三輪眞弘「オリンピックに向かう社会」〜『スポーツ劇』(2016)特設サイトより
KAAT神奈川芸術劇場と地点による共同製作作品『スポーツ劇』。その特設サイトにリレー形式で寄せられたエッセイの紹介です。
第1回目は本作の音楽も担当した三輪眞弘氏。2015年12月に書き下ろされた「オリンピックに向かう社会」。
※《CHITEN✕KAAT》特設サイトの本稿掲載ページはこちら
5年後にぼくが帰属する国家においてオリンピック(・パラリンピック)が開かれることになった。スポーツとは無縁のぼくには何の関わりもないと思っていたが、オリンピックは「文化の祭典でもある」と定められているらしく、ぼくの周りでも「オリンピック特需」(意味は違うが、そう呼ぼう)関係の計画が芸術・文化関係者の間で進められているようだ。そしてもちろん、文化のみならず、様々な「オリンピック特需」による絶大な (?) 経済波及効果、雇用効果が期待されているという。結構なことである。しかし、ぼくが漠然と抱いている今の疎外感はおそらくぼくの「スポーツ嫌い」のせいだけではないだろう。
まず何よりも、3.11以後の国内情勢の中で、「オリンピック特需の恩恵」に浴すため以外に、一体この巨大な「お祭り」を是非やろうという「気分」になれる日本人がいるのだろうか。ぼくの想像以上に多くはいるのかもしれないが、ぼくはなれない。「そんなお金と時間があったら他に一刻も早くやるべきことが山ほどあるだろう!」と感じている。
もちろん、ぼくも経済波及効果や雇用効果それ自体を否定はしないが、それはつまるところ「カネまみれ」であるということであり、IOCのスキャンダルをはじめ、競技場の建設、巨額の放送権やスポンサー契約などをみればそれは一目瞭然である。現代のオリンピックはアマチュアリズムを標榜していたオリンピック本来の高邁な理念とは何の関係もなく、過去のそれはまさにノスタルジックな「前世紀の遺物」でしかない。ドーピング問題ひとつを取っても明らかなように、「人種や民族や国家や宗教の壁を越えて全人類が共通のルールを守ってフェアプレーをしよう」という20世紀の壮大な「夢」が潰えた今、さらに言えば「戦争」とはまだ呼ばれない大量殺戮がこの世界で日々繰り返されている現在、その理念はあまりに空々しく見える。なぜなら、その「夢」は単にオリンピックというイベントに限らず、「互いに認めるルールを設定し、ルールに基づいて人間世界を調停しよう」という議会政治や立憲主義など近代の「ルールに基づく」な社会構想=理念にリンクしていたからだ。もちろんその悲願は「暴力だけは絶対に避けるために」である。そのような意味でスポーツは本来、近代社会の理念を誰もが身体化、内面化するためのエクササイズだったのかもしれないが、「スポーツマン精神」として謳われたその夢に人類は少しも近づけなかったということになるし、21世紀のこの世界には、身も蓋もない殺戮だけしか残されなかったように見える。
そのような中で、目前に迫る危機は、このような「お祭り騒ぎ」の裏には必ず、政治的な意図や計算が潜んでいるということだろう。ヒトラー政権下のベルリン・オリンピックがその典型であるように、当時と同様、今回も選手たちを「英雄」に祭り上げ、民族や国家を神格化し、最新鋭のテクノロジーを駆使した、マスメディアによる大衆のマインド・コントロールが試されるはずだ。「音楽」と同様、比率から言えばメディア装置によってスポーツを楽しむ人々が圧倒的多数を占める現在、それは装置と大衆ひとりひとりの脳との接続時間だけを追い求める「意識産業」の大目玉コンテンツであるに違いない。いや、それどころか、(商業)スポーツはそれ自体が国粋主義や狂信的熱狂を拡散させるメディアそのものなのである。そもそも日本のどの新聞や放送局にも対戦チームを日本チームと平等に報道する自由や選択肢などないのだ。
