間違いありません。基本的にこの2つの完全な両立は不可能であると思われます。どちらにより多くの比重が置かれるかは、その演奏家の音楽観次第です。そして言うまでもなく、コルトーをはじめ真のピアノの巨匠たちは皆、前者に重きを置いていたのです。コルトーの演奏を聴くとき、彼の真の意図に耳を傾けることもせず、間違った音を数えては、「コルトーには技術的正確さが―」云々言う人間が未だに大勢いることは、なんとも嘆かわしいとしか言いようがありません。
「ワルツ形式のエチュード」における奇跡的な重音パッセージの連なり、重力から解放されたような真の軽やかさと男性的力強さの見事な結合はどうでしょうか。完璧な技巧のうえ、さらに表現の素晴らしいコントラストがあることがおわかりになるでしょう。
「ハンガリー狂詩曲第11番」は同曲最高の演奏のひとつです。各部は明らかな性格上のコントラスト、色彩の変化によって明確に区切られています。この短く、一見捉えどころのないようにみえるラプソディに、ドラマ的な起伏、展開が与えられることで、全体をまとめる見事な道筋が出来上がり、聴き手に作品の一貫性を強く感じさせることとなるのです。これらを最初から最後まで同じ色合い、雰囲気で演奏してしまうと、逆に聴き手に支離滅裂な印象を与えてしまうということを、コルトーはよく理解していたのでしょう。リストのラプソディを生き生きとした大作としてまとめ上げるためには、この大胆なコントラストが必要不可欠なのです。そして当然、ここで要求されるあらゆるテクニック上の問題は、これ以上ない鮮やかさで見事に処理されています。冒頭トレモロの結尾に半音階を加えるなど実に洒落ています。また、最後の嬰ヘ長調のセクションを、バスにアクセントを置きつつ静かに始めるところなどもセンス抜群です。これら二つを聴いてもなお、多彩な表現上の工夫と圧倒的なヴィルトゥオジティには目もくれず、そこに聞こえるわずかなミスタッチを引き合いに出して文句を言うような人間がいるとしたら、もう手の施しようがありません。
 結果的に私自身も、不当な評価に異を唱えるためとはいえ、コルトーの演奏技巧の話題を長々と続けてきてしまいました。もう彼の技術の優れていることについては十分証明できたこととし、素晴らしい録音の数々に話題を移しましょう。
 彼の演奏の特色として、何よりも印象的なのは、真似のできぬ独特のルバート感覚、フランス風に華やかな音色とドイツ風の男性的力強さとの融合、語りかけるような雄弁さ、などが挙げられるでしょうか。音色の華やかなところと、重力を感じさせない軽やかさ、粋で洒落た演奏スタイルは、特に初期の録音を聴くとよくわかります。

音源③ アルベニス「セギディーリャ」1919年録音

 こういった曲を彼がアンコールに持ち出すと、聴衆がこれ以上ないほど沸いたという話も納得できます。
 コルトーの演奏にみられる感覚的なものと知的なものとの絶妙なバランスは、彼の代名詞ともいえるショパン作品の演奏に、唯一無二の味わいを与えているように思われます。

音源④ ショパン「ワルツ 嬰ハ短調 作品64の2」1925年録音

音源⑤ ショパン「エチュード 変イ長調 作品25の1」1925年録音

 彼の華やかな音色と繊細なフレージングは、19世紀サロンのロマン的な雰囲気を感じさせる一方、確かな音楽観に裏打ちされたデュナーミク、アゴーギクの調整、リズムの統制力などは、20世紀以降主流となるショパン観に通ずるものがあるように思われます。パハマン、ミハウォフスキ、パデレフスキらの主観性と、ラフマニノフ、ホフマン、ルービンシュタインらの客観性とを、絶妙な塩梅で混ぜ合わせたとでもいえるでしょうか。個々に展開される表現は非常に個性的であるにもかかわらず、全体の印象は非常にすっきりとしているというのが、コルトーの演奏を聴いて私が強く感じてきたことです。彼の表現には不思議とくどさがありません。彼のルバートは、常に一線を超えることがないよう、知的にコントロールされているのです。

