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『ラヴ・ストリート』【19】

つり橋効果と初恋
霧島エリは、ベッドに座り、光輝からの返信メールを読んだ。光輝は会うと照れて、あまり気のきいたことを言わないが、メールだととても素直に気持ちを伝えてくる。言葉に詩的センスを感じることもある。実はロマンチストなのだと思う。
寂しいけど仕方ないね。ちなみに今夜はたくさん星が見えるよ。
 泣きそうになった。自分と会えなくて寂しいと言ってくれる人は、生涯、光輝ただ一人だと思った。光輝はいつも優しい。それが社交辞令でも構わない。
 エリは窓のカーテンを少し開けて夜空を見上げた。目が慣れてくると本当にたくさんの星が見えた。光輝と離れていても、こうして同じ星を見ている。
 光輝に本当のことは言えなかった。追及の手がそこまで伸びてきていることを。
 今日学校へ行くと、クラスメートがにやにやしながら近づいてきた。
「昨日の放課後、雑誌のライターが取材してたの知ってる?」
 エリは啓太郎のことだと分かったがとぼけた。
「そうなの?」
「霧島さんの取材だよ」
「えっ?」
「フゾクの彼氏がいるからって」
 エリは驚きうろたえた。
「どうして、その人、そんなことを知っているの?」
「分からない。誰かから聞いたんじゃないかな」
「彼の名前は言ってた?」
「名前までは知らないみたいだったけど」
「そう」
 光輝の名前を、啓太郎に知られていないことが、せめてもの救いだった。
 それにしても、こんなに早く、啓太郎が、エリと光輝の関係をつかむとは思わなかった。いや、それ以前に、エリが公園にいた女子高生だとばれることはないだろうと高を括っていた。別人になったつもりだった。このままでは、光輝の存在が知られるのは時間の問題のように思われた。とりあえず、しばらく光輝に会うのをよそう。光輝と事件の関係が知られずに済むなら、このまま一生会えなくてもいい。別れてもいい。光輝を守らなくては。エリは携帯電話を枕元に置いた。
 エリは不安で眠れなかった。最後の目撃者がエリと光輝だと啓太郎に知られたら、何が起きるのだろう。啓太郎は最後の目撃者イコール犯人という図式を導き出すのだろうか。警察や探偵でもあるまいし。それなら、最後の目撃者であることを隠そうとしなければいい。隠そうとすればかえってぼろが出る。余計な詮索にあう。堂々としていればいい。目撃者が翌日に偶然、お金を拾うことも有り得る。
 エリは光輝と出会ったシーンを思い起こしていた。警察に怪しまれるような不自然な言動はあっただろうか。決定的な失敗をしただろうか。
 一年前、エリは、こぐま公園のベンチに座っていた。家に着く前に脱力して、そんなふうにベンチでぼんやりすることが度々あった。家族への当てつけに、本気で自殺してしまおうかと考えたりした。小さい頃から、家族の八つ当たりの道具のようだった。よく罵声を浴びせられた。時には殴られた。両親だけではない。ヒステリーを起こした姉からも殴られた。
 言葉や暴力で人を傷つける側になるのは簡単だ。そして、そっち側の人間は、すぐに傷つけたことなんか忘れてしまう。過去のことを蒸し返すと、被害者意識が強いと嘲笑する。傷つけられた側は何とか忘れようと努力する。時間が忘れさせてくれると、無理矢理、自分に言い聞かせる。それなのに、その努力をそっち側の人間はまた嘲笑する。
 一方で、そっち側の人間のために死ぬなんて悔しい気もした。見返してやりたいという気持ちもどこかにあった。結局は、心の底では救いの手を待っていた。こんなにつらいのだから、いつか神様が同情して幸せにしてくれる。そんな思いにすがって生きていた。
 きっと、神様が同情してくれる。
 エリが、すがるような気持ちで空を見上げた時、黒ずくめの男、つまり光輝が自転車を飛ばして公園へ入ってきた。草の上に自転車を倒して置くと、パイプ部分を覆っていた黒のビニールテープを一気に剥がした。そして、かごに入っていたバッグを手にトイレへ駆け込んだ。
 数分後、フゾクの制服を着た光輝が、通学バッグと黒い大きなスポーツバッグを手にして出てきた。そして、ふーっと深く息をついた。シルバーに戻った自転車を起こした瞬間、ベンチに座っているエリと目が合った。光輝は凍りついていた。
