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アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリを聴く

 ミケランジェリはある時、尊敬するピアニストは誰かと問われ、ラフマニノフとホフマンの名を挙げたといいます。ホフマンのスタジオ録音にみられる楽譜への驚異的な正確さ、ラフマニノフの作品解釈における揺るぎない構成力は、たしかに彼の演奏にも通づるものがあるでしょう。20世紀前半のピアニスト黄金時代にあって、楽譜への従順を示したこの偉大な2人の巨人の音楽観に、ミケランジェリが深く共鳴を覚えたということは想像に難くありません。ただ、ミケランジェリの完璧主義は、主観性を徹底的に排した現代の楽譜至上主義とは異なります。若いころの彼の演奏には、後の演奏からは想像もつかぬほどの情感の奔流、色彩性、即興性が聴き取れます。後年これらの特徴は抑制され、デュナーミク、アゴーギク、音色ともに、常に変わらぬ堅固な設計のもと演奏するようになったのは事実ですが、柔軟で歌謡的なフレージング、和音を崩す癖などのロマン的時代を彷彿させるものはそのまま残りました。彼の完璧主義は楽譜への恭順の意ではなく、自身の演奏解釈をいつでもどこでも、楽器を通じて完全に再現できることを意味するのです。

音源① バッハ=ブゾーニ「シャコンヌ ニ短調」1955年録音

音源② ブラームス 「パガニーニの主題による変奏曲 作品35」1955年録音

 1955年ワルシャワ・ライブは、若きミケランジェリのヴィルトゥオジティが最大限に発揮された世紀の名演です。彼特有の研ぎ澄まされた美音に、ライブならではの熱気が加わり、これ以上ないスリリングかつ圧倒的な創造体験を共有することができます。大伽藍を想わせる「シャコンヌ」。壮大な響きではオルガンを凌ぎ、オルガンには生み出せない色彩を施すことで鮮やかな情感のコントラストを与えます。厳しさの中にたしかな豊かさを内包する名演です。鳥肌が立つような、神経に直に触れる瞬間が何度もあります。大地を揺るがす最低音の凄みは、ほかでは聴けないものでしょう。
 「パガニーニ変奏曲」はミケランジェリの独壇場です。これを聴いた後ではどんな演奏も物足りなく感じてしまうことでしょう。技巧的な問題は細部に至るまで完全に解決されています。すべての音符に磨きがかかり、鮮明に浮かび上がるのです。そのキレたるや、あらゆるピアニストたちの顔から血の気が引くことでしょう。当然、技巧だけでなく各変奏の性格も鮮やかなコントラストで際立たせます。激情の只中に現れる抒情的変奏でのビロードのような魅惑のタッチ、歌心には陶酔させる効果があります。特にヘ長調の変奏でのカンタービレの表現には、一度聴いたら忘れ難い美しさがあります。この時期の彼の演奏には、音符に対する厳格さと、豊かな感情表現との見事な調和が聴かれました。

音源③ シューマン「謝肉祭」1957年録音

 こちらはほぼ同じ時期のロンドン・リサイタルからの演奏です。この多種多様な性格を持つ小品群に、彼が自身の持つ豊かな色彩のパレットを存分に駆使して応えているのが聴き取れます。華やかなお祭り騒ぎに深い陰影が施されます。「オイゼビウス」、またはその性格を持つ楽曲でのメランコリックな響きと、管弦楽的な壮麗さとのコントラストは実に鮮やかです。終曲前の「休憩」の機関銃のような勢い。それに続く行進曲は、前述の「シャコンヌ」の演奏にも似た、巨大建築物を仰ぎ見るかのような圧倒的な響きで迫ってきます。めくるめく音響世界の変動は、聴き手を飽きさせることがありません。この頃のミケランジェリは、一部の人々から後年呼ばれることとなる「氷の巨匠」のイメージとは対照的な、まさにコルトーに負けず劣らずの「色彩の魔術師」でもあったのです。彼の確実なタッチから生まれる(彼は巨大な手の持ち主でした)楽器が完全に鳴り切っているという聴覚的快感は格別です。

音源④ スカルラッティ「ソナタ ロ短調」

 隙のない演奏とその演奏姿からは、否が応でも気品と趣味の良さを感じずにはいられません。ここでの走句の見事な粒立ちとメリハリ、完璧なペダル作法による響きのコントロールには寸分の狂いもありません。しかし先ほどまでのライブ録音と比べると、多彩な感情表現以上に、微動だにしない「構成」の存在を強く感じさせるものでもあります。