音源⑥ ショパン「ソナタ 変ロ短調 作品35」1933年録音

 彼によるこのソナタの演奏は、現在5つの録音(28年、33年、52年、53年、56年)で聴くことができます。この33年録音からは、華やかな響き、漲る活力、稀にみる雄弁さを聴きとることができます。元来、ドラマティック且つ抒情的な性格のこの作品に、彼の、どちらかというと明るい色彩のコントラストが加わり、深刻さというよりもブラヴーラを強く意識させる、オペラ的な場面転換が目前で繰り広げられているような印象を聴き手に与えます。劇的効果たっぷりの演奏ですが、全体像はやはりスマートです。彼はそれと気づかれることなく、様々な情感を適度に調整しつつ、作品へ投射しているのです。また、各楽章のテンポ設定は比較的速めですが、多彩なコントラストと雄弁なフレージングによる豊かな内容が、そのことを覆い隠しています。一般的にコルトーは、「夢見るピアノの詩人」という風なイメージで語られることが多いような気がしますが、彼には音楽に劇的効果を与える力強さと華麗なヴィルトゥオジティ、作品を全体として捉え、立派にまとめあげる統制力も備わっていたということを、覚えておかなければなりません。
 有名な校訂版楽譜や著作などを読んでもわかる通り、彼は音楽の中に、はっきりとした文学的イメージを持っていました。彼は演奏することで、そのイメージを音で語ります。同時に、明確なイメージを持つこと、主張があるということは、演奏する際、聴衆に対する強い説得力を持つことへもつながるのです。                                

音源⑦ ショパン「バラード第2番 ヘ長調 作品38」1929録音

 明暗の対照はこれ以上ないほど鮮やかです。演劇のような動きに満ちています。コーダの激しさは想像を絶するほどで、結尾のイ短調でのテーマの回想は、背筋の凍るような恐怖心を聴き手に抱かせることでしょう。
 彼の演奏にみられる歌謡性は、楽器を人の声のように歌わせるというよりも、「語り」に近いものであるといったほうが適当かもしれません。

音源⑧ バッハ=コルトー「アリオーソ」1948年録音

 心に染み入るような演奏です。知的に匙加減が調整されているとはいえ、コルトーのルバートは、例えば「盗まれた時間はあとでまた取り戻さなければならない」といったタイプのものとは違うように思われます。彼は「やり過ぎ」までいかない様、コントロールしているのであって、結果的にそうなったとしても、時間そのものを調節しているわけではないのです。文脈上、たっぷり時間をかけるべきところが続くのであれば、後で速めるところを無理に設定する必要などないのです。この演奏は聴き手に、音楽がどこからともなく湧き上がり、無限に続いていくかのような錯覚を起こさせます。いつの間にか曲が終わっていることに気がつくのです。

音源⑨ ブラームス=コルトー「子守歌」1952録音

 旋律を担う音色のなんという円やかさ。テノール音域での芯のある太さ、次のオクターヴでの清らかさ、最後の中音域の包み込むようなあたたかさ。アルペジオの沸き立つような感覚。音だけでなくリズムの上でも、角張ったところは完全に消え失せています。

音源⑩ シューマン「子供の情景」1953年録音

 「シューマンの音楽は非常に声楽的だから歌わなければならない。あまり静かに弾きすぎないように。歌手の第一の野心は脚光を浴びることだ」とコルトーは語りました。これ以上に朗々と歌われるこの曲の演奏を聴いたことがありません。どんなに小さな短い曲でも、旋律は実に雄弁に、聴き手へ語り掛けます。上声、内声、バス、どこであっても、常に主役となる旋律にいちばんの光が当てられるのです。
 再創造芸術家としての彼の本領を遺憾なく発揮していると思われる演奏は、意外にも、高齢による技巧上の衰えがみえ始めた晩年のライヴにおける、シューマンのピアノ協奏曲の録音です。これは譜面の奥にある感情を一つ残らず炙り出し、音へと昇華させた、稀にみる演奏芸術の奇跡です。聴き慣れた音とは違うものが聞こえてくるといったことは、もう問題ではなく、彼の心の内にあるものが音楽として表出するその瞬間に、今まさに立ち会っているといった感覚に、聴く者は満たされます。コルトーはこの時、シューマンその人と同化し、作曲家がこれを創作していた時の感情を、ひとつひとつ追体験しているのです。創造行為と再創造行為とが一体となった奇跡の瞬間です。ここではコルトー自身もまた、この協奏曲の作者なのです。このような演奏は、残念ながら既に地球上から滅亡してしまった、もう二度と聴くことができない類のものでしょう。

音源⑪ シューマン「ピアノ協奏曲 イ短調 作品54」1950年代録音(ライヴ)




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