 エリも呆然としていた。黒の上下、ニット帽、サングラスをした見るからに怪しい男が、一瞬にしてエリート男子校の生徒に変身して出てきたのだから。
 遠くにパトカーのサイレンが聞こえた。この時点で、エリは犯罪と光輝を結びつけて考えられなかった。
 光輝は自転車を押しながら、エリの方へ近づいてきた。
「その制服、セイジョだ」
 エリは驚き、顔を真っ赤にして頷いた。光輝の自信に満ちた笑顔は、エリにものを言わせなかった。そのきれいな瞳に吸い込まれた。
「僕はフゾク」
 やはり、エリは真っ赤になって頷いた。
 光輝の憂いのある表情が、完全にその場を支配していた。
「やっぱり、制服って説得力あるよね。歩く身分証明」
 光輝は自転車を止めながらエリに聞いた。「隣に座っていい?」
「うん」 
 エリは、ようやく短く言葉を発し、慌ててベンチの左側にずれた。
 光輝はスポーツバッグを足下に置くと、エリの右隣にどさっと座った。
「見てた?」
「えっ?」
「僕の行動の一部始終」
「・・・うん」
「そうかあ」
 光輝は空を見上げた。エリは光輝を見ることができず、下を向いたまま、横目でちらちらと様子をうかがっていた。
 パトカーが公園に近づいてくるのが分かった。
 光輝はいきなりエリの右手を握った。
「僕たちは、今から恋人同士」 
「えっ?」
「僕たちは、ずっと二人でここにいた」
 エリは驚いて手を引くことができなかった。手を繋いでいる・・・・・・。
 光輝の温かい手は、エリの冷たくなった指先を包み込んだ。手を繋いでベンチに座っている姿は、どこから見ても恋人同士だった。
「犯人は向こうへ逃げた」
 光輝の右手が小さく東の方向を指差した。
「犯人?」
 エリは次第に手が震え出した。それは光輝にも伝わった。
 パトカーが公園の入り口に止まった。助手席から警官が降りて、こちらへ小走りで近づいてきた。
「落ち着いて。この制服を見れば、誰も疑ったりしない」
 光輝はエリの手をぎゅっと強く握った。「自信を持って」
 エリは繋いだ光輝の手から、不思議なエネルギーが伝わってくるのを感じた。
 警官は繋いでいる手をちらっと見てから、どちらかというと光輝に向かって言った。
「ちょっと聞きたいんだけど」
「はい」
 光輝は冷静に返事をした。
「自転車で走り去る男を見なかったかな」
 光輝はエリの顔を見た。
 警官はそれにつられて、今度はエリに向かって聞いた。
「黒のウインドブレーカーの上下に、ニット帽。サングラスをしていたんだけど」
 光輝の左手は、さらにエリの右手を強く握った。
 エリの震える左手が道を指差した。
「そんな感じの人が、向こうに走っていったような気がします」
「本当かい!」
「は、はい」
 エリは思わずどもってしまった。
 光輝はエリの証言を受けて自信たっぷりに答えた。
「黒いママチャリでした」
 警官は目撃情報を得た嬉しさに口角を上げた。
「そうなんだよ。黒い自転車。間違いないな」
 光輝は白々しく聞いた。
「何かあったんですか?」
「そこのパチンコ店で強盗事件があったんだ」
「強盗ですか!」
 光輝はわざとらしく驚いてみせた。
「犯人は拳銃を所持している。君たちも早く家へ帰りなさい」
「はい。分かりました」
 光輝は優等生的に返事をした。
「じゃあ、急ぐから。ありがとう」
 警官は走って戻っていった。パトカーは引き続きサイレンを鳴らして、エリが指差した方向へ走っていった。
 エリは呆然として下を向いていた。あまりの衝撃に頭が真っ白になっていた。
 光輝はエリと手を繋いだまま、遠ざかるサイレンを聞いていた。
「君の家、この近く?」
「うん」
「このスポーツバッグ、今日、預かってくれない?」
「えっ?」
「このまま持ち運ぶの、ヤバそうだし」
 光輝は繋いでいた手をぱっと放して立ち上がった。そして、通学バッグだけを手に取ると肩に掛け自転車にまたがった。素早かった。
「明日の放課後。君の学校へ行くから。よろしく」
 エリは訳も分からずうろたえた。
「ちょっと待って」
