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ピアニスト・ラフマニノフを聴く Part2

 ここまでは、彼の演奏録音から小品を選んで思うところを述べてきましたが、そろそろ大曲の演奏も取り上げていきたいと思います。ピアニストとしての恵まれた身体的特徴と、その演奏の様々な特色を鑑みても、ラフマニノフが大規模作品の演奏により秀でていたということは、大方予想のつくところではないでしょうか。レコードの収録時間の制限上、当時のピアニストたちが、主に片面4分半に収まる小品の録音をレコード会社から求められたというのは、事実のようです。生涯を通じてレコード録音に懐疑的だったヨーゼフ・ホフマンとは違い、1930年代のあるインタビューで「芸術的理想の達成は、おそらくレコード録音でのみ可能だろう」と語ったラフマニノフは、渡米間もないころから録音活動に積極的で、リストのソナタをはじめとする様々な大曲の録音を、彼のレコード会社であったRCAに提案していたといいます。しかし会社は、彼が受け取る報酬が高いことなどを理由に、それらを悉く却下しました。後世の我々にとっては取り返しのつかない大きな損失です。しかしそのような状況の中でも、自作の全協奏作品をはじめ、クライスラーとのデュオ、いくつかの大規模なソロ作品が遺されたわけですから、我々は彼と当時のレコード会社に感謝しなければなりません。
 ピアニストとしてのラフマニノフの良さに、いまいちピンとこないという人は、少なからずいるようです。個人的な経験によれば、そのような人たちは、彼のもっとも有名な作品の自作自演録音、つまり第2、第3協奏曲の演奏しか聴いたことがなく、その比較的クールな解釈に戸惑いを覚えるというケースが多いような気がします。ほかの作曲家の作品を弾く時とは違い、自作を弾く時の彼は、なにか一歩距離を置いたような、客観的、或いは正統派と呼ばれるような演奏をすることが多いのです。後の多くのピアニストたちが情感たっぷりにリタルダンドするところを、彼自身はイン・テンポのまま突き進みます。このことは容易に他人と打ち解けない彼の性格と関係しているのでしょうか。つまり、自身の心の内をさらけ出すことに抵抗を感じているが故のことなのでしょうか。或いは他人が自分の作品を醜く歪めて演奏することへの予防線なのでしょうか。逆に彼自身が、作者ゆえの近視眼的な解釈となることを恐れたためでしょうか。彼は手紙の中で、自作を弾くのは好きではない、と告白していることも覚えておくべきかもしれません。とにかく、そういう人には、是非、自作以外のものを弾いた彼の録音を聴いてみることをお勧めしますが、だからといって、自作自演にはそれほどの価値がないなどとは、到底言えるものではありません。音楽史に名を刻む偉大な創造者によって語られる自作品には、そのことだけでも計り知れぬ価値があります。そしてその創造者自身が優れた演奏家でもある場合はなおさらです。事実、有名な第2協奏曲の演奏は、感情に溺れず、隅々まで統制の行き届いた名演であり、管弦楽とソロの完璧なアンサンブルを聴くことができます。彼の弾くソロ・パートは透徹した美しさに貫かれています。他人の作品では、演奏者ラフマニノフがすべてを支配しているといった感覚になりますが、自作の演奏では、演奏者はあくまで作品の忠実な僕となるのです。虚飾を捨てた、作品そのものの姿が丸裸になるのです。作品の源泉にもっとも近い演奏といったところでしょうか。作曲家の自作自演としての理想的な姿かもしれません。なぜならそれは、絶対的な権威をもちつつ、聴き手を混乱させるところがないからです(しかしこのことは楽譜に対する違反が全くないという意味ではありません。彼の自作自演には、他人の作品を弾く時同様、多くの変更が見受けられます)。
 自作の協奏曲の録音で最良のものは第1番でしょう。

音源⑲ ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第1番 嬰ヘ短調 作品1」より第1楽章 1939年録音

