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メディア人生の始まり始まり~

 朝日インタラクティブnoteの初めての記事となります。私は、朝日インタラクティブ 編集統括を務めている別井貴志です。一応、このnoteの責任者になります。CNO(Chief Note Officer)を名乗るように決まりました。陰では「Chief Nonbe"呑兵衛"Officer」や「Chief Nandemoari“何でもあり”Officer」とか言われていますが、役職とか呼び名に執着は一切無いので、どうにでも呼んでください。

 朝日インタラクティブがnoteを始めた背景は、主としてメディア事業を運営していますが、個別の運営メディアだけではなく、企業としての朝日インタラクティブをもっといろいろな方に知ってほしいと考えたためです。事業活動そのものの報告などもしていきます。しかし、メインは編集部や営業部、技術・制作部など、どういったメンバーたちが、どんな思いで事業を運営しているか、メンバーのキャラクターも出しつつ伝えていきたいと考えています。

最初のメディア

 まず、今回は私自身のキャラクターを示す意味でも自己紹介をします。外向きに使っているプロフィールは以下の通りで、メディア歴はちょうど30年になります。なぜ、メディアを志望してきたかは別の機会にします。

金融業界紙の記者として経験を積んだ後、インプレスでオンライン媒体の「INTERNET Watch」、「ファイナンスプロジェクト」の編集記者をつとめ、その後インターネットマガジン編集部の副編集長に就任。2005年1月にはシーネットネットワークスジャパン(現 朝日インタラクティブ)に入社し、2007年7月に「CNET Japan」編集長に就任。2016年4月からは編集統括兼CNET Japan編集長となり、2019年5月からはCNET Japan編集長の兼務が解かれ、引き続き編集統括を務める。

 最初の金融業界紙(いまはもうありません)は1990年4月に入社して1998年12月に退社しています。つまり、だいたい日経平均のピークに入ってボトムで辞めた感じで、ずっと右肩下がりだったので、いい想いをしたことはほぼありませんでした。山一証券にガサ入れがあったときに、その社内で取材していて、私も事情聴取を受けそうになったことぐらいがいい想い出です。

 そして、この時期の原稿執筆は、まだ原稿用紙と鉛筆の時代です。日経新聞の1面トップに「野村證券が1人1台パソコンに」という見出しが載るような時代でしたから、パソコンも全面普及していませんでした。この会社を辞めるぐらいの時期には、ダイアルアップ(速度は28.8kbps~56kbps程度、テレホーダイやタイムプラスなどの料金体系がありました)でインターネットを利用できるようになってきました。

 このように、いまでは信じられないようなアナログ時代が私のメディアスタートでしたが、ここでの経験がいまの私を創ったといっても過言ではありません。金融業界での私の担当は「外国株」でした。そのため、いまも日本株はよくわかりません……。欧米はもちろん、南米、アジアなど、ほぼ全世界の金融市場を毎日見ていました。すべての市場でバブルが順番に起こったので、金融だけでなく、国際事情も勉強になりました。最後のほうではモンゴルの市場を見ていたような気がします。ほぼカシミヤの記憶しか無いですが。そして、いま考えるともっとも趣深いのが、香港返還を経ての中国市場誕生です。リアルタイムで体感できたのは本当に良かったと思っています。H株、A株、B株など懐かしいですが、当時の中国市場に上場していたのは「○○鉛筆」や「○○洗濯機」といった銘柄ばかりで、いまの中国市場から見ると信じられないくらいです。

 しかし、一番注力していた市場は米国で、特にNASDAQはつぶさに見ていました。当時(1990年~1998年)のNASDAQ総合指数は、ずっと右肩上がりで450ポイント程度が2000ポイントぐらいまで上がった時代です(いまや9500ポイント越え!)。テクノロジー企業主体で構成されているNASDAQ市場では何度もバブルという言葉が使われました。「インテル」や「マイクロソフト」「アップル」などの主力はもちろんですが、「ネットスケープ」のIPOから上場廃止までを書きましたし、バイオブームの筆頭である「アムジェン」なども懐かしいです。また、その後に縁ができるとは想像もできませんでしたが、「CNET Networks」のIPOの記事を書いたことも覚えています。最後に見ていたのは、たしか「eBay」がIPOする時期です。

