見出し画像

萌え絵フォーマット論 ~どうして萌え絵は炎上リスクを無視して濫用されるのか~

はじめに

どうも、虚無の先と名乗らせていただいている者です。

前回のnote初投稿だったのに20もスキをくださってありがとうございました。
今回は、『どうして社会が若者にメッセージを届ける際に「萌え絵」という形式が最も有効なのか』を議論していきたいと思います。これは簡単に言うと「萌え表現である必要はない」という表現不要論へのカウンターです。論理としては、「萌え表現であれば若者に届きうる」という点と、「萌え表現以外で若者に届く表現が無い」という二つの点を組み合わせることによって、「萌え表現でなければ若者には届かない」ことを示します。

前提(わすれもの)

が、その前に、前提となる「どうして若者に広告を打つ側がフォーカスすべきなのか」について考えたいと思います。言うなれば「少子化で減って、景気が悪い世代の若者は大して金も時間も無いからそんなところ無視して上の世代に焦点を置け」という意見へのカウンターです。
この理由は二つあります。一つ目は若者の方が自由に使えるお金が多い点。二つ目は若者の方がより長い間顧客としていてくれる可能性が高い点です。
まずは一つ目の若者の方が自由に使えるお金が多いというのは若者は結婚も子育てもしていません、そのため、自分ひとりのために使えるお金や時間がどうしても多くなります。「独身貴族」という言葉があります。この独身貴族が若者には多く、その若者からいくらお金と時間を巻き上げられるかが特にエンタメ業界では大事になってきます。
二つ目の長い間顧客としていてくれる可能性が高いというのはもし人間の寿命を100年として、20歳の人と50歳の人でどちらの方が長生きするかと聞かれたら前者が長生きしますよね?たとえ今20歳の人が80歳で死んでしまったとしても今50歳の人は110歳まで生きないと消費できる期間の長さとしては負けてしまいます。このように、若い人を狙うとリピーターが長期的に続いてくれる可能性が高まり、短期的にお金をポンと落としてくれる良いお客さんが増えるのです。それならもしあなたが経営者なら若者を狙った広告を打ちませんか?

若者に届く表現がない理由

では前提を片付けたところでどうして萌え表現以外で若者に届く表現がないのかについて考えたいと思います。そのために萌え絵以外の表現を考えてみたいと思います。
俳優を使った宣伝を考えてみます。まず、すべての若者がその俳優を知っているとは限りません。特に今、若者のテレビ離れが叫ばれ、若者のテレビの視聴時間はスマホの利用時間に食われて短くなっているのが現状です。新たな俳優を知るための主となる手段であるはずのテレビを見る時間が減れば、広い範囲の若者が認知している俳優の数も減ります。また、活動場所をインターネットに移せば、人間一人の感覚から見たら無限と言えるような数のインフルエンサーとの客の取り合いになります。そんな中で多くの若者が認知する俳優というのはいるのでしょうか?また、俳優を使うことでその俳優のイメージが広告に載ります。もし俳優のイメージが広告にしたいイメージと異なったらどうでしょうか?そんな広告打ち出しませんよね?
これと同様のことがインフルエンサーにも言えます。例えばですが自分がよく見ているYoutuberで執筆時点で登録者1400万人を誇るYoutuberであるLinus Tech Tipsをご存じの方は読者の中でどのくらいいるのでしょうか。さすがに海外のYoutuberと比較するのはずるい?いえ、「若者の時間」というパイは日本の俳優/Youtuber/インフルエンサーに限らず海外の俳優/Youtuber/インフルエンサーにも食われてしまいます。また、たとえメディアが「若者に人気のYoutuber」として取り上げたとしてもその「若者」には偏りがあり、そのYoutuberが作ってきたコミュニティがどのようなものかによってはその視聴者層が広告を打つ側にとって有害なものが濃縮されたものであることもあり得ます。
このように人の趣味が多様化した中でその趣味に相乗りして宣伝する手法には限界が訪れているのではないのでしょうか?

