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ベンノ・モイセイヴィッチを聴く

 モイセイヴィッチもまたフリードマンと同様に、その偉大な業績に比して、不当に無視されている大ピアニストのひとりです。彼もまたピアノの名人であることに変わりはありませんが、フリードマンがもつ、ある種の泥臭さのようなものは微塵も感じさせず、演奏スタイル、テクニックの両面で、素晴らしく洗練された印象を与える演奏家です。「貴族的なピアニスト」という言葉がぴったり当てはまる人といえるでしょうか。再創造芸術家である彼は当然、躊躇することなく楽譜を改変し(もちろん節度を保って)、眩いばかりのコントラストで聴く者を楽しませてくれますが、そこには常に「趣味の良さ」が感じられ、低俗に堕することは決してありません。それに加えて、美しい音と壮麗な響き、切れ味抜群の清潔な技巧が彼にはあり、それらが甚だ端正な演奏スタイルを形作ることとなるのです。

音源① ワーグナー=リスト「イゾルデの愛の死」1928年録音

 この作品のむせかえるようなロマンティシズムが、全編に渡り横溢しています。音楽は次から次へと転調を重ねつつ、最初から最後までひとつの大きな流れとして捉えられ、途中で不自然に途切れることはありません。作品を細々と切り刻むのではなく、全体として捉え演奏することが、黄金時代の巨匠の演奏の特徴のひとつです。夢想的な雰囲気に包まれながらも、彼の弾くパッセージの一音一音は非常に粒立ちがよく、そのことが音の流れにきびきびとした運動性をもたらし、眠気を誘う焦点のぼやけた演奏となることを防いでいるのです。

音源② メンデルスゾーン=ラフマニノフ「スケルツォ」1939年録音


 伝説的な録音時のエピソード(余ったレコーディング時間を使っての一発録り)が有名なこの演奏には、金属的な耳障りな音などひとつもありません。非常に動的でありながら、すべての音に潤いがあり、その魅惑のタッチはまさに驚異的です。この編曲の技術的難しさを考えた時、それは奇跡としか言いようがありません。「活気を伴った抒情性」というものが、彼の全ての演奏を貫き、特徴づけているように感じます。

音源③ ショパン「夜想曲 ホ短調 作品72の1」1922年録音

 モイセイヴィッチが作品をより効果的に響かせるために行った改変は、控えめながらも素晴らしいものばかりです。このノクターンでは特に後半部分にそれが現れます。装飾的なパッセージの重音化、その後のテーマにおけるテンポとダイナミクスの盛り上げ方は実に見事です。コーダでは繰り返されるエピソードの音域を変えています。比較的おとなしい原曲の単調さをカバーした、素晴らしいアイディアだといえるでしょう。このような創意に富んだ改変が非難されることのない時代がくることを、望んでやみません。

音源④ ショパン「スケルツォ ロ短調 作品20」1949年録音

 この曲は、やたらギラギラした音で弾かれる派手なパフォーマンスか、指を速く動かすことに精一杯で、表現まで手が回らない凡庸な演奏のどちらかで聴かされることが多いものですが、モイセイヴィッチはそのどちらにも属すことなく、どちらの条件をも満たしているどころか、それらを見せつける類の演奏をはるかに凌駕しています。つまり、このスケルツォ本来が持っている攻撃的な性格、おどろおどろしさを演出するにふさわしいブラヴーラがあり、申し分のない指さばきをみせつつも、そういった要素はあくまで表現のための手段に過ぎず、目的そのものとはならないのです。「やりすぎ」の下品さは皆無です。このようなデモーニッシュな性格の作品を弾いても、彼の演奏の端正なところは、少しも失われはしません。速いパッセージでも響きは常に豊かで乾いておらず、フレージングは起伏に富んでいます。走句にも「歌」を感じさせるのです。コーダの勢いを演出するために、オクターヴの変更、後のホロヴィッツ同様、結尾のユニゾンで上昇する半音階を、両手オクターヴの交差として演奏するなどの改変がみられます。

音源⑤ ショパン「バラード ヘ短調 作品52」1947年録音

 彼のルバートの妙味、和音のアルペジオ化などの19世紀的ロマンティシズムを味わうと同時に、多彩な色彩感覚、大作をまとめ上げる素晴らしい構成力が窺える演奏です。第1主題再現部における下行パッセージを、3度の重音にした改変は、息をのむほど美しい効果を出しています。