 この演奏は、彼が偉大なアントン・ルビンシテインの後継者であるということを聴き手に思い起させます。第一楽章のカデンツァを聴くと、そのあまりの力強さと響きの壮麗さに圧倒されます。人間の力ではどうにもならない自然現象を目の当たりにした時の、畏怖の念に近いかもしれません。すべてのフレーズに、これ以外に方法はないという絶対的確信があります。この録音はピアニストとしての彼の巨大なスケールを余すところなく伝える好演といえるでしょう。彼はこの協奏曲の改訂版に自信を持っていました。死の間際に、ウラディーミル・ホロヴィッツへこの曲を弾くよう頼んだのも、これを第2・第3協奏曲のように世間へ広めてほしいという願いがあったからだと思われます。
 ソロ以外の録音に触れたので、クライスラーとの至高のデュオも聴きましょう。三曲ある録音のなかでもっとも感動的なのは、やはりグリーグのハ短調ソナタです。

音源⑳ グリーグ「ヴァイオリン・ソナタ第3番 ハ短調 作品45」より第1楽章 1928年録音

 劇的且つロマンティックなこの曲は、まさにラフマニノフの音楽性にぴったりのように感じられます。また、ここでのクライスラーのヴァイオリンは、柔軟にソロに寄り添いつつ全体の流れを支配するラフマニノフの伴奏に感化されたかのように、持ち前の天衣無縫の即興性に加えて、いつになく感情的な深みを感じさせるものとなっています。今まさに楽器のもとで音楽が次々と生まれていくかのようなソロの自発性と、ピリッと音楽の流れを引き締める伴奏の統制力とが見事に融合した、極上のアンサンブルがここにはあります。第二楽章冒頭のピアノ・ソロの美しさには、筆舌に尽くしがたいものがあります。
 ソロの大型作品を聴きましょう。ショパンの第3スケルツォです。

音源㉑ ショパン「スケルツォ第3番 嬰ハ短調 作品39」1924年録音 

 ものすごい速さと勢いで弾かれる素晴らしいオクターヴの技術です。リズムは非常に鋭く(故意に歪められた符点のリズムが、それをさらに強調します)、攻撃的な性格が前面にでています。穏やかなコラールでの、高音から駆け下りてくるパッセージのなんと美しい響きでしょう。星が降るようです。コラール主題の温かく充実した響きとのコントラストが鮮やかです。ペダルによるアルペジオの響きの増大も素晴らしいです。そして、コーダでの圧巻のヴィルトゥオジティ。コーダに入る直前、彼は譜面に書かれているよりも1オクターヴ高いとこから駆け下りてきます。両手オクターヴ技術の華やかさを、これでもかと強調しています。たしかにこの作品の大きな特色はオクターヴの多用にありますから、この改変は、最後にそれを強く印象付けるものとなっています。
 鍵盤上のあらゆる困難を克服した彼の演奏技術は、ロマン派や自作の難曲を弾きこなすだけでなく、ピアニスティックに書かれていないが故の弾きにくさをも、もろともしません。

音源㉒ ベートーヴェン「創作主題による32の変奏曲 ハ短調」1925年録音 

 この「32の変奏曲」は、彼が残した唯一のベートーヴェンのオリジナル・ソロ作品です。偏った両手の配分、極端に離れた左右の音域、密集和音の連続や素早い鍵盤上での跳躍は、それが何でもないことであるかのように、いとも自然に処理されます。前にも述べたように、演奏の中で、作品の技術的な難しさは完全に消えてしまっているのです。歯切れがよく、常にリズミカルなのは、支点となる音にアクセントがつけられているからです。また勢いをつけて速く弾くところと、たっぷり間合いをとるところとが緻密に計算されていて、流れにメリハリがあります。次の変奏に移り変わるたび、新しい世界が開けます。一本調子とは無縁の演奏です。
 いよいよラフマニノフの全録音中もっとも偉大な、輝かしい功績に触れるときがきました。それには二つの録音を挙げることができるでしょう。一つ目はショパンのソナタ第2番、通称「葬送ソナタ」です。

