『古今患者の残穢』

 二○二一年十一月十七日。精神病院に入院した。退院目標は、手元不如意のために、一週間、長くても二週間に設定した。
 私は個室で過ごすことになった。
 ベッドと机、クローゼット、洗面台が備え付けられており、風呂とトイレは共同となっている。個室の窓から見える外の景色といえば、向かいの患者達の窓群と、職員と来客のための駐車場、それから少し離れた所に体育館のような建物があり、そのずっと奥に薄く靄のかかった山脈が連なっているのが見えるばかりで、その他の見えるものは、投身防止の網にカメムシがぶら下がっているのみである。特段楽しいと思える景色ではないために、カーテンのほとんどを閉めている。私は蛍光灯の明るさが苦手なため、常に電源を切っている。そのために部屋にはほとんど明かりが無く、夜の暗さ同然の中で過ごしている。
 そんな暗い部屋で過ごしているからだろうか、奇妙なことが起こるようになった。「奇妙なことが起こるようになった」と書くと、この場合は心霊現象を想起する者もいるであろう。どうでもいい話になるが、この際言っておくと、私に霊感というものは、全くもって皆無である。しかし私には直観というものが備わっている。
 その直観が私に訴えかける。
 ここには何者かが居ると。
 この部屋には私以外の誰かがいると、その気配に気付いた。私がこの気配に気付いたのは、入院して二日目の朝だった。朝の採血を済ませ朝食をとった後、ベッドに横になろうとした時に、気分が崩れ始めた。急に気持ちが落ち始め、虚しい気分となった。それ自体はうつ病患者によくある症状だが、この時は少し違っていた。個室の隅、そこに何者かが居たのだ。そしてその何者かが私に圧をかけていた。私はそれに圧倒されたのだ。
 私はそれを「古今患者の残穢」と呼んだ。この病棟が建設されて、患者を受け入れ始めてからというもの、数多の患者の思念が生まれ、そして退院するも、その思念だけが残って病室に留まり、そこの空気と同一化、もしくは一部空間を漂うようになったと私は知った。その思念の中身はおそらく「死にたい」「辛い」「眠れない」「消えたい」など、うつ病患者が抱えるであろう思念がほとんどだろう。その思念の圧にかかり、私の気分は落ちていたのだ。
 これはスピリチュアルな問題だと考えられる。人の想いというものは、すぐに届けられ、そして解消されなければいつまでも残るものである。今回の場合は前記した通り、多くの患者の思念が病室に取り残されてしまったのだ。
 この思念に負けないようにしなければならないと思い、私は手っ取り早い解決方法として、好きな音楽を中音量で流した。するとどうだろうか、という文句まではいかないにしろ、幾分かリラックスすることが出来た。それに加え「古今患者の残穢」を受け入れるように努めた。そのうち愛おしく感じ始め、退院したら絵でも描いてやろうという気にさえなり始めたのだった。
 病院での奇妙なことの話はこの辺りで終わりにしたいと思う。
 まさか、気分の落ち込みが、採血による貧血の可能性があるなんて、自伝には書かないでおこうと思う。

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