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『ラヴ・ストリート』【16】

プシュケを抱くエロス
夏目啓太郎は、眠い目をこすりながら朝一でフゾクへ行った。下校時間にゆっくりと取材しようかとも思ったが、午前十時に病院へ行かなければならない。担当医から、美代子の病状と今後の治療について説明がある。覚悟はしているつもりだが、内容次第では、しばらく事件の取材などをしている場合ではなくなる。その前にクライドの存在だけは確認しておきたい。啓太郎はフゾクと近くにある地下鉄の駅の間くらいに立ち、さりげなく登校してくる生徒たちに声を掛けた。さすがに男子校はむさ苦しい。
「雑誌の記者なんだけど、フゾクでいちばんのイケメンを探しているんだ。できれば三年生がいいんだけど」
 唐突な聞き方だったが簡潔だった。そして、嘘もなかった。
「それなら南城さんだと思います」
「僕も南城さんです」
 敬語もスムーズな真面目そうな生徒たちだった。
「フルネームは?」
「南城光輝さんです」
「どういう字かな」
「南の城に光り輝く。名前からして、すごいですよね」
「本当にすごいね」
 啓太郎は真面目少年たちと同じレベルで笑った。
「でも、金森冬馬さんも、モテるって聞いたことがあります」
「お金の金に、森。冬に馬」
「ありがとう」
 さすがフゾク。頭の回転が早い。言わなくても先回りしてフルネームと漢字を教えてくれる。啓太郎は手帳に南城光輝と金森冬馬とメモをした。なるほど、近頃の若者は皆、芸名みたいにかっこいい名前だ。
 啓太郎は引き続き話しやすそうな感じの生徒を選び、同じ質問を繰り返した。やはり皆、同じ名前を口にした。
「南城かな」
「南城光輝!」
 啓太郎はとうとう待ちきれず直球を投げた。
「俳優の杉澤洸平に似てる?」
「うーん。髪型は似てるかも」
 警察官の眼力もあまり当てにならない。
「何、何?」
 後方から駆け寄り割って入ってきたのは、名前の出ていた金森だった。
「おお。金森。雑誌にフゾク一のイケメンが載るんだって」
 誰もそんなことを言っていない。わずか数分の間に話が飛躍して、そういうことになっている。事実は時として、このように歪曲していくのだと、啓太郎は苦笑した。
 金森がそれを聞いて豪語した。
「じゃあ、俺じゃん」
「でも、南城ってことになってるみたいだよ」
「何でだよお」
 囲んでいた生徒たちが一斉に笑った。金森は人気者らしい。
「あっ、記者さん。あいつが南城」
 金森が指をさした。その方向には十数人の生徒が束になって歩いていた。しかし、一目瞭然。光輝は明らかに周りとは違う雰囲気を醸し出していた。どうりで警察官の印象に残るはずだ。オーラというものを再認識した感じがする。すらりとした長い手足。育ちのよさそうな端麗な顔立ち。啓太郎は直感でクライドに間違いないと思った。
 光輝はゆっくりと近づいてきた。金森たちを見つけると、ようと手を挙げた。
「南城、雑誌に載るらしいよ」と、生徒の一人から声が飛んだ。
「えっ?」
「フゾク一のイケメンだってよ」
 光輝はそれを聞いて一瞬立ち止まり、啓太郎をちらっと見た。
 啓太郎はどきっとした。瞳のきれいな少年だった。とても犯罪とは結びつかない。俳優どころではない。生身の人間というより芸術美の領域に達している。誰もが目を奪われ、心臓を高鳴らせる。例えるなら、ギリシャ神話、太陽の神アポロンか? いや、まだ完成されていないこの純真さは少し違う。どこかで見たことがある。刹那、ブーグローの美しい絵画が頭に浮かんだ。そう、翼を持つ愛の神エロスだ。愛するプシュケを抱き空を飛ぶエロス。それはあまりに美しくて甘美で、魂だけを残して全身が溶けてしまいそうな火照りを感じさせる。恍惚とめまいを与える。この光輝という少年は存在が罪なのだ。あらゆる人々を巻き込み狂わせてしまいそうな得体の知れない力を持っている。
「僕はいいよ」と、光輝はさらりと言い、通り過ぎようとした。
 啓太郎は光輝を引き留めようと話しかけた。
「注目されたら、彼女が焼きもちをやくのかな」
「ですね」
 光輝は横顔であっさり肯定すると学校の門を入っていった。
「相変わらず素っ気ないなあ。やっぱ、俺ですよ」
 金森がにやにやして周りの生徒に同意を求めた。
 啓太郎は光輝の引き留めに失敗し、仕方なく金森に尋ねた。
「南城くんは、彼女がいるからNGみたいだね」
