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エミール・ギレリスを聴く

 ギレリスもまた、ロシア・ピアニズムの模範ともいうべき芯のある温かい音色をもった演奏家です。あらゆる難曲をものともしない華麗で勇壮な演奏スタイルは、「鋼鉄のピアニスト」という異名の由縁となったかもしれませんが、音そのものにそのような固さを感じさせる要素は含まれません。また彼はいつでも作品そのものに奉仕する真摯な姿勢を崩しません。その才能と素晴らしい演奏技術は、常に作品をより良く響かせるため、作曲家が意図した演奏効果のために最大限利用されるのであって、自身を見せびらかすための手段とは決してならないのです。当然彼の持つ技術は天才のみがもつことを許される並外れた音楽性に支えられたものですから、演奏が無個性であったり、無味乾燥に陥るようなことはありません。しかし、ギレリスの演奏を聴いてまず真っ先に感じること、常に最前に表れるものは、作品そのものの偉大さなのです。ギレリスはそういう演奏ができる巨匠であり、そのことが彼自身の個性ともなっているのです。彼のライブ録音には音のミスがよく聞こえてきますが、何事もなかったかのようなその後の処理は、いつも決まって見事なものです。

音源① シューマン「ソナタ 嬰ヘ短調 作品11」1961年録音

 このシューマン、ショパン(変ロ短調)、リストの3つのソナタを並べた1961年モスクワでの演奏会録音は、ピアニストとしてのギレリスのひとつの絶頂を記録したものだと思います。中身の詰まった響き渡る黄金の音色、このロマン派ピアノ音楽を凝集したようなプログラムで、まさにそれぞれにふさわしい千変万化の感情表現が聴き取れます。すべてのフレーズが生き生きとし、デュナーミクにおいてもアゴーギクにおいても堂に入った演奏です。常に的確な表情づけは、演奏に絶大な説得力を持たせています。ギレリスの確かな芸術センスを窺わせるものです。そのような微動だにしない構成がある一方、作曲家の精神が乗り移り、その作曲過程を追体験しているかのような生々しささえ感じられるのです。特に冗長、散漫な印象を与えやすいこのシューマンの若書きのソナタが、これほど見事な一貫性を持ち、多様な表現で聴き手の関心を引き続ける演奏を、ほかに聴いたことがありません。同じくこの曲をレパートリーとした偉大なロシアの先人、アントン・ルビンシテインの魂が乗り移ったかのような壮大なスケールです。ギレリスはここで、このソナタが後に続く2つの傑作に少しも引けを取らないということを見事に証明したのです。シューマンのインスピレーションの巨大な波に飲み込まれるような感覚があります。恋する若者のあらゆる苦悶が入れ代わり立ち代わり表れますが、音楽を手堅くまとめ、奏者自身の才能のひけらかしに結びつくあらゆる要素を排除するギレリスの演奏が、表現上の混乱を招くことはありません。

音源② リスト「スペイン狂詩曲」1968年録音

 独善的なるものを排除し、作品そのものの性格を浮き彫りにするギレリスが、即興的なアイディアを前提として求めている音楽作品を演奏する時、作品が要求する通りの比類ない自発性を発揮することは当然といえるでしょう。冒頭から明らかな、駆り立てるような高揚感、凄まじいほどの技巧の切れ、情熱滾る嬰ハ短調の第1テーマ、第2のテーマでの高音のコケティッシュさ、クライマックスのどんちゃん騒ぎの光景が目に浮かぶようです。この曲には高度な技巧と、進行にまとまりを持たせるための、様々な表現上の工夫が要求されますが、ギレリスが見事という以上にそれに応えていることが聴き取れるでしょう。普段は作品への奉仕に徹する彼のヴィルトゥオジティが、ここぞという時に解放された際の演奏効果は絶大です。

音源③ リスト「ハンガリー狂詩曲第9番」1930年代録音

 若きギレリスがあらゆる演奏技巧上の困難を克服していたことを示す演奏です。各セクションの雰囲気のコントラストは見事です。指の技巧だけでなくリズムの感覚も素晴らしく洗練されており、乱れというものが一切感じられません。この若さにしてすでに楽器を完全に鳴らし切る技術、弾むような高揚感、繊細さとメランコリックなどあらゆる表現を音に投影する技術を手中に収めていることがわかります。

音源④ ショパン「ポロネーズ ハ短調 作品40の2」1977年録音

 ギレリスの豊かな音は鐘のように響き渡ります。ここでは弔いの鐘の悲痛な色を伴って聴き手の胸に突き刺さります。ソフロニツキー、ホロヴィッツ、そしてギレリスらのショパン演奏にみられる悲壮感は、ロシア人特有のものなのかもしれません。この演奏を聴くと、アントン・ルビンシテインがこの作品にみた「殉教のポーランドの悲しみに沈んだイメージ」を思い浮かべずにはいられません。

音源⑤ ショパン「夜想曲 変ホ長調 作品55の2」1963年録音

 勇壮なスタイルを基本とするギレリスですが、彼の抒情的表現も見逃せません。この演奏のなんという肌触りの良さでしょう。とろけるような「ベル・カント」がピアノから湧き上がります。胸に迫るトリルの高揚感、声部間の対話、弱音の得も言われぬ静謐さ、魅惑のレガート・タッチ。フリードマンの名演にも負けず劣らぬ魅力あふれる演奏です。

音源⑥ グリーグ「抒情小曲集より」

 「鋼鉄のピアニスト」がみせる抒情的表現の極みです。慈しむようなタッチ、聴き手をすっぽりと包み込む温かな雰囲気、オーラがあります。この録音は彼の美しい音色、見事なペダル操作による魔法のような響きの世界を鮮やかに再現してくれます。

音源⑦ ラモー作品集

 ギレリスの弾くラモー作品からは、気品と活気の見事な調和が聴き取れます。一つ一つの音は瑞々しく、バロック作品をモダン・ピアノで弾く時に陥りがちな、ペダルを控えた、つま弾くようなタッチによる乾いた響きなどは一切聴こえてきません。「すべての音が生きている」という感覚があります。気の抜けた、中身がスカスカとなった音はひとつもありません。

音源⑧ ブラームス「幻想曲集 作品116」1965年録音

 ギレリスの壮大で芯のある情感豊かな男性的ピアニズムに、ブラームス作品ほどふさわしいものはないかもしれません。交響楽的な広がりをみせる抵抗精神から、諦念の侘しさまでが音で表現されます。カプリッチオでの激情の奔出はいうまでもなく、インテルメッツォでの寂寥感、涙と慰めの、抑制された感情表出は、とりわけ見事であるといえるでしょう。

ギレリスは演奏そのものだけでなく、演奏姿にも一切の無駄な虚飾がありませんでした。彼のフォームはまさに理想的であり、特にその手は常にリラックスした自然な形に保たれています。不自然に傾いたり、指を反らせたりするようなことはありません。手首もしなやかで、手が自然に鍵盤の上へと落とされるのが見て取れます。彼の美しく充実した音は、考え得る限りの最も自然なフォームから生み出されていたと知るのは、非常に興味深いことでもあります。また、この映像でも演奏されるラフマニノフの有名なト短調の前奏曲は、ギレリスが、ヨーゼフ・ホフマンのそれと並ぶ最高の演奏を聴かせた作品でもあります。この軍楽調の行進曲に、一種の気品を与え、曲を本来より高い次元へと運ぶことに成功したのは、私見ではおそらくこの二人だけです。

音源⑨「ライブ・イン・モスクワ」1977年


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