音源⑥ ショパン「前奏曲 変ロ短調 作品28の16」1948年録音

 相変わらず粒立ちの良い音と見事なメリハリです。テーマの再現直前にあるAsの大胆な強調が、素晴らしい音楽的効果を生み出します。この一瞬の停滞、さり気ないアクセントとフェルマータが、後に続く部分をより一層際立たせるのです。記譜上のクレッシェンドとフォルティッシモの指示から、ショパンがこの主部の再現に爆発的な効果を望んだことは明白です。モイセイヴィッチがここで行ったことは、時代掛ったマンネリズムでも主観的な改竄でもなんでもなく、作曲家のこの意図をより明確にするため、譜面にはあえて書かれなかったことを読み取り、演奏に投影した結果なのです。再創造行為とは得てしてこういうものです。気まぐれでやったことなどは絶対に存在しません。

音源⑦ ショパン「夜想曲 ホ長調 作品62の2」1958年録音

 モイセイヴィッチの抒情性の極致です。包み込むように温かな、よく歌う音色。ここでは例外的に、いつもの折り目正しさ以上に、自然発生的な味わいを強く感じさせます。フリードマンによる「作品55の2」の演奏とともに、録音されたショパンのノクターンの、もっとも美しい演奏のひとつでしょう。

音源⑧ ウェーバー=タウジヒ「舞踏への勧誘」1939年録音

 彼のヴィルトゥオジティも絶対に無視できません。ヴィルトゥオジティというのはオクターヴを大きな音で弾くことでもなければ、3度のパッセージを高速で弾くことでもありません。それらができることは前提であり、目的は、如何にピアノから多彩な響きと、感情のコントラストを生み出すことができるかにあり、それを可能とする技術のことをいうのです。ここでのモイセイヴィッチは、彼の持つその完全な技術を、惜しげもなく披露してくれます。神秘的なベールに包まれた序奏の幕が開け、主部に入った時の、なんというリズミカルで心躍る雰囲気。なんという歯切れの良さと躍動感でしょうか。管弦楽的な豊かな響きから、宙に浮かぶような軽やかな高音パッセージ。鐘のような響きを生み出すペダル効果。沸き立つアルペジオ。一点の曇りもない清潔な技巧。鈴が鳴るようなピアニッシモ。真の名人は皆、ブラヴーラにおける弱音がもたらす効果を熟知していました。大きな音でできるだけ速く弾くことが華麗な演奏だと勘違いしている現代の若者たちは、これをはじめ、多くの巨匠たちの録音から、演奏効果の本質を学ばなければなりません。

音源⑨ ゴドフスキ「こうもりの主題によるパラフレーズ」1928年録音

 モイセイヴィッチの弾く演奏会用編曲作品には、常に彼特有のエレガンスが感じられます。清潔な技巧と、響きに対する繊細な感覚がそのような印象を与えるのでしょう。そこには常に「趣味の良さ」が存在し、テクニック自慢の低俗な演奏とは、天と地ほどの開きがあるのです。それでいて、そのような連中には足元にも及ばない最高級の演奏技巧が彼にはあるのですから、ますます現代の演奏レヴェル、特に若い世代の質の低下を憂うこととなるのです。ここで要求されるあらゆる困難に、彼が余裕をもって臨んでいるのが聴き取れます。複雑に絡み合う音の連なりには、リラックスした雰囲気が常に存在します。
 モイセイヴィッチは演奏中、音楽の情緒が如何に変化しようと、不動のまま一切表情を変えなかったといいます。迸る感情は、顔ではなく音として表れるのです。これもまた現代の若者が見習わなければならない態度です。現代の若手の演奏の多くが、これとは逆のことをしているのですから。1954年に撮られたこの「タンホイザー序曲」を弾く彼の映像ほど、感動的なピアノ演奏映像はないでしょう。リスト本人が途中で休憩を挟まざるを得なかったといわれるこの大曲を、60代の彼は息切れすることもなく、ポーカーフェイスのまま見事に弾ききっています。無駄な動き、醜い表情の歪みなど一切ありません。それでいて聞こえてくる音楽のなんという豊かさ!古き良き時代の黄金の音色が、ここにはあります。さらに付け加えれば、演奏活動の後半に差し掛かっても、体力的な衰えを考慮し、レパートリーをモーツァルトやシューベルト中心に据えるようなこともせず(それを「枯淡の境地だ」といってありがたがる風潮が現代にはあるようですが)、テンポを落とすという安易な方法も採らず、若いころからの十八番であるヴィルトゥオーゾ・ピースに、時にミスタッチを散らしながらも果敢に挑み、昔と少しも変わらぬ華麗さで見事に弾き切るこの演奏家としての姿勢に、私は感動せずにはいられないのです。この映像からは、彼の演奏芸術の一端とともに、演奏家としての尊敬に値する姿勢、あるべき態度をも学ぶことができるでしょう。

音源⑩ ワーグナー=リスト「タンホイザー序曲」1954年撮影




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