見出し画像

ピアニスト・ラフマニノフを聴く Part1

 ―ある速記録より―

 没後80年を目前に、セルゲイ・ラフマニノフがチャイコフスキーと並ぶロシア・ロマン派の偉大な作曲家であるという評価は、ほぼ定まったような感があります。学生時代の習作から死後出版された遺作、未完の断片も含め、彼のほぼすべての作品をCDで聴くことが容易にできますし、楽譜も手に入りやすくなりました。殊にそのピアノ作品は、あらゆるピアニストたちにとって欠くことのできない、重要なレパートリーとなっています。今では第1、第4のピアノ協奏曲ですら、コンサートのプログラムに載ることが珍しくないのです(第1、第3交響曲もまた然りです)。生前、彼が望んでいた作曲家としての高い評価は、まさに実現されたといってもよいでしょう。しかし私は、それと反比例するかのように、彼の後半生を輝かしいものにしたピアニストとしての功績が、ないがしろにされていっているような気がしてなりません。たしかに状況は、以前より良くなりました。インターネットの普及、作曲家としての再評価の陰でひっそりと進行していた演奏録音の再復刻は、彼が偉大なピアニストでもあったこと、有名な協奏曲の自作自演録音を残しているという事実を、少なくとも一部のピアノ学生や愛好家たちへ認知させることに貢献しました。信じられない話ですが、ほんの数十年前までは、音楽大学のピアノ科学生ですら、彼の録音をひとつも聴いたことがない、その存在すら知らずに、彼のコンチェルトを勉強しているという状況がままあったのです。今では彼の残した全録音をCDで入手することができ、動画投稿サイトからでも気軽に聴くことができます。
 しかし、以前よりマシになったとはいえ、嘆かざるを得ないのは、このような恵まれた環境に育ちながら、未だに多くのピアノ学生が彼の演奏を知らずにいるという現実です。彼らは驚くほど作曲家や音楽についての書物に興味を持ちません。自身が取り組む作品について書かれた研究書や作曲家の伝記、書簡集などをひとつも読んだことのないままレッスンに臨む態度には、驚きを通り越してもはや呆れてしまいます。これは音楽への愛情がないに等しい行為です。このような怠惰な学生が多いのですから、彼らの間に演奏家ラフマニノフの存在が十分に認知されるに至らないのも、当然かもしれません。悲しいことです。なぜならそれは、伝記のひとつでも読んでいれば必ず辿り着くはずのことなのですから。
 従って今回の目的は、ピアニストとしてのラフマニノフをすでによく知る人のためではなく、一度も聴いたことのない若者のために、新たな音楽世界の領域に足を踏み入れるきっかけとなることにあります。作曲家としての復権は十分に成された、或いは今後も続いていくことでしょう。ですが、そちらばかりにスポットライトがあたり、彼のもうひとつの偉大な功績が埋もれてしまうことだけは、何としてでも避けなければなりません。誤解のないように言っておきますと、私はピアニストとしての彼が正当な評価を得ていないと言いたいのではなく、その知名度のあまりに低いことを問題視しているのです。事実、彼の演奏は、それをよく知る人たちから、すでにふさわしい高い評価を、生前も没後も勝ち得ています。いつの時代も人間は、あらゆる分野で傑出した人物に対するランク付けというものをやめられないようですが、この手の「偉大なピアニスト・ランキング」で、一般愛好家からも専門家からも常に第一位の評価を与えられているのは、ラフマニノフなのです。ヒストリカル・レコーディングを一つも聴いたことがない学生の崇拝の的である現代のスーパースターたちが、皆こぞって、大昔のラフマニノフの演奏を賛美していると聞けば、その学生も少しは彼の演奏に興味をもつのではないでしょうか。識者の間では、ピアニスト・ラフマニノフへの高い評価に異論の余地はないようです。
 何がラフマニノフを20世紀、或いは音楽史上最も偉大なピアニストのひとりにしているのでしょうか。演奏に見出す美点というものは個人によって異なりますし、こういった問題には主観的な好みが反映されますから、あくまで私個人が感じることを述べるに留まるでしょう。大事なことは、演奏に対する私のコメントではなく、こういった録音の存在を知ること、そしてそれを自分の耳で聴き、何を感じるか、なのです。好きになることを強要などしません。そこに美しさを見出すかどうかは、あなたの音楽的感受性次第です。
 ラフマニノフの演奏を聴いてまず強く感じることといえば、そのスケールの大きさ、どんなに速いパッセージを弾いても失われないひとつひとつの音の重量感、曖昧さの欠片もない、完璧な技巧に裏打ちされた細部の説得力、鋭いリズム感覚、低音の充実、完璧なペダル操作による響きの透明性、ロシア的な太い線で歌われる旋律の歌謡性などでしょうか。彼が弾くと、どんな些細な小品であっても、人を圧倒するようなスケールで迫ってくるという感覚が常にあります。可憐なアンコール・ピースにも、非常に真面目な作品を聴いているときのような、緊密な構成と音楽的充実を感じるのです。作品本来が持っている以上の意味を持たせているといえるでしょうか。それが作品解釈として成功しているかどうかはさておき、彼の録音には寛いだ雰囲気、洒落た趣味を感じさせるものはほとんどありません。演奏を形作る根底は、必ず厳粛な、確固たる意志に貫かれています。しかしそれは、学術的な、無味乾燥な演奏とはまったく異なります。彼のフレージングには堅苦しいところはありませんし、アゴーギク、デュナーミクのコントラストは鮮やかです。ただ録音で聴く彼の演奏のそういったところは、その場の雰囲気で即興的に行っているのではなく、綿密に設計された作品解釈から生まれたものなのです。彼は作曲家の視点から作品を分解し、新たに構築し直すため、ある意味、彼自身もその作品の作者としての立場から演奏していることになります。まさに演奏家が模範とすべき「再創造行為」がそこにはあります。それゆえ彼の演奏は、如何なる時もそうあるべきだと感じさせる強い説得力をもって、聴き手に訴えかけてくるのです。ゲンリヒ・ネイガウスが言ったように、如何に作品の感じ方が聴き手のそれとは違えど、「彼にはそれが許されている」と我々は感じるのです。
 ここで1923年録音のラフマニノフによる有名なショパンの変ニ長調ワルツを聴いてみましょう。世界中で弾き古されてきたこの愛らしいワルツを、彼は一体どのように演奏したのでしょうか。