 エリが視線を下に向けると、光輝の座っていた下にスポーツバッグが置かれたままになっていた。エリが慌てて顔を上げた瞬間、光輝が携帯電話をエリに向けた。
「えっ?」
 その瞬間、光輝はエリの写真を撮った。
「君の顔、忘れたら困るから。じゃあ、明日」
 光輝は背中で手を振りながら自転車を飛ばして行ってしまった。
 エリはベンチから動けなかった。どきどきしていた。そのどきどきは犯罪に巻き込まれた驚きと恐怖だった。警察に対して虚偽の証言をしてしまった罪悪感だった。そして、光輝への恋心だった。女の子が頭の中で描く憧憬の恋ではなく、少女が皮膚から感じとる本物の恋だった。右手には、まだ、光輝の大きくて温かい手の感触が残っている。
 「つり橋効果」という心理学の理論はあまりに有名である。つり橋上で出会った男女は、普通の橋の時と比べて恋に落ちる確率が高いというものだ。それは不安定に揺れるつり橋の怖さからくるどきどきを、恋する気持ちのどきどきと錯覚するというのである。
 エリは犯人の目撃、警察からの聴取と極度の心理的緊張、まさにつり橋効果の状態にあった。どきどきの連続だった。しかも相手は光輝だ。恋に落ちるはずである。強盗犯であるというマイナス要素をどこかに吹き飛ばしてしまった。
 エリは預かったスポーツバッグを両手に抱え、呆然としたまま家へ帰った。上空をヘリコプターが飛んでいた。まるで追跡されているようだった。どきどきは収まらない。家に着くと、すぐに二階の部屋へと上がりドアの鍵を閉めた。そして、ベッド脇にある小型テレビのスイッチを入れた。スポーツバッグを抱えたまま、その場にへたり込んだ。夢をみているようだった。
 テレビの全国ニュースがローカルニュースに切り替わった。強盗事件のことをトップで伝えている。近くにあるパチンコ店が映っている。被害額は一千万円。拳銃。手錠。犯人逃走中。
 エリは、スポーツバッグを開けてみた。革の手袋、ポケットに拳銃、手錠、布テープが入ったウインドブレーカーの上下、スニーカー、ニット帽、サングラスには自転車から剥がした黒のビニールテープが貼りついている。そして、黒いバッグが底にあった。開けてみると、ゴムで束ねてある札がぎっしりと入っていた。間違いない。彼は犯人だ。エリは慌てて全てをスポーツバッグに戻した。
 今、これを持って警察に駆け込めば全てが解決する。駆け込むべきなのだ。それが善良な市民の義務だ。でも、彼の名前を知らない。名前も連絡先も言わなかったのは、きっと通報を恐れたからだ。エリは彼に思いを馳せた。遊ぶ金欲しさの犯行というような単純な動機ではないような気がした。あまりに不似合いだと思った。それも、恋をしてしまったが故のひいき目なのか。それから葛藤が始まった。
 今、警察に行かないと機を逃してしまう。でも、彼が逮捕されてしまう。もう二度と会えない。いや、犯罪者となんか会わない方がいい。でも、自分が黙っていれば捕まらないのかもしれない。いや、捕まった方が彼のためだ。そもそも、何で自分が関わっているのか。関係ない。余計なことに巻き込まれたくない。でも、警察に嘘を言ってしまった・・・そうだ。犯人は向こうへ逃げたと、咄嗟に嘘を言ってしまったのだ。
 彼と私は、すでに共犯者だ!
 エリは引き返せないことに気がついた。明日、彼に会ったらどうしよう。素直にお金を渡して関わりを絶つのか。それとも自首を勧めるのか。どうしよう・・・。 
 エリは、一年前にうろたえていた自分を懐かしく、今は冷静に見ることができた。弱虫で、どこか冷めていて、本当はひとりぼっちで、いつ死んでもいいと思っていた厭世主義者。今の自分は随分と強くなった。光輝を守ってみせる。
 たくさんの星がエリを見ているようだった。きっと、光輝のことも見てくれている。エリは星に願いをかけた。そして、光輝にもう一度メールを送信した。
本当に星がたくさん。星全部が、私たちの味方のような気がする。
 そして、三つのメールを全て削除した。携帯電話には光輝からのメールが一つも保存されていなかった。寂しかったがそうするしかなかった。しかし、頭の中には一年分のメールが有名な詩のように記憶されていた。

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