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【感想】「何も求めず ただ座るだけ〜自給自足の禅寺 安泰寺の1年〜」

半年、1年修行するというのも、もちろんそれなりに悩んで、覚悟あっての挑戦だと思うが、何かを得たと実感するには程遠いのかもしれないな…と思ってしまった。

西洋哲学と東洋哲学は、真理へたどり着くプロセスに大きな違いがあるように思う。かなり雑に括って言ってしまえば、西洋は思考重視、東洋は感覚重視。西洋は言葉を用いて論理を構成するが、東洋は経験や、腑に落ちる体感が重要である。現代人は自分のアイデンティティがそれらからとっくに解放されていると考えがちだが、私はそうは思わない。その時代時代において、文化的習俗から一切影響を受けないアイデンティティなど存在しないと思っている。

例えば「こころの時代~宗教・人生~ 禅の知恵に学ぶ」は、私のような初心者にとってはなかなか理解が難しい内容ではあるが、内容は素晴らしく、じっと耳を傾けて聞いているとじわじわと伝わってくるものがある。涙さえ出てしまう。それは理屈ではない。荒唐無稽でもない。悟りと煩悩の間で揺れ動き続ける人間の宿命にあって、まるで一瞬の空を仰ぎ見るような心地だ。般若心経にもある。色即是空。空即是色。

生きていくうえで、どちらに偏りすぎても弊害はある。禅は、頭や意識をニュートラルなポジションに切り替えるうえで役立つものと考えられ、マインドフルネスは瞑想から宗教色を取り去って、まさに西洋的に役立つものとして意味づけられている。

人間は知りたがる生き物であり、常に欲望があり、動物のようにシンプルにただ生きることをなかなか良しとすることができない。それはもしかしたら、進化上脳を肥大化させてきた人類が背負う宿命としての、無秩序な暴走という側面があるかもしれない。

何もないということは、そこに決して何もないことを意味しない。また、そこに何かがあるということは、その何かだけがあるということを意味しない。そこに穴が開いているのだと思って、せっせと強迫的に穴を埋めようとする人がいる。

実際あるにもかかわらず、

お金が充分にあると思えない。

仕事が充分だと思えない。

愛が充分にあると思えない。

身の安全が充分に保障されていると思えない。

将来が充分に保障されていると思えない。

人生が充分だと思えない。

幸せだと思えない。

何かで埋めて、そこに「意味」を持たせようとしている。生きる「意味」を見出そうとしている。意味がなければ幸せではないと、自分で自分に条件づけている。意味が分からなければ満たされないのだと、思い込んでいる。

思い込んでいるということに、気づかない。気づかない人は、それこそ一生気がつかない。

ないものに目を向けていれば、ないものしか目に入らない。あるものに目を向けていれば、あるものですでに満たされている自分に気づく。そればかりやっていた人にとって、一朝一夕にたどり着く境地ではないではない。穴が開いているところに積み木を放り続けて、いつまでたってもいくら頑張っても積み木が完成しないことをずっと嘆き続けて、ある日やっと自分で気が付くのだ。地面に、穴が開いていることに。そしてその穴は、「ない」という自分の意識が開けた、仮想の穴でしかないということに、うっすらと気づきを得る。

意味づけ作業が好きな人もいる。そのこと自体を否定するものではない。思い込みに気が付か「ねばならない」というのもまた、強迫的だからだ。

一方で、考えすぎて迷路に迷い込んだ人たちが、時々吸い込まれてはいけないところに入っていくことがある。そして自分を傷つけ、他人を傷つける。私には、それが悲しくてならない。

なかなか正解というものが見えない現代だからこそ、怪しげなイデオロギーを警戒しながらも、一種の力や理想像、「意味のありそうな何か」を追い求めるように見える。

しかし、越えてはいけない一線がある。踏みとどまらなければならない一線がある。その倫理を一人一人が胸に刻み、苦しいときも、そうでないときも、互いに支え合うことのできる社会であれば、そして世界であればと、願っている。



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