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通訳者が聴くことだけに集中できる時間をつくる意義

今年心がけていることにひとつに「人の話を聴きにいくこと」があります。
興味のある分野の講演会を聴きにいく、
話を聴きたいと思う友人との食事を予定する、
会いたいと思う人にアプローチしてみる、
朗読会の鑑賞に行く、などなど

そうすると、不思議な感覚になることがあります。

普段、聴きながら解釈して分析して、別の言語で表現するための言葉や語順を決めるという作業をほぼ同時に行っている通訳者は、自分の限られた脳のキャパシティをその作業に分散させています。通訳しているときの頭の中を円グラフを表現すると、たとえば聴くことに30%、分析に30%、訳出に30%、2%くらいで資料を見るiPadの操作をして、0.5%くらいで水を飲む…といった具合です。

しかも発せられた言葉は、ベルトコンベアのように流れて消えていってしまうので、行ってしまったものはもう取り戻せない。そんな数秒を争う時間的な制約の中で、脳内キャパ分散作業をこなしていくので、これを生業にしている通訳者は、(ご多分に漏れず私もそうですが)せっかちな人が多い傾向にあるようです。

同時通訳の仕事を終えた帰り道、あの方の講演をもう一度ちゃんと聴いてみたいな…と思うことがあります。通訳は幅広い分野に触れられる仕事だけど、立ち止まってひとつをゆっくり深く感じることができない、そんなフラストレーションがあるようです。

先日「種を蒔くデザイン展2024」の「新しい八百屋の作り方&能登会議」という対談を聴きに行きました。能登の震災当日からの歩み、能登が本来持つ力強さや震災によって浮き彫りになった課題、生産者と台所をつなぐ八百屋の新しいあり方。使命を持った3名の熱量たっぷりのトークは、溢れるエネルギーとなって聴き手の私に降り注ぎました。

あの不思議な感覚です。
全神経を聴くことに注げるオーディエンス側に座ると、まるで閉じていた毛穴が広がって吸収しているみたいな感覚で、言葉や行間の思いが鮮やかに降り注いできて、じわーっと沁みこんでいく。ちょっと感覚が暴走しすぎて、涙腺がおかしくなったりもしますが。

通訳のときは、作業の分散や時間的制約によって、なんとなくどこかを塞がれているような不自由さの中で一生懸命聴いていて、特に仕事が重なる時期は、自然とその状態に偏っているのかもしれません。

いいお話を自由に聴けた帰り道はとても満たされて、バランスを取ることの大切を感じながら、また次の仕事もがんばろう!と元気がふつふつ湧き出るのです。



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