日本では今年7月に採決されたことにされた「安全保障関連法案」はもとより、当然それを視野に入れていたであろう「特定秘密保護法」、それに続く「防衛装備移転三原則」など、選挙ではほとんど告げられることのなかった重大な法案が国民多数の驚愕と反対運動をよそに矢継ぎ早に決まり、ついには憲法の縛りを根本的に骨抜きにするジョーカーとも言える「緊急事態条項」の創設を目指す第二次安倍政権の進展をナチス・ドイツがワイマール憲法のもと、見かけ上「合法的なプロセス」に従って独裁政権を樹立し、壮大なベルリン・オリンピックを演出した歴史と重ねてみることに、麻生副総理をはじめ多くの人々が同意してくれるだろう。そうなら、今の日本社会はもはや「戦後」ではなく、ナチス政権当時と同様の「戦前」だと認めるしかない。
付け加えれば、日本でも太平洋戦争前、オリンピックの招致が決まり、ベルリン・オリンピックに続く1940年に有色人種国家(!)初、アジア地域初のオリンピック大会が東京で開かれる予定だったという事実も忘れることはできない。ナチス・ドイツとの違いは単にベルリン・オリンピックはまだ「戦前」に開催されたが、「幻の東京オリンピック」は太平洋戦争開戦直前の日中戦争における「戦時中」の開催となり、国家のリソースから見て「それどころではなくなった」という状況の中で辞退を余儀なくされただけで、基本的にかつても同じことを考えていたわけだ。
改めて言うまでもなく、スポーツとは戦争の代理行為であり、そこでむしろ問題になるのは、注目を集めるプレーヤーなどではなく、ぼくら観衆の存在である。「対戦」に期待し、応援し、熱狂するのはぼくらなのであり、やがてぼくら自身(の子孫)が戦争という凄惨な「ルールのないゲーム」のプレーヤーにされる番が来るはずだ。そこにまで至るプロセスを操っているのは、今の日本ならば安倍政権に違いない。しかし、先の歴史を振り返ると、不思議なことに、それは「誰がやっても同じこと」になるようにも見えないだろうか。もしそうだとすれば、それはさらに驚くべきことであり、ぼくらはヒトラーならぬ安倍晋三という人物の品性や知性を越えた、何か別の「力」や、それを生み出す「メカニズム」を想定しなくてはならないのかもしれない。
勝手な想像だが、おそらくそれは、ぼくらひとりひとりの、日本国で言うなら約一億数千万の心の中の、言語とは異なる次元の「感情」に関係があるのだろうと思う。逆に言うなら、国会の答弁から日常の会話まで、誰もが「フェアプレー」の前提となる「ルール」を可能にしてきた「言語」というものを根本的に信じなくなってきたということだ。思うままに喋ってはいても、誰もその意味を聴かなくなり、機械のように黙りこくるかと思えば妙に饒舌になる。嘘をついても恥じることなく、約束を破っても、支離滅裂でも、「とにかく言い負かせば勝ち」の時代が再び訪れたのだ。それは「言葉」が、ぼくらひとりひとりの「わたし」という主体から離れていくから、いや言語というものが、人間の根源的な不条理に対峙してきた死者たちからの「遺言」であることをぼくらがあっさりと忘れようとしているからに違いない。しかし、それでも作動し続けるのが意識下の欲動、すなわち生者たちの無言の「感情」だ。もちろん、それ自体に善悪などはないが、確かにそれは留まるところを知らない暴力や破壊を指向するものでもあり得る。ぼくたちはその狂気を鎮める死者たちの知恵、すなわち言語をただ嘲笑うことしかできないでいる。「歴史から人が学ぶことは、歴史から人は何ひとつ学ばないということである」と誰かが言った。ぼくは今、オリンピック開催に向かうこの世界をそのように感じている。