音源㉓ ショパン「ソナタ第2番 変ロ短調 作品35」1930年録音

 私はこれを初めて聴いたとき、自分は今まさに偉大な再創造芸術を目の当たりにしたのだという思いに満たされ、聴き終えた後、しばらく呆然とせざるを得なかったことを思い出します。この演奏の有無を言わせぬ説得力に圧倒されたのです。それ以来、この曲は私のもっとも愛する音楽作品となり、文字通り、ピアニスト・ラフマニノフの虜となりました。多くの箇所で楽譜とは違うことが起こるのは、ひとつひとつ指摘するまでもなくおわかりいただけるでしょう。ある場所では強弱が、テンポが、フレージングが、リズムが変わり、楽譜にない音が聞こえてきます。これまでに聴いたどの録音とも違う演奏だという印象をお持ちになるはずです。
 第一楽章の第一主題の提示では、左手の伴奏音型におかれたシンコペーションのアクセントによって、実にリズミカルな効果を作り出しています。フォルテでの主題の繰り返しでは、若干のテヌートとアクセントによって、今度はテーマの歌謡性を強調します。同じ効果を再び繰り返すような単純なことはしないのです。第2主題へ入る直前の小節では、彼は書かれた音価よりも2倍の長さをとることで、ソステヌートと指示された新しい主題へ、いとも自然に移行すると同時に、聴き手の耳をそれへと準備させます。第2主題での、例の伸びたり縮んだりする自在な緩急の変化は、聴き手を陶酔させる効果があります。提示部の終わりへ向けて3連音符が延々と続きますが、当然彼はメトロノーム的なテンポで淡々と進むようなことはしません。初めの方こそテンポは正確ですが、やがてそれは最後の全音符和音へ向かって膨張してゆくのです。ストレットの部分ではバスの動きに従ってリズムが揺れ動きます。展開部冒頭の低音域でのソット・ヴォーチェは無視され、鋭いリズムでおどろおどろしさを演出します。バスの凄みが印象的な展開部の爆発と、それに続く、肌触りの良い再現部への移行とのコントラストは、実に鮮やかです。
 猛烈なテンポで捉えられるスケルツォ楽章には、尋常ではない緊張感が漂っています。ここにはラフマニノフの録音では珍しく、目立つミス・タッチがそのまま残されていることにお気づきになったことでしょう。彼の録音は契約上、演奏者本人の承認を得なければ発売が認められませんでした。つまりラフマニノフは、ここに聞かれるミス・タッチよりも、音楽的内容そのものを聴き、良しとしたわけです。ミス・タッチのために録り直す必要はない、自らの音楽表現の理想は達成されていると判断したのです。間違った音を編集によってすべて正しいものへと変える現代の録音産業のあり方とは全く違いますね。ミスを減らすことが何よりも優先される機械的思考の現代の音楽観においては、間違い探しばかりに気をとられ、肝心の音楽そのものを聴いていないのでは、と思うことが多々あります。トリオには充実した音と独特のアゴーギクによってある種の重々しさが加えられ、さらっとした解釈とは対極をなしています。
 有名な葬送行進曲ほど大胆な彼の演奏もないでしょう。楽譜に書かれたデュナーミクは完全に書き換えられ、葬列が次第に近づき、トリオの静寂を経てまた去っていくという、はっきりとした視覚的イメージに沿って曲は進行します。このやり方は、ラフマニノフが生涯崇拝し続けた、偉大なロシアのヴィルトゥオーゾ、アントン・ルビンシテインが始めた伝統とされています。ラフマニノフのこの演奏のテンポはかなり速いですが、ルビンシテインもまた、この行進曲を非常に速く弾いたといわれています。この録音は、彼が少年時代に聴いたロシアの偉大な先人の解釈に、多大な影響を受けていると言えるかもしれません。彼の低音の凄みは、オクターヴ低い音を追加したフォルティッシモでの行進曲の再現において、その極限に達します。好むと好まざるとにかかわらず、この演奏の劇的迫力と聴き手へ与える強い印象は、誰にも否定できないはずです。そして波乱に満ちた行進の間に挟まれることによって、天国的静寂に包まれた美しいトリオが、より一層際立つのです。
 謎に満ちたフィナーレでは、興味深いアクセントによって、喘ぐような旋律の断片が、現れては消えていきます。まさに墓場を旋回する亡霊たちの声が聞こえてくるかのようです。ここでのペダルにももちろん響きの混濁はありませんが、決して耳にとって快適とは言い難い、この世のものではないような、不気味な音響効果を作り出すことに成功しています。音の渦に巻き込まれ、次第に消えていくかのように、最後のパッセージを数小節追加して繰り返します。
 この演奏録音は再創造芸術の最高峰ともいうべき偉業として、今後も末永く聴き継がれていくことでしょう。音楽を演奏するうえで大事なことは何か、楽譜の奥にあるものを読み取るとはどういうことなのか、現在も未来も、ピアニストはこの録音から多くを学ぶことになるはずです。
 ついでに、このソナタのレコードの余白に収められた、ショパンのワルツも聴きましょう。

