見出し画像

みんなの現代アート グレイソン・ペリー

アートという印象は、自由に気の向くままにという印象
芸術的感性を知るために読んでみましたが、感慨深い未知の領域でした。しかしなぜか共感しワクワクするのはfootballはアートだと言う事実と認識の証拠

1、「民主主義は趣味が悪い」
1990年代ごろに活躍していたロシア人アーティスストの二人は
いくつかの国で「人気な」という言葉をそのままに解釈し世論調査で絵を描いた。
その結果を受けてそのイメージで絵画を描いた。ほとんどの国で人々が求めていたのは、数人の人物が散らばり、前景に動物がる。全体的に青っぽい風景画だった。その経験を得て彼らは「自由を求めていたはずなのに、見つけたのは奴隷制だった」と。。

なんとも哀しい。個人的に金を出して見に行きたくないかな。
例「1万人が選んだ最高の美術館」・・・とかね。個人的には国立美術博物館とか、県立美術博物館というのも工夫していいのでは?と思っている。「公」が作品を上回ってしまう印象があるので。。ブランディングかな。

スポーツ、特にFOOTBALLは芸術的感性が磨く、最も人間的な競技だと言える。闘いの中に美しさや圧倒的な感情表現、それを観客が煽り、観客を煽る。日本人には苦手な表現方法かもしれないが、そのゲームをコントロールする審判は、同じ熱量・温度まで自身を沸騰させないと違和感が生まれる。裁くのではなくコントロールするのだ。審判をしていて今日のゲームよかったなと思うのは判定がうまくいったのではなく、ゲーム中にいい表情をしているキャプテンを見た時。今日はいい日だなって思える。逆に感情の伴わない試合は、言いにくいが・・やりたくなくなる。20代の頃は逆にもっとやって!というスタンスで入ると、試合は荒れた。

僕は生真面目な方らしいので、言葉を選びがちな性格。
しかし、最近発言にフィルターはかけるけどストッパーはかけないように意識している。(多分CEOを意識し始めた時くらいから)

ある疑問と闘ってる。

何か発言をすることは何かを否定することだと恐れる雰囲気は
私たちの「真剣さ」「熱」は何を持って表現するのであろうか?

言葉を知らない異国で、目の前に本気のアート作品がある。理解できない時、人は判断を下すために「自身の勉強不足だ」ということで、作品の良し悪しを決める前に、その言語や文化を学ぼうとする。

「作品の良し悪しを決める前に、何かを完全に理解しなければならない。」

その感覚はコンセプチュアルアートに向き合った時に強くなるらしい。作品を見て自由に感じていいのだが、読み取ろう、理解しようと言う感覚に近いのかな。

かっこいい人、おしゃれな人、センスのいい人は感覚的に読み取る。
しかし、良いセンスとは同族相手にしか通用しない。アート界という部族は独自の価値観を抱えていて、それらがより大衆的に開かれているものだとは限られないという。もし大衆が一つの美術館に、好きな絵を持ってきていいよとなった時に、果たしてその美術館はどのような光景になるのか?考えただけで恐ろしくなる。しかし、この美術館の建っている場所、外観、内装、立てた目的、オーナーの人間性やphilosophyを知った上で、テーマは「自然」と示せば、自然に関連したセンスのある作品が集まり、融合し、美しさを表現できるであろう。

つまりはセンスとはアートであり、同族や大衆に理解されるものではない。

私が目指すクラブ像は、森の中で少しひらけた場所に一人の少年が絵を描いている様子だ。川があってもいいし、鳥が飛んでいるのもいい。樹海でも面白い(余談:DA PUMPのIfのPVは本当にかっこよかったな)。もしくは生い茂る草をかき分けて、山頂で空を描いている子供がいればワクワクする。

感覚派の選手に対する指導は、もしかすると原理原則や戦術を落としこむと同時に、アートを学び「センス」について考えさせる場があれば、そんなコミュニケーションが成立したら、わかりやすいかもしれない。つまりその選手に選択させるのだ。

最後にnational gallery理事 アランベネットはこういった。

美術館の外壁に掲示せよ「全てを好きになる必要はない」。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?