音源① ショパン「ワルツ 変ニ長調 作品64―1」1923年録音

 いかかでしたか。主部では緩急の交代が激しいですね。旋律の頂点である変ロ音に達したところでぐっとテンポを落とし、次の走句でまた加速します。まるで「盗んだ時間は別のところで取り戻さなければならない」というルバートの定義を実践しているかのようです。中間部では思い切りテンポを緩め、ムードたっぷりの雰囲気を作りだします。前の部分との対照がはっきりしています。さらにこの中間部の後半では、楽譜には書かれていない装飾音が現れることで、主旋律に対する新たな旋律線を生み出します。この新たな声部の登場により、音楽の内容、情報がより多くなります。遅いテンポといい、この中間部をより濃いものにするという演奏者の意図が聴きとれはしないでしょうか。全体的にフレーズの終わりをリタルダンドしているのも特徴です。とにかく、この短い、俗に「子犬のワルツ」「一分間ワルツ」などの愛称で親しまれる作品に、豊かな創意工夫が盛り込まれていることがわかるでしょう。大胆なテンポ設定ゆえ、この録音の演奏時間は同作品では珍しく2分を超えています。しかし聴き終えたとき、通常よりも長い時間が経過したなどとは思いもしないはずです。なぜなら、彼が演奏に盛り込んだ豊かなアイデアが、聴き手を楽しませ、飽きさせないからです。一方でこの豊かな内容は、作品そのものに重量感を与えることになり、一般的に聴かれる演奏での軽妙さ、小綺麗なところは影を潜めます。それが結果的に作品そのものを高めているか、歪めているのか、その判断は聴き手次第です。重要なのはラフマニノフのこの解釈の是非ではなく、このような短く、子供でも弾けるような曲に対してでさえ、彼が秘術を尽くして演奏しているという事実なのです。ただ指を速く動かすことに終始している類の演奏とは一線を画し、すべての楽節に意味を見出し、鮮やかなコントラストでそれを強調します。そのためには、時に楽譜にはない指示や音符を付け足すことも躊躇しません。しかしそれは、勝手気ままに行ったことではなく、作品と真正面から向き合い、もっとも効果的に響かせる方法を、彼が譜面から読み取った結果なのです。なぜなら聴き手の我々は、彼がそのように演奏したことの“意図”を見出すことができるからです。これこそまさに、「楽譜の奥の音楽を読み取る」という「再創造」以外の何物でもありません。
 ショパンの嬰ハ短調ワルツも聴いてみましょう。