音源⑤ シューマン「少年のためのアルバム 作品68」より「冬の時Ⅰ」

音源⑥ ショパン「マズルカ ト短調 作品67の2」

 後年のスタジオ録音に聴かれる研ぎ澄まされた音のなんという美しさでしょうか。クリスタルの輝きの如く鮮烈で、凛とした透明感に満ちています。彼が和音をアルペジオ気味にして弾く時、その響きには氷を砕いた時のような、冷たく清々しい快感が伴います。彼のこのような音の特色ほど、シューマン楽曲での冬の情景を聴き手へまざまざと思い浮かばせるのに適したものは、ないように思われるのです。
 彼の演奏する「マズルカ」では民族的性格は影を潜め、都会的洗練がより耳につきます。リズムを強調した舞曲としてではなく、何よりも旋律のカンタービレに重きを置いた歌謡曲としての姿で表れるのです。この態度はフリードマン、マルクジンスキらのポーランド人の演奏よりも、ラフマニノフ、ホロヴィッツらロシア勢、あるいはこれらの曲を「シャンソン」と捉えたフランス人のフランソワらにより近いものといえるでしょう。最高度に垢ぬけたマズルカ演奏とでもいえるでしょうか。

音源⑦「ショパン作品集」1962年

 洗練されたスタイルはマズルカに限らず、ショパン作品全般の演奏にもいえることかもしれません。やはり歌謡性が強く、独特のアゴーギクなども散見されますが、それらにはもはやその場の関興に拠るところがありません。細部に至るまですべてが事前に決められており、些細なことでもその時々の雰囲気によって変更されることは許されないのです。即ち、ひとつでも設計通りにいかないところがあると、すぐさま演奏全体の構造に支障をきたすことになります。自身の楽想を表現するためには、文字通りミスは一つとしてあってはならないのです(この態度はラフマニノフにも似ています。彼もまた作品を隅々まで磨き上げるために分解し再構築しました。すべての曲にクライマックスを設定し、それに合わせてほかの部分のダイナミクスやテンポを決定しました。演奏会後に、その「ヤマ」といわれる箇所をはずして演奏全体を台無しにしてしまった、と嘆くこともあったようです)。完全無比であることを自身に課すミケランジェリの演奏からは、時として異様な雰囲気さえも感じることがあります。そしてその異常なまでの厳格さと緊張感は、演奏にいささか暗い色調を与えることもあります。よく歌い、どこまでも透明感のある音を響かせているにも拘わらず、です。
 しかし彼は舞台上でもレコーディングでも、ほとんどの場合自身の設定した課題に完璧に応えていたのではないでしょうか。そしてその想像を絶する重責のために、彼が如何に神経をすり減らしていたかを考えると、演奏会キャンセルの常連となったことも、一様に責められるべきではないと思うのです。

音源⑧ ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第4番 ト短調 作品40」1957年録音

 見事な録音の数々とともに、この曲のレコーディング時におけるエピソードは、彼が多くの場合自身の設けた高い理想を完璧に実現していたことを証明するものでもあります。この演奏は、リハーサルなしの各部1テイクで一気に録られたもので、終了後彼は「これ以上上手くは弾けない」と言い残し、ひとりスタジオを去ったのです。ラフマニノフ本人のものをも凌駕するこの世紀の名演は、このようにして生まれたのです。信じ難い話ですが、ミケランジェリなら有り得ると人々に思わせてしまうのが、彼のすごいところでもあります。ここでの彼の精緻なピアニズム、非の打ちどころのないアーティキュレーション、カリヨンを想わせる「銀色のヴェールを纏った鐘の響き」には、無限の魅力があります。

音源⑨ リスト「死の舞踏」1962年録音

 彼の超人的なまでに磨かれ切った音と緻密な演奏設計は、この作品のおどろおどろしさ、神秘的な性格を浮き彫りにし、自然現象を前にした時にも似て、聴き手を魅了するというよりも圧倒します。背筋の凍るような切れ味抜群の技巧。グリッサンドは妖しく光り、和音のアルペジオは暗闇に差し込む一条の光となり、同音連打では死神の笑い声が聞こえてきます。クライマックスでは地獄の阿鼻叫喚を垣間見るような感覚に襲われます。完全に打ちのめされた聴き手には、その後疲れがどっと襲ってくることでしょう。

音源⑩ ドビュッシー「映像第1集・2集」
          「前奏曲集第1巻」


 私にとってミケランジェリは最高のドビュッシー演奏家でもあります。彼の演奏によって私はドビュッシー音楽の響きの美に開眼しました。曖昧模糊とした(私にはそう思われた)音楽言語が、彼が弾くことによって色鮮やかに面前に繰り広げられるのを感じたのです。その一つ一つの魅力あふれる和音のどこまでもクリアな響きと、歌謡性を軸とする演奏スタイルに裏打ちされた、それらの起伏に富んだ美しい連結。この世のものとは思われないほどの霊妙な音の世界です。雲のような捉え難さはそこにはありません。しかし現実的、或いは物質的な次元に陥ることもまたありません。信じられないほどきめ細やかな彫像、聴覚への不快感を徹底的に排したその演奏は、神秘的ですらあるのです。また、彼の美しいピアノの響きを味わうのにこれほど適した作曲家もいないでしょう。ラヴェル作品の演奏にも似たような美しさがあるのは事実ですが、ドビュッシー作品とミケランジェリの演奏には、ともに「人智を超えたものの存在」を感じさせるという点において、これ以上ない親和性があるのです。

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