音源㉔ ショパン「ワルツ ホ短調」1930年録音

 多くの人が現代の感覚に照らし合わせて、ラフマニノフの演奏は速すぎると非難します。果たしてそれは本当でしょうか。彼の速いテンポは作品を歪めているでしょうか。この演奏を聴いてもわかる通り、彼はどんなに速く弾かれるパッセージにも、ニュアンスをつけることを怠りません。すべてのフレーズには声の抑揚があります。こういう批判をする人はおそらく、現代のピアニストが無造作に速く弾き飛ばすことと、ラフマニノフの演奏とを混同してしまっているのではないでしょうか。現代の若者がラフマニノフと同じテンポで弾いたとしたら、音色、緩急、強弱にコントラストをつける余裕などなく、呆れるほど一本調子の演奏に終始するでしょう。ラフマニノフの録音を聴けば、弾き飛ばしている箇所など一つもなく、すべての楽節に生き生きとした表情がつけられていることがわかります。音楽が聴き手に真に語り掛けてくる演奏に対し、テンポの不適合なことを批判する余地はないはずです。
 二つ目の偉大な功績であるシューマンの「謝肉祭」ほど、彼のヴィルトゥオジティを遺憾なく発揮した録音はほかにないでしょう。これまでに述べてきた演奏家としての彼の特色は、この長大な、多種多様な小品から成る組曲のなかに、すべて表れているといっても過言ではないと思われます。めくるめく速さの中でも失われない重量感、壮麗な響き、隠れた旋律の抽出、鋭いリズム感覚、歌謡性、男性的力強さと華麗さ。すべての楽曲は確固たる説得力を持ちつつも、今まさに彼の指の下から迸り出たかのような、生き生きとした自発性に満ち溢れています。大きな絵巻物のような色彩豊かな音物語が、一息に目前で繰り広げられるのです。