「本人は内緒にしてますけどね」
「そうなんだ」
「でも、俺、カノジョと手を繋いで歩いてるのを見たんですよ」
 金森の暴露に周りの生徒たちが盛り上がった。
「畜生。羨ましいなあ」
「南城って、秘密主義者だもんな」
「しかも、セイジョの子だぜ」と金森がさらに周りを煽った。
「お嬢様かよ」と冷やかしが飛ぶ。
 金森は口角で笑った。
「遠回しに探りを入れたけど、あいつ、ごまかすんだよ」
「俺たちにも、その友達を紹介しろってなあ」
 啓太郎は出来過ぎだと思った。ここでも、いとも簡単に情報が手に入った。彼女がセイジョの子。こんなにスムーズに事が運んでいいものかと不思議なくらいだった。しかも、友人たちの短い会話だけで、光輝という人間をある程度把握できた。
 予備チャイムがなった。「やべえ」という声と共に、生徒たちが皆走り出した。
 金森が手を振っている。
「記者さん。俺のことをよろしくーっ」 
「ああ。今度改めて取材に来るよ。じゃあ」
 啓太郎は、ぱたんと手帳を閉じた。そして、乗ってきた軽自動車のドアを開けようとしてふと立ち止まり、通りの先のT字路を見た。
 そうだ。右に曲がり、真っ直ぐに行けば、国道十二号線だ。その先を少し行くとパチンコ店がある。こぐま公園がある。その近くはエリの家だ。学校帰りに制服のまま、エリと会うことは十分に考えられる。 
 啓太郎は車に乗るとT字路の角にあるマクドナルドの駐車場に入った。病院へ行くにはまだ時間がある。軽く朝食を食べておこうと思った。店内に入るとホットケーキとコーヒーを注文した。女性店員の笑顔がぼんやりとして見えた。店内の心地よい暖かさが、寒さできゅっと引きしまっていた脳をだらけさせた。立ったまま眠れそうだった。トレーを受け取ると窓際の席に座った。そして、もくもくと食べながら今後のことを考えた。
 この先どうしようか。エリが一千万円の拾得者であることは動かぬ事実だ。では、エリが目撃証言をした高校生カップルの女性なのか。それを直接会って確認するしかない。イエスなら、相手が光輝かどうかを聞く。さらにイエスなら、二人に犯人像を尋ねる。犯人の手がかりが見つかるかもしれない。これが当初描いていた取材プロセスだった。しかし、エリにノーと言われたら、ふりだしに戻るのか? いや、違う。エリがノーと言ったら・・・エリがショートカットにした理由を聞く・・・。
 強盗犯人は忽然と消えた。最後にその犯人を目撃した者が、後日、盗まれた現金を拾得し警察に届ける。そんな偶然があり得るのだろうか。最悪のシナリオが頭をかすめる。
 ボニーとクライド。
 どうして、直感的に二人を犯人だと感じたのだろう。制服か? 将来を嘱望されたエリート高校生のシンボルだ。犯罪とはいちばん無縁の感じがするのに、キーワードとして何度も登場する。嫌というほど学校名が出てくる。偶然とは思えない。しかし、何一つ証拠はないし、直接、尋問する権利もない。それに、二人をむやみに傷つけたくない。あるのは真実だけだ。強盗という犯罪が起こったという事実。しかし、金に執着する凶悪犯、もしくは、ずるがしこい愉快犯を想定して始めた取材故に、啓太郎は気が進まなくなってきていた。
 プシュケとエロス。
 そうであって欲しい。焦って結論を出すことはない。そう言い聞かせているうちに、眠気がぐっと押し寄せてきた。夜中の二時にバイトが終わり、帰ってからも、あれこれと考えて三時間しか眠っていなかった。テーブルに肘をつくと、一瞬、現実から離れた。
 母の美代子がこちらを見て微笑んでいる。頬がふっくらとしていて赤みを帯びいてる。顔色もいい。何だ。元気になったんだ。安心した。
 そこで啓太郎は夢から現実に引き戻された。それは冷や汗をかいた直後の感覚に似ていた。一瞬、ふわっと体が浮き、どさっと現実に投げ出され、刹那にひやりとする。心臓が縮み呼吸が速くなる。これから病院へ行くこと、つまり美代子の病状を聞くことが、精神的負担になっていることが夢から分かる。事件の取材に没頭し、そちらに気を向けようとしているにもかかわらず、心は美代子の病気に向いてしまっている。ここ数日は、仕事をしている姿を見せなくてはという使命感で動いているような気もした。それなら偽りの正義だ。
 啓太郎は、コーヒーを飲み干した。時計は九時二十一分を指している。少し早いが病院へ向かうことにした。

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