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「何でもかんでも"○○ハラ"って、正直やりすぎでしょ」に返答する

こんにちは、ANRIの江原ニーナです。

先日、「新しいかたちのハラスメント」についてのあるツイートがバズっていたのがとても心に引っかかったので、今日はハラスメントについての話をしようと思います。(ちなみに前半部は、ハラスメントとは・何かをハラスメントと呼ぶことの意義は、といった概要の説明なので、そこは分かってるよ!って方は後半まで読み飛ばしてください。)

「これを考えた人は暇そう」「さすがにやりすぎ」「生きづらい世の中」「屁理屈」

先のツイートの背景としては、"新たなタイプのハラスメント"がテレビ番組で放送されたようで、例えばオンライン会議(Zoom)で部屋をイジることを"ズームハラスメント"略して「ズムハラ」、「いい年だから」「今の若者は」などと年齢(age)に関する発言をする"エイジハラスメント"略して「エイハラ」、さらに脈のない状態で告白することを"告白ハラスメント"略して「コクハラ」等の言葉がピックアップされたようでした。そして、それらの新しい「○○ハラ」に対し、"今後は大抵のことがハラスメントになりそうですね"、といった旨ツイートされており、同ツイートのリプライ欄には、「これを考えた人は暇そう」「さすがにやりすぎ」「生きづらい世の中」「屁理屈」といった言葉が並びます。

この手のツイートは、不定期的にバズを起こします。聞き慣れない言葉へのくすぐったさからか、それとも自分自身が新たに登場する"ハラスメント"の加害者になるのではという恐怖心からか、今回のツイートも多くの反応が寄せられていたようでした。

確かに、これらの言葉は比較的新しく、「セクハラ」や「アルハラ」等の言葉と比較するとまだ大衆への浸透度は低いかもしれませんが(実際私自身聞いたことがなかった言葉もありました)、とはいえこういった単語の登場に対し、アレルギー反応のように「やりすぎ」「屁理屈」と反応し、あろうことかエンタメ化するような対応は、想像力に欠けるなぁと感じます。誰かが自分の経験した嫌なことについて声を上げたときに、それをあざ笑ったり、そんなものはないと無効化したり、口を塞いだりするようなことは、決してあってはいけないと強く思うのです。(これは、後述する私自身のセクハラを受けた経験にも関係します。また、セクハラについてツイートしたときに、勇気を振り絞って声を上げたのに先のような反応をされ、二重に傷ついた経験がある当事者でもあります。)

目まぐるしく変化が起こり、新たに声が上がり、日々新たな価値観が登場する今日の社会においては、これからも様々な「ハラスメント」が登場することが予想されます。自分がまったく問題だと思っていなかったことが、「ハラスメント」だとラベリングされる経験は決して心地良いものではないでしょう。しかしそんな事態もありえることも踏まえ、今回はこれからのハラスメントと、我々はそれらにどう向き合うべきか考えてみます。

リモート下でも存在するハラスメント

会社員を対象にインターネットで実施された調査によると、在宅勤務中に「ハラスメントがある」と回答した女性は2割にのぼることがわかっています(実施:2020年12月。女性410人、男性308人の合計718人から回答を得た)。5人に1人の女性がリモート下でもハラスメントにあった経験があると考えると、かなりインパクトのある数字です。

内容としては、不快なコミュニケーションやチャット上での嫌がらせ、出社の強要などが挙げられています。新型コロナウイルス感染防止対策の観点から、在宅勤務の導入など「新たな生活様式」という言葉が誕生して久しいですが、新たな勤務環境下では、新たなハラスメントが登場することは想像に難くないでしょう。同記事では「職場の人の目につかない形で広くハラスメントが起きている可能性がある。政府による対策も急務だ。」と指摘されていますが、ハラスメントが引き起こす影響(法的責任、社員のモチベーションの低下等による離職率の上昇、企業イメージの悪化等)を踏まえると、政府のみならず部署や会社ごとの新たなガイドラインや相談できる窓口の設定、そして相談しやすい風土の醸成などが求められていくでしょう。(最近、「制度と風土はセット」という言葉を教えてもらったのですが、まさしくだな〜と思います。)

わたしたちとハラスメント

そもそもハラスメントとは、いろいろな場面・状況下での嫌がらせや迷惑行為、相手を悩ませる事柄を指します。要は、"相手が嫌がること"です。

ハラスメントは人と人との関係の中で起こることで、相手が誰であってもアウトなもの(例:セクハラ)もあれば、関係値や権力関係によってはハラスメントになるものもあり、一枚岩ではありません。ゆえに、"これをしなければ大丈夫!"という網羅版べからず集もありません「コミュニケーションの結果は受け手が決める」とも言われますが、まさに場面や文脈、関係性といった変数により、ハラスメントは生まれるといえます。