音源㉕ シューマン「謝肉祭」1929年録音

 「前口上」でのテンポは速いですが、音の一つ一つの粒立ちは素晴らしくはっきりとしていて、不明瞭なところは微塵もありません。例によって響きの混濁も一切ありません。実に爽快なドライブ感とお祭り騒ぎの高揚感に満たされています。アルペジオの美しさと左手の旋律線が際立つ高貴な「オイゼビウス」、「フロレスタン」での緩急のコントラストの妙、「スフィンクス」の凄み、「パピヨン」のめくるめく指さばき、「踊る文字」の今にも飛び出しそうなリズムの高揚感、「キアリーナ」の感動的な抑えられた情熱、「ショパン」では旋律を支える左手のアルペジオの波の美しさ、「エストレッラ」の迫力、「再会」での同音連打は決して均一には弾かれず、旋律の感情的な起伏に常にぴったりと寄り添っています。「パンタロンとコロンビーヌ」と「ドイツ風ワルツ―パガニーニ」では、それぞれの部分を弾き分ける色彩のコントラストが実に鮮やかで、技術的にも完璧です。やはり左手が非常にしっかりしているという印象を受けます。「告白」にこれほどまで濃密な雰囲気を感じさせるものは、ほかにありません。「散歩」には期待を胸に秘めた内なる高揚感があります。終曲の「ダヴィッド同盟の行進」のような名演には、陳腐な言葉による説明はもはや必要ありません。リズムの神化。ピアノによる管弦楽化。まさに華麗なヴィルトゥオーゾ的ピアノ演奏の極致です。この演奏一つだけが残されたとしても、彼は史上最高のピアニストとしての評価を、未来永劫、欲しいままにしたことでしょう。
 この録音を初めて聴いてから、すでに数十年が経過しましたが、未だに私は、これを聴き終わったとき、23分もの時間が過ぎていることに驚きを禁じ得ないのです。この演奏は、何度聴いても、新鮮な楽しみと驚きで聴く者を魅了してやみません。
 さて、この講演もとうとう終わりの時が近づいてきました。締めくくりにはどの演奏を聴くのがふさわしいでしょうか。やはり彼の輝かしいピアニズムの勝利を高らかに宣言したものから選ぶのが良いでしょう。彼自身の編曲によるクライスラーの「愛の喜び」です。これはもはや編曲というより、クライスラーの主題によるラフマニノフの作曲といった方がしっくりくるような気がします。豪華絢爛な演奏会用作品でありながら、実に周到な音楽的展開が用意されています。彼の巨大なピアニズムを堪能するのに、うってつけの作品でしょう。さらにここには、堅苦しさのないユーモアの感覚があります。深い陰影が施されています。コンサート・ピアニストとして数えきれないほど舞台に上がったラフマニノフの、聴衆を楽しませることに徹する姿があります。我々を含む、あらゆる時代の聴衆に向けた最高のサービス精神の表れを、どうぞ受け取ってください。

音源㉖ クライスラー=ラフマニノフ「愛の喜び」1925年録音

 偉大な創造者であった彼は、自作だけでなく、他人の作品をも、作曲家の目を通じて解釈しました。彼の指の下で、これまで散々弾き古されてきた古典の名曲たちは新たな生命を帯び、聴衆に新鮮な感動を与えることに成功しました。私たちは、彼の演奏の中から、所謂、他の“正統派”と呼ばれているような演奏とは異なる部分を取り出し、なぜそのようなことが行われているのかを考えたとき、必ずそこに、彼がそう弾いた意味、作品解釈上の意図を見出すことができます。そこには、気まぐれでやったことなど一切ないということを、覚えておく必要があるでしょう。現代の演奏家たちは、この「再創造行為」を過去の偉大な巨匠の録音から学び取らなければなりません。たたでさえ、同じレパートリーが繰り返しコンサート・ホールから聞こえてくる、昨今の音楽界なのですから。すべての演奏家が自らの感性にのみ従い、作品をこれまでになかった姿へと生まれ変わらせることができた時、偉大なピアノ演奏の黄金時代が再び到来するかもしれません。大事なのは、楽譜に書かれたことをきちんと理解したうえで、では、その奏者は作品についてどう感じているか、ということなのです。自分で考え、感じることもせず、ただ作曲家の指示にのみ盲目的に従うようでは、その人があえてその作品を弾く意義がありません。そういう人間は芸術家とは決して呼べません。

 彼の生涯最後のリサイタルは、1943年2月17日、その死の約1カ月半前でした。最期まで現状に満足することなく厳しい練習を己に課し、最良のピアノ演奏を求め続け、自身の芸術を最高度に磨き上げました。ピアニストとしてのラフマニノフの前人未到の功績が、音楽を愛する幅広い世代の人々に享受される日が来ますように。そして、すべての演奏家にとって模範となるべき態度を、彼が生涯を通じて示し続けたという事実を忘れないでください。どうもありがとう。

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