音源② ショパン「ワルツ 嬰ハ短調 作品64―2」1927年録音 

 主部はまさに歌に満ちています。歌手の息遣いそのものです。ピウ・モッソでの信じられないような精妙さの中で、右手の親指が内声に隠れた新たな旋律線を浮かび上がらせます。これは、先ほどの譜面に書かれていない音の追加とは異なり、書かれている音の中から隠れた旋律線を見出すという、ヨーゼフ・ホフマンらに代表される、同時代のピアニストたちが好んだ手法のひとつです。しかし結果的には先ほど同様、新たな旋律が聴こえてくることで、内容の増幅、音楽的充実へと結び付いています。
 過去のピアニストたちは今よりももっと、声部の絡み合い、作品のポリフォニックな面に光をあてることを好み、演奏にもそれが表れていました。ショパンの嬰ハ短調マズルカを聴いてみましょう。

音源③ ショパン「マズルカ 嬰ハ短調 作品63―3」1923年録音 

 後半、主題の再現部でカノン進行が出てきますが、なんと魅惑的なデュエットとなっていることでしょうか。素晴らしい肌触り、各声部が浮かび上がっては消え、また浮かんでは消え、溶け合うような効果が聴き取れるでしょう。また緩急の匙加減も見事で、少しも弛んだところのない緊張感が、全編に張り巡らされています。
 次にラフマニノフの記念すべき最初の録音を聴いてみましょう。1919年録音の、ショパンの作品42の変イ長調ワルツです。

音源④ ショパン「ワルツ 変イ長調 作品42」1919年録音

 驚異的なスピードとコントロールです。ペダルは最小限に抑えられていますが、それゆえ、終結部などでそれが用いられたときの効果は絶大です。曲の後半にみられる、勢いや華やかさを強調するための音の追加は、改竄などとは決して呼べるものではないでしょう。彼は繰り返し現れる挿入句の前に置かれた変イ音のトリルを長めに弾いていますが、これによって次にくる走句の弾丸のようなスピードと勢いが際立ちます。この初期のアコースティック録音でさえ、彼の響きの豪華であることを窺い知ることが十分にできるのです。各々のエピソードが現れるたびに、色合いが変わります。「華麗なグランド・ワルツ」というタイトルを見事に体現しているといえるでしょう。
 次はリストのエチュード「こびとの踊り」です。

音源⑤ リスト「こびとの踊り」1925年録音

 ラフマニノフの演奏では、どんなに速い走句を弾いても、ピアニッシモのスタッカートでも、レッジェーロでも、身の詰まった芯のある音が失われることはありません。中身がスカスカな、鍵盤の表面だけをかすったような気の抜けた音が、一つもないのです。ここでも、楽器の底から押し寄せる波のような音の感覚が味わえます。しかも完璧なタッチによるある種の軽快さはまったく失われておらず、そこに重苦しさは微塵もありません。すべての音は地に根をおろしていますが、鈍重ではないのです。猛烈なテンポの中で音が軽くならない、その見事なバランスが驚異的なのです。またクライマックスの華やかな響きの戯れのなかに、耳障りな瞬間など一切ありません。完璧なペダルコントロールの結果です。彼の足と耳もまた、その手と同様洗練されているのです。
 最後のレコーディングのひとつであるシューマン=タウジヒの「密輸入者」でも同じようなことがいえます。スピードと重量感の奇跡的な融合です。彼の演奏技術は最晩年まで衰えることはありませんでした。

音源⑥ シューマン=タウジヒ「密輸入者」1942年録音 

 この演奏の対として収録されたショパン=リストの「ポーランドの歌」から「帰郷」を聴いてみましょう。

音源⑦ ショパン=リスト「帰郷」1942年録音

 押し寄せる音の波の迫力。70歳を手前とした人の力の衰えなど、微塵も感じさせません。そして響きの波が濁ることもありません。ペダルは控えめです。音響的な拡がりを作り上げるときでも、ペダルの乱用は避けられています。
 次はシューベルトの「即興曲 変イ長調」です。