しかし冒頭で述べたように、新たなハラスメントが登場した際、「やりすぎ」という反応が起こったり、それを「過剰反応している」としておもしろがったりする風潮については、どう考えたら良いのでしょうか。

ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた――あなたがあなたらしくいられるための29問』の第四章「目指しているのは逆差別?」では、「男だって大変なのに、女がすぐハラスメントと騒ぐのって逆差別では?」という問いに切り込んでいます。

(何度でもお伝えしたいのですが、この本がジェンダーを学ぶ上ではとにかく本当におすすめなので是非まだ読んだことのない方は手にとってみてください!📕)

同書では、「ハラスメントだ」と声をあげることが、不快な状態を「問題」として位置づけ、解決を訴えることが可能にしたと説明しています。

「セクハラ」という考えが広まり、これが権力関係を利用した性差別であるという主張がなされるまでは、こうした問題は個人の問題とされたり、場合によっては被害者の責任とされたりしてきました。そうでなければ「コミュニケーション」のひとつとみなされ、「問題」として扱われることはなかったのです。このように、ある事象や行為に名前が与えられ、語ることができるようになってはじめて、その問題性を明確にとらえられるようになったり、解決に向けた主張ができるようになったりするのです。(『ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた――あなたがあなたらしくいられるための29問』の第四章「目指しているのは逆差別?」より抜粋)

なにを隠そう私自身も、大学1年生のときにはじめて申し込んだカフェのアルバイトで店長からセクハラを受けてバイトを辞めた経験があります。もともと店長(当時)に対しては、「距離の詰め方が心地悪いな...」とか、「必要以上にLINEしてくるのちょっと嫌だな...」とか思っていたのですが、"面倒なやつだと思われたくないし..."と我慢していました。すると段々エスカレートして、皆で話しているところで"お前は顔採用だ"と言われたり、ついにはレジで接客中に後ろを通るふりをして身体を触られたりしたことで、私の大切な尊厳が大きく傷ついたように感じ、「これは多分ハラスメントだ。セクハラだ。」と気づいたのです。

もし「セクハラ」という言葉が存在しなかったら、セクハラが社会で問題視されていなかったら、私の経験は「個人間の問題」に還元されていたかもしれないし、ゆえに私も周囲も問題の枠組みを捉えきれず、声を上げることもできず、アルバイトを辞めることもできず、ただ我慢するしかなかったかもしれません。セクハラという言葉が、様々な批判や反応を受けながらもたゆまぬ努力により浸透し、それが権力構造を使った問題であることが社会で共有されていたおかげで、私は声を上げ、その場から離れることができたのです。

「○○ハラと声を上げる人はめんどくさい」を考える

自分が過去に経験した嫌なことを、「ハラスメント」として声を上げる人に対して、「いちいちハラスメントというのは大げさだ」とか、「面倒くさい人だ」とか、「自分はそんなハラスメントにあったことはない(=そんなものはない)」といった反応が寄せられるのは珍しいことではありません。私も言われたことがありますし、様々な「○○ハラ」に対して昔のわたしなら「大げさだなぁ」と思ってしまっていたものもあると思います。

そもそも、誰かが何かを「ハラスメントだ」と声を上げたとき、反発心や警戒心を抱く人の多くは、それを"被害者"側として経験したことがないため、リアリティに欠けているケースが多いのではないかと思います。経験したことがなければその苦悩を理解するのは難しいのは、当然のことです。でも、経験したことがないのになぜそれが「大げさ」と言えるのだろう、と思わずにはいられないのです。当事者にとっては、思い出すだけで気持ちが沈んだり、自分の尊厳が奪われるように感じたり、あるいはもう考えたくもないほどにトラウマ体験になっている可能性もあるでしょう。

また、ハラスメント的行為をされたことがあっても、ハラスメントに遭うことが"弱さ"や"不完全さ"と無意識に結びつけてしまい認められなかったり(この点は、男性がハラスメントについて声を上げにくい状況とも密接に関わっています)、それをハラスメントと認めれば過去にそれを気にしないように過ごしてきた自分との距離感がつかめなかったりして「○○ハラ」を大げさだとか面倒くさい人のやることだと思ってしまう可能性も大いにあります。

