辞世の葉書

 八月八日に立秋を迎え、新涼しんりょうを感じる季節となった、らしい。早朝のかなかなと鳴くひぐらしの寂しげな声が耳に優しい圧を与える。
 残暑見舞いを送るための葉書を五葉ほど、文机ふづくえの引き出しからおごそかに取り出した。離れた家族に二葉、恩師に一葉、それと書き損じ用の二葉である。また、手紙の書き方や季語が載っている本を三冊ほど本棚から取り出して、机の上に並べた。丁寧な文章を書こうか、それともいきに句でも詠もうかなどと、本の中身を眺めながらウウンと唸っているうちに、いつの間にか昼になっていた。
 夏バテを起こしてしまったが為に、水分補給用の清涼飲料水しか飲めなくなった体は、筋肉が落ちたのか少し痩せほそり、また体力が落ちて食べ物が喉を通らなくなりと、悪循環に陥っていた。もしかしたら、今回の残暑見舞いが遺書になる可能性が無きにしも非ず。それならば、と開き直り辞世じせいの句でも今のうちに読んでおこうかと思い立った。そうしてまたしばらくウウンと唸ったのちに、やはり短歌を詠もうというこころみになった。

 立秋りっしゅうの き合いの空へ 身を投げて
 入道雲と 共に去りゆく

 字余りとなってしまったが、なかなかに良い歌が詠めた。最後の「いく」を「ゆく」に変えたほうが、不謹慎な遺書には見えないだろう。「身を投げて」という所が入水じゅすいを思わせるかもしれないが、前に「空へ」と置くことで、現実味を帯びずに幻想的な物語に出来上がったと思う。これを家族と恩師に書いて送ったとして、誰も遺書だとはつゆとも思わないであろう。短歌の最後、「共に去り行く」の所で、誰が? 何処へ? と思わせてしまうかもしれないが、そこは成りきに任せて、深くは考えず、そのままにしておこうと思う。人によってはこの箇所に考察を重ねるかもしれないが、ただの面倒くさい名残であるとは誰も知るよしもないだろう。

 辞世の句を 考えるのも 一苦労

 さて、残暑見舞いを書く。
 昨年は暑中見舞いで水性の筆ペンをもちいたのだが、まだ梅雨あかりも来ていない頃だったこともあり、葉書が外に備え付けられた郵便受けの中で大雨に濡れて、文面が台無しになった経験がある。その時は、葉書の裏面に印刷された絵を見て欲しかっただけであったために、落ち込むことも無かったのだが、今回の歌はどうしても皆(と言えど三名だけだが。)に送りたいと思っている。ゆえに油性ペンを筆箱から取り出した。これならば雨で文面が消える問題も無し。万全である。ちなみに、今年も裏に絵が印刷されてある葉書に書いている。

 ふみと絵と ポストカードの 裏表
 どちらを見ても 優劣つかず

 住所の書き損じで一葉を駄目にし、三葉を書き終えた頃。昼からそのほとんどを短歌を考える時間でついやしたが、気がつけば夕方の四時半近くとなっていた。何処かで白雨はくうが降っているのか、厚い雲が空を渡るのが見え、涼しい風が吹き始めた。嗚呼、これが新涼なのだなと今を感じる身と、まだまだ暑さが続くのだなという先を読む思考で、我の全てががんじ絡めになりながら、体感の夏と暦の秋を過ごして行く。行き合いの空に響くひぐらしの声は、夕空に紫色を含ませようとしていた。
 しばらくして、耳への優しい圧も消えて夜になった。葉書は明日の朝に出そうと思う。今夜だけは、朝を迎えることが出来ますようにと願った。そうして床に就いた。

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