音源⑧ シューベルト「即興曲 変イ長調 Op.90-4」1925年録音

 はじけるような右手の音型のなんと艶やかなことでしょう。これ以上ない光沢があります。左手に旋律が浮かび上がるところでは、その右手の音型はいとも自然に陰へと隠れ、ひっそりと旋律に彩を添えます。声部の弾き分け(強弱だけではなく音色も)は申し分ありません。情熱の限りを尽くした中間部では、分厚い和音の連打に埋もれることなく、はっきりと旋律が、歌手の表情豊かな歌として浮かび上がってきます。ここでもまた、響きは完璧にペダルで調節されています。ここでの音響、劇的効果は、まるで管弦楽をバックにしたソプラノ歌手による、オペラの一節を聴いているかのようです。
 彼の演奏の歌謡性に言及したところで、シューベルト=リストの「セレナーデ」を聴いてみましょう。彼の最後のレコーディング・セッションのひとつです。

音源⑨ シューベルト=リスト「セレナーデ」1942年録音

 伴奏部のニュアンスは、あらゆる面で完全に主旋律に従っています。いかなる時も歌の旋律が伴奏の陰に隠れて聞こえなくなるということはないのです。旋律を弾く独立したもう一本の手があるかのようです。そんなことはプロの演奏家なら当たり前だと言われるかもしれませんが、これほど完璧な均衡を保って演奏できるピアニストが、果たして現在何人いるでしょうか。彼はピアノを人の声のように歌わせることができた、数少ない真の名人のひとりなのです。これこそピアニストたちにとっての究極の目標ではありませんか。歌い手の呼吸が感じられませんか。あなたが実際に声に出してこの有名な旋律を口ずさんだとき、そのフレージングは、緩急は、強弱は、ラフマニノフがピアノで奏でるものとぴったり一致するかもしれません。
 もうひとつの奇跡、ピアノから弦楽器であるチェロの音色を引き出した例も聴いてみましょう。サン・サーンス=ジロティ編の「白鳥」です。

音源⑩ サン・サーンス=ジロティ「白鳥」1924年録音 

 アルトゥール・ルービンシュタインは自伝の中で、ラフマニノフがもつ「黄金の音色」に魅了されたと書いています。この演奏で、実際には不可能である「ピアノによる弦楽器のビブラート」を聴き手に思い起こさせるのは、彼の甘美な音色にほかなりません。さらに伴奏部との微妙な強弱の対比やテンポ・ルバートによって、弦楽器の連綿たるカンタービレを聴いているような錯覚を起こさせることに成功しています。音質が改善される前のアコースティック録音においても、彼の繊細なニュアンスの変化がはっきりと聴き取れるのは、驚くべきことです。
 彼のもっとも有名なピアノ作品、「前奏曲 嬰ハ短調」を聴いてみましょう。

音源⑪ ラフマニノフ「前奏曲 嬰ハ短調 作品3―2」1928年録音 

 太い線のオクターヴ主題に呼応する形で現れる和音群の連なりには、真似のできない霊妙な雰囲気が漂っています。中間部の何という躍動感でしょう。再現部の響きの壮麗さは巨大な建築物を仰ぎ見るかのようです。この演奏のスケールの大きさは、聴き手に、まったくこれが3分半の小品であることを忘れさせてしまいます。
 次に、意外な録音曲の中からダカンの「かっこう」を聴いてみましょう。

音源⑫ ダカン「かっこう」1920年録音

 ピアノ学習者の教材としてお馴染みのこの作品でも、彼は自身の持つ最良の演奏技術を尽くしています。繰り返される短3度の音型での微妙な「溜め」「揺らぎ」は、なんと魅力的なのでしょう。パッセージのなんと流麗なことでしょう。左右間で行われる前に出るべき旋律線の交代は、それと気づかぬほど自然に成されます。音色の陰影といいますか、そのコントロールは絶妙です。

 チャイコフスキーの「トロイカ」を聴きましょう。彼が少年の頃から愛奏していた曲です。

音源⑬ チャイコフスキー「トロイカ 作品37―11」1928年録音 

 情感たっぷりのレガート・カンタービレで歌われるテーマは、まさにロシア・ピアニズムの神髄です。伴奏に現れるアルペジオの湧き上がるような効果。和音の連結は聖歌隊のコーラスのように響き渡ります。濃厚な雰囲気の前半部から活気づく中間部、再現の疾走感へと続くストーリー運びは、見事としか言いようがありません。綿密に練られた音楽づくりが窺えます。
 彼の自在なテンポ感覚は、聴くものを催眠にかけるような効果をもたらします。次にお聞かせするのは初期の録音から、モーツァルトのイ長調ソナタ第一楽章です。当時のレコード収録時間の都合上、第2・3・4の3つの変奏が省略されています。

