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キッシュが冷たくなるまえに 第74話 ソルティー・ドッグの塩加減


 窓の外の歓楽街は、夜のとばりが降り始めて、黄昏時のあかね色から徐々に暗さを増している。ヤマハの古いスピーカーからは、グラスパーのHIPHOPが入った気だるいJAZZが流れていて、「It’s gonna be alright. It’s gonna be O,K」とフューチャリングされた女性ボーカルが繰り返し歌っている。きっと大丈夫、多分大丈夫。呪文のような歌詞が誰もいないバーに響いている。吾郎君もその歌詞をなぞるように鼻歌で歌っていて、酔っている僕は、吾郎君の鼻歌を耳をすまして聞いている。
 
 「二杯目はどう?もうちょっと度数が弱いのにする?」
 吾郎君は僕が酔い始めたのを気づいているらしく、気遣いをしながら二杯目を聞いてきた。
 「そうだね、何か弱めで。何かお勧めはある?」
 もしこれが見知らぬバーテンダーだったら、虚勢を張って、強い酒を連続して注文しただろうが、素直に吾郎君の言うことに従った。
 「ベースのリキュールは何がいい?さっきはジンだったから、他の物に変えようか?」
 「そうだね、ウオッカベースで、柑橘類でさわやかなものがいいな」
 「わかったよ、ウオッカで柑橘類ね」

 吾郎君は次のカクテルの準備にかかってしまい、手持無沙汰の僕はバックバーを眺める。ミカエルのバックバーもそこそこの種類の酒が置いてあるが、さすがバーはカフェと違いもっと種類が豊富で、スコッチのシングルモルトでも、シングルカスクと呼ばれる樽からそのままビン詰めされたアルコール度数が60度近いものや、最近おなじみのラベルに漢字3文字書かれたジャパニーズウイスキーが増えていて、ウイスキーブームが今だに続いているのを実感する。
 「吾郎君、お父さんが亡くなって何年経つの?」
 「今年の4月で亡くなって3年だから、だから3年半くらいかな」
 「アルバイトとか従業員とか雇わないの?」
 「う~ん、特に考えてないよ。席数を減らせばワンオペで出来るし、フード類ももう止めちゃって、お酒出すだけだからね、そんなに負担はないんだ」
 吾郎君はそう言うと、グラスの縁に半分に切ったレモンの果実をこすりつけて、塩を小皿にならすと、グラスをひっくり返して縁の周りに塩をつけている。
 「もしも翔太君が手伝ってくれるならウェルカムだけどね」
 吾郎君ははにかんだ笑顔を見せると、グラスに氷を入れて、ウオッカとグレープジュースを入れてバーススプーンでかき混ぜて、出来上がったばかりのカクテルを僕の前に置いた。

 底が厚めのオールドファッションド・グラスにグレープフルーツジュースの若干オレンジがかったイエローのカクテルが入っていて、グラスの縁に塩がのっている。グラスの中には氷が入っているので、冷たさがある程度の時間保たれて、ゆっくり楽しめる通称ロングタイプのカクテルだ。
 「お待たせ、ソルティー・ドッグです。ちょっと弱めにしてあるから心配しないでゆっくり楽しんでね」
 吾郎君はそう言うが、初めて飲むカクテルを目の前にして、どうもグラスの縁の塩が気になって、どういう風に飲めばいいのか正直悩んでしまう。
「これがソルティードッグっていうの?名前はよく聞くけど注文したことはないんだよね・・・」
 「あ、そうなの?飲む場所をちょっとづつずらして、この縁の塩と一緒に飲むんだけど、無理して全部の塩を飲まなくていいからね、適度に塩を口に含めながら飲んでね。塩が嫌なら無視していいよ」
 吾郎君は、初めてのカクテルを目の前にして、若干ナーバス気味になってる僕にやさしく丁寧に教えてくれた。
 「バーの客でさ、この塩を全部綺麗に飲まないと通じゃないとか、指で塩をすくって舐めるのはマナー違反とか、かたっ苦しい戯言をいう人がいるんだけど、そんなの気にしないでね。そんな形から入んなくてもいいからさ」
 僕はその一言でほっとして、一口ソルティー・ドッグを一口口に含んだ。ほのかな塩っ気をグレープフルーツの甘さと酸味が洗い流していくと、甘さが増して美味しい。グレープフルーツジュースは今日絞ったばかりのものだからフレッシュで美味しいのは当たり前なのだが、ウオッカはジンのように香りと味に強烈な個性があるわけじゃないので、グレープフルーツの果実味をストレートに味わうことができて、ほんのちょっとの塩分が果実の旨味を凝縮する。シンプルだけどよくできたカクテルだなと思わず感心してしまった。

 「さっき翔太君が、飲食業界に鼻につくって言ってたじゃない?多分翔太君が鼻につくって言ってたのは、視野がすっごい狭いくせに、その狭い視野の中で形を作って型にはめたがる奴らのことを鼻につくって言ってたんじゃないのかな?」

 僕が今まで頑張っても言語化できなかったことを、吾郎君はいとも簡単に、図星に言語化してしまった。薄暗くなったバーのカウンターの中で、吾郎君の背中から後光が差している、そんな気がした。

 
 
 
 

 
  

 

 


 


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