萌え絵が若者に届きうる理由

ではどうして萌え絵ならば若者に届きうるのか?というと「萌え絵」に触れる機会が多く、知っている若者が多いという点にあります。子供のころ見たアニメは程度の差異はあれど萌え絵の一種であるということができます(あまりにも「萌え絵」という言葉でカバーできる範囲が広すぎるためそういった子供向けアニメのイラストとその他のアニメのイラストの区別をつけられません)。スマホを手に入れて和製ソシャゲを一つでもやってみればまず萌え絵が含まれないゲームを探す方が難しいです。そして「進撃の巨人」や「鬼滅の刃」といった若者が知り合いとの話題に合わせるためのいわば必修科目のようなアニメもあります。今の若者はこのように萌え絵と触れる機会がとてつもなく多いわけです。ゆえに抵抗感も少なく、広告として使われた際に受け入れられるわけです。

今回の論の「穴」

ここまで話したところで自分の論に違和感を覚えた方いますか?いない?だったらこれでまとめでも書いてnote書き終えますけど…

まあいますよね…
そりゃあ論にドデカい穴開けましたもん。論がザルとか言う次元じゃなくてドーナツの穴ぐらいのレベルで穴空いてます、もう反論ツーツーですよ。というのも若者に届く表現が無いという論では俳優を個人であったりYoutuberなら1チャンネルであったりと最小単位を単位にしていました。が、萌え絵における宣伝方法では「萌え絵」というもの全部で論を組み立てています。言うなれば概念対個人という単位が全く違うもので若者のとらえ方をを比べているのです。概念の方が有利にはたらくし、このような比較は不公平でもあります。ですが、自分は「広告そのものから一つ上位のものを比べる」とすることで比較をしています。これをする理由は、広告そのものを比較すると情報が少なく、主観にまみれた考察(こっちの方がエロいとかあっちの方がエロいとかそんなの人によって違います)しかできません。が、一つ上位の存在の比較であれば、萌え絵と人間というところから、その表現についてという絞り込み方で考察できます。ですが、インフルエンサーは個人の存在がインフルエンサー全体で行える議論を不可能にしています。言うなればインフルエンサーはその広告ではない人生を歩んでいて、それについてきたフォロワーが多く、そこを無視するわけにはいかないということです。ただ、萌え絵の場合特にキャラクターがオリジナルなものであれば(戸定梨香さんや、温泉むすめなどが当てはまります)、そのキャラクターそのものが広告目的で作られた以上、そのキャラクター(演じている方ではなくキャラクターです)の人生や歴史は無視して考えないと、上にも書いたような主観にまみれた考察になってしまいます。

規模の違いの修正

ただし、議論の規模が違うため、指摘すべき点はいくつかあります。まず、萌え絵を利用した広告はインフルエンサーを利用した広告と違って、インフルエンサーの知名度を利用することができません。なので広告は宣伝の量が肝心になってしまいその分コストがかかります(インフルエンサーの広告だとインフルエンサーに宣伝を一部任せることができるので宣伝にかかるコストは減ります)。ただ、逆に市場調査をうまく用いて、マーケティングをすることによって「広告を作る側が求める顧客層」を作ることができます。丁寧に動いて少ない純度の高い顧客を得るか、雑に動いてたくさんの純度の低い顧客を得るかというところです。これに関してはどちらかが良いとは言えません。商品の性質によって大きく変わります。

最後に

では、最後に、どうしてこの記事のタイトルが「萌え絵フォーマット論」という変な名前なのかというネタバラシをしていきます。簡単に言うと萌え絵広告は新たな形式(=フォーマット)の広告として社会において実用性の高い広告となっていて、それを取り除くことは困難であるということです。形式なんです。それ以上でもそれ以下でもなく、経済的成功を収めた形式。経済によってその成功が裏付けられてしまった以上、それを科学的根拠なく、法的根拠もなく、非論理的な手段で取り除くことはできません。もっとも、科学的根拠があっても完全に取り除けないものとしてたばこもあるので、経済的成功はそれほどまでに強い意味を持ちます。それも、たばこは一商品です。萌え絵広告による宣伝は売り方そのものを書き換えうる新たな広告の手法です。正直自分も萌え絵広告は自分のあまり表に出していない趣味が開陳されているようであまりいいものとは思っていません。ですが、だからこそ、その存在が否定されてはならないと考え、この記事を執筆しました。(キーボードで入力したので筆持ってないけど)

もしよろしければ、スキ、拡散への協力、Twitterへのフォロー(自分のTwitterに飛べるのか不安だけど)などなど(と書くことによって書き忘れたものがあれば読者にカバーしてもらおうという卑劣な作戦)よろしくお願いいたします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?