音源⑭ モーツァルト「ソナタ イ長調 K.331より第一楽章」1919年録音 

 主題にはきびきびとしたリズムの感覚、“張り”があります。全体のテンポが異常に速いことに驚かれたと思います。彼にとってアンダンテもアダージョも、眠くなるようなテンポを意味してはいなかったのでしょう。或いは才気活発な18世紀の人間によって書かれた快活な音楽であることを、人々に思い出させようとしたのでしょうか。現代でよく聴くような、お行儀の良い、無邪気で可愛らしいだけのモーツァルト演奏とは全く違います。とにかくこの録音が、この曲のあらゆる演奏の中で、ひと際個性的なものであることは、おわかりいただけるはずです。とりわけ私にとって印象的なのは、第5変奏での、伸びたり縮んだりする自在なテンポ感覚です。まさに糸を引いたり緩めたり、夢の中にいるような錯覚を起こさせます。これを聴いている間、主導権は確実に演奏者の手中に在るのです。すべての偉大なピアニストに言えることですが、彼らの演奏はメトロノーム的テンポとは無縁のものです。あらゆる音楽はその意味することに従って揺れ動き、人間的な衝動に満ちています。本来、機械的正確さとは相容れないものなのです。
 次にスクリャービンの「前奏曲 嬰ヘ短調」を聴きましょう。

音源⑮ スクリャービン「前奏曲 嬰ヘ短調 作品11―8」1929年録音 

 作曲者自身はアレグロのテンポで情熱的に弾いたといいますが、ラフマニノフは非常に遅いテンポを採用し、哀愁漂うノクターン風の音楽にしています。また右手のテーマに現れる高音への跳躍のタイミングを、左手の伴奏と若干ずらし、上声のイ音―嬰ハ音とニ音―嬰へ音の上行音型に対する内声の短3度下行、イ音―嬰へ音とニ音-ロ音を聴かせます。ここでも音楽的充足が図られているようです。これはラフマニノフによる唯一のスクリャービン録音です。なぜわざわざこの小品1曲を選んで録音を残したのでしょうか。これが作品の新たな面に光を当てる独創的な解釈だと自負していたからに違いありません。後世に残すべき考えだと感じたのではないでしょうか。
 有名なクライスラー「愛の悲しみ」の、彼自身による編曲を聴いてみましょう。

音源⑯ クライスラー=ラフマニノフ「愛の悲しみ」1921年録音

 テンポは当然揺れ動きますが、拍節の頭のアクセントや、常にはっきりと刻まれる伴奏音型によってリズムは厳格に統制されています。3拍子が2拍子に聞こえるといった混乱は起こり得ないのです。もうひとつ驚くべきことは、これがピアノの名人によって書かれた、同時に多量の声部が動く技巧的に難しい編曲であるにもかかわらず、演奏を聴いている間は、そのことをまったく忘れさせるという事実です。技術的困難、楽器との格闘といったものが、この録音では影も形も消え失せています。
 ラフマニノフの自作のエチュード、イ短調作品39―6の演奏でも、技術的困難が完全に消化されているのを聴くことができます。

音源⑰ ラフマニノフ「絵画的練習曲 イ短調 作品39―6」1925年録音 

 半音階オクターヴのおどろおどろしさと、それに続くリズミカルな高音域とのコントラストが鮮やかです。この演奏での活気と張りには、目を見張るものがあります。
 もうひとつ、彼の編曲作品に触れておきましょう。チャイコフスキーの「子守歌」です。

音源⑱ チャイコフスキー=ラフマニノフ「子守歌」1942年録音

 絡み合う音の綾から、例によって歌の旋律がはっきりと浮かび上がります。音量だけでなく、伴奏声部とははっきりと異なる音色をもって、それは現れるのです。なんと芯のある美しい音でしょうか。多量の音の中から複数の声部を、明確に色合いを変えて弾き分けることができるのは、高度なタッチの技術と各指の完全な独立、完璧なペダル操作があってこそのことです。またここでも、編曲の技術的な難しさは、完全に演奏の中に消化されています。これだけ多量の音符を扱いながら、響きの透明性を失わないのには驚きを禁じ得ません。演奏者は作品を、その細部にいたるまで完全に掌握しています。それゆえ、有無を言わせぬ説得力を持つことになるのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?