また、さらに難しいのがハラスメントをしている側が、それを「善意でやっている」、「場を盛り上げるためにやっている」、「いじられキャラという"オイシイ"立場をあげている」等と思っているケースかなと思います。良かれと思ってやっていた(=嫌がらせのつもりではなかった)行為がハラスメント認定されると、居心地悪いのも当然。「○○ハラ」という言葉を前にするとなんだか構えてしまい、得体のしれない恐怖心を覚えるかもしれないけれど、根本はシンプルで相手が嫌がることはしないという話だと思います。「○○ハラ」だと言われたら、相手に嫌な思いをさせてしまったことを認識し、同じ過ちは繰り返さないこと、そしてそれがなぜ問題視されたかを考え、一方で権力構造は容易に変えられないとしたらその構造では何がハラスメントになりうるのかを考える。この繰り返しだと思います。

スタートアップとハラスメントのこれから

このnoteの冒頭で、目まぐるしく変化が起こり、価値観が日進月歩でアップデートされる今の社会においては、これからも様々な「ハラスメント」が登場するだろう、と書きました。これはビジネス/スタートアップ業界でも同じです。

私は、スタートアップ業界のジェンダーギャップに強い関心があり、とくに女性のスタートアップ起業家の支援に力を入れています。一方で、女性の起業家を支援して数が増えたとしても、(現状としては男社会である)スタートアップ業界全体の価値観がアップデートされていないと、無意識のハラスメントが続出するんじゃないかと、少し懸念しています。

男性起業家には聞かないであろう質問をしてしまう(ライフプランに関するもの等)、フェアに接しようとして距離感を間違えてしまう(近すぎるor遠すぎる)、つい従来のノリでふざけ倒してしまう(所謂"男子校のノリ")などは、関係性や文脈、そしてそのコミュニティ内での権力関係によってはハラスメントとして(ときに批判やバックラッシュを受けながら)定義づけられていくでしょう。

(これが杞憂だと良いのですが、)これからジェンダーギャップの是正に取り組む上では、女性を始めとするマイノリティ側を支援するだけでは当然事足りず、今の男性社会的なコミュニティで醸成されてきたノリや価値観や不文律に問題を提起していく必要があると考えています。しかしここが難しい。差別したいと思っている人や、相手に嫌な思いをさせようと思っている人はおそらくごく少数で、多くの人が"無意識に"、"今まで通りに"過ごす中で生じる偏見や、そこから生まれうるハラスメントに、いかに気づきを促しアプローチするべきか、これは非常に悩ましいトピックです。現状の解としては、月並みな表現ですが「相手へのリスペクトを常に持つこと」「相手の立場になって考えること」に行き着いてしまっているのですが、よりわかりやすく効果的なアナロジーやマインドセットをもし思いついたら、適宜シェアしていこうと思っています。

さいごに

かなり長くなってしまいましたが最後に、今読んでいる本に出てくるフレーズをいくつか紹介して終わろうと思います。アメリカ生まれの作家であり、歴史家であり、アクティビストであるレベッカ・ソルニット氏の最新作『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い(原題:The Mother of All Questions)』は、"沈黙"をテーマにしたエッセーです。沈黙を切り口にこれほど豊かに話が展開できるソルニット氏には、尊敬と憧れの念がやみません。

同書では、これまで見過ごされてきた声、なかったことにされてきた声、あるいは問題だと認識することすらできず上げられなかった声が、ソーシャルメディア等を通じ、「聞かれて」いくプロセスについて、以下のように表現している。

"話す権利を持ち、信じてもらうこと、話を聞いてもらうことが一種の富だとすれば、いまその富が分配されているのだ。長いこと発言力と信頼性を持ってきたエリートがいる一方で、声を持たない下層階級がいた。富が再分配されるにつれ、女性や子どもが恐れずに語り、人々が彼女たちを信じ、その声にはなにがしかの重みがあり、その真実が力ある男性の支配を終わらせるかもしれないことに対して、エリートたちはとめどなく怒りや不審を噴出させた。聞き届けられた声は、権力関係を転覆させる。"
(レベッカ・ソルニット著『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』1. 沈黙は破られる より抜粋)

沈黙に終わりを告げ、話す権利を持ち声を上げることを、「富」になぞらえる表現力の豊かさたるや!

声をあげることは時に、既存の権力構造に一石を投じ、変化をもたらす大きな足がかりとなります。ソーシャルメディアや、その他さまざまなメディアの登場により、この「富」が今(やっと!)分配され始めているのなら、その流れを止める理由はないでしょう。富を独占したい、富を持たなかった人に渡すなんて、という考えがいかに身勝手かは、わざわざ言うまでもありません。

ソルニット氏はさらに以下のように続けます。

誰の言葉に価値を見出すべきなのかを再定義することで、私たちは社会とその価値を再定義することができる。

なんだかとてもタイムリーな発言にも見えてきますが、今日はこんなところで。

ワーイありがとうございます!