「テクノロジーが世の中を変革する」と本気

 このように、テクノロジー企業を追っていたため、だんだんと「これからの世の中はテクノロジーが一気に大きく変えていく」と思うようになっていきました。もちろん、インターネットにもものすごく可能性を感じていました。ブラウザ? World Wide Web? HTML?ってな感じでいまひとつ理解にかけていましたが、これも後に縁ができるとは思いませんでしたが、「インターネットマガジン」や「アスキーインターネット」を毎月買って学んでいました。「人が殺せる」と言われたほど分厚い月刊誌でした。

 そして、これからメディアもインターネット(オンライン)の時代が来ると確信して、オンラインでメディアを運営している企業に対して、片っ端からメールで売り込みました。常時接続ではなくダイアルアップの時代ではありましたが、もっとも早くリアクションのあったメディアに入ろうと決めていました。なぜか自信を持っていました。高飛車ですね。金融業界紙の時代にもさんざん言われてきましたが、こうやって振り返ってみると、やはり生意気でしたねぇ。そして、最初に返事が来たのがインプレスでした。たしか合計6回ぐらい面接をした記憶があって大変だったような気がしますが、結構な時間をかけて見事、希望した「Internet Watch」で働くことになりました。いまでも署名(当時はメールアドレス)記事があると思いますが、時代的にはダイアルアップですので、記事ページの容量をできるだけ増やさないように、写真を使うときは超圧縮。と、いってもデジタルカメラの記録媒体はフロッピーディスクでしたので、撮るときも1枚撮るのがやっと。

オンラインメディアに対する熱

 詳細は省きますが、この念願のInternet Watchは1年しか続けられず、黒歴史の「Finance Watch」を経て、いくところがなくなったのですが、当時の「インターネットマガジン」の編集長に拾われて、月刊誌を編集することになりました。新聞、オンラインメディアは自分が追い求めてやってきましたが、雑誌の編集を仕事にすることはそれまで眼中になかったので、非常に悩んだことを覚えています。しかし、これも結果的に経験できたことは、いまの私の宝です。記事の本文はもちろんですが、企画、タイトル、中見出し、図版、表、レイアウトのこだわり方、デザイナーやカメラマン、ライターとのつきあい方などは、インターネットマガジンで培ったものだと思います。ここでの経験がなかったら、かなり中途半端なメディア人になっていたでしょう。もちろん、インターネットをはじめとする最新テクノロジーを追いかけられたのも財産です。

 とはいっても、巻末の「料金表」と「プロバイダーマップ」を核に一世風靡したインターネットマガジン(日本のインターネットの料金体系の基礎を創った雑誌とも呼ばれたほど)も、私が編集部にいる時代には「インターネット」自体が普及してきて、雑誌、つまりオフラインという形態とも相まって、廃れてきていたのは事実です。「オンラインビジネス」「SEO」「アフィリエイト」などの企画が当たってはいましたがなかなか苦しく、特集で「アダルトサイトに学べ」など変化球の企画もやってはみましたが流れは変わりませんでした。

 インターネットマガジンは楽しかったですし、つらかった(徹夜がつらい。3日完徹を多いときに月間3セットとか……)ですし、学びも多かったのですが、そもそもオンラインメディアをやりたかったわけですから、その想いがぶり返し、日に日に再燃していったのです。そんなとき、声をかけてくれたのがCNET Japanを運営開始してから1年数カ月経っていたシーネットネットワークスジャパンでした。ここから、私のCNET Japanでの物語が始まります。長くなったので、次回「おまえ編集長やりすぎ」に続きます。

 そいじゃあ、また。


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