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『ラヴ・ストリート』【41】

  ポリグラフ
 南城光輝は、エリからの電話で全てのいきさつを聞いた。受話器の向こう、エリは涙ぐんでいた。電話を切ってから、光輝も切なさが込み上げてきて、しばらくはベッドで、啓太郎と母親のやりとりを想像していた。前に父親が銀行強盗犯だと漏らしたのは本当だったのだ。啓太郎はずっと苦しんできた。誰もが日々、いろいろな苦悩と闘っている。自分だけではない。
 光輝が改造したモデルガンは、またエリの元へ戻ってきた。因縁みたいなものを感じた。エリが言うように、啓太郎がその因縁を絶ちきろうとしているならば受け入れようと思った。きっと、強盗事件のことは忘れて、前を見て歩き出せと背中を押してくれているのだ。啓太郎とは、もう二度と会わない。モデルガンは、再び誰かの手に渡ることがないように、自宅の庭に埋めようと思った。土はいちばん身近で信頼できる忘却の手段だ。
 熱は三十八度あったが、さほど具合は悪くなかった。光輝はベッドから起き上がり、クローゼットの棚に積んであったアルバムの一冊を手にしてベッドへ戻った。  
 母親との最後の一冊。小学校の高学年に入ってからは、ほとんど母親と写真を撮らなかった。丁度、羞恥心が芽ばえた頃だった。アルバムは最後のページまで埋まることはなかった。母が亡くなる直前、夏の写真で終わっている。
 十一歳の光輝と母。豊平峡ダムだ。駐車場から送迎バスが出ていたが、母が健康のために歩こうと言い出して、無理矢理、ダムまで歩かされた。おろしたてのスニーカーで靴擦れし、ダムに着いた時にはかかとに大きなマメができていた。父がカメラを構えると、母親は光輝の肩に手を回して頬を寄せた。思い切り嫌がった顔で写っている。年頃の光輝が嫌がるのを分かっていて、わざとシャッターチャンスにそういうことをする茶目っ気のある人だった。最後の写真だと分かっていたら、こんな顔はしなかった。母は少しかがんでいる。その時は、まだ母親の身長を超していなかった。今でも、母は自分より背が高いイメージのままだ。とうに二十センチは超しているというのに。
 母が亡くなった後、後悔ばかりしていた。ノートに箇条書きにしてみたら、五十項目くらいになった。あの時こうしていればよかったで十項目。もっと何々をしておけばよかったで二十項目。これからこれをしてあげたかったで二十項目。それをノートから切り離して棺に入れた。母と一緒に空に上っていった。それから、後悔するのを努めてやめた。後悔ばかりしていると、母が悲しむと思ったからだ。
 一年後、舞がやってきた。リビングから母の写真が消えた。光輝の中で何かが変わってしまった。光輝は、あっと思って、アルバムから最後の写真を引きはがした。そして、階下へ降りていった。奥の和室にあった母の写真を手に取った。舞が来てから、いつの間にか追いやられていた写真だ。光輝はそれをリビングに持ってきて、いちばん目立つサイドボードの上に置いた。それをしばし眺めてから、今度は使っていないフォトフレームに最後の写真を入れて横に飾った。
 腹がグーとなった。時計は八時を指していた。光輝は、にんまりとした。エリの作ってくれたオムライスがある。冷蔵庫を開けると二皿入っていた。エリは父親の分も作ってくれていた。自分の分だけ取り出すと電子レンジで温めた。ラップを取ると懐かしい匂いがした。ケチャップでKの字をいたずら書きしてから食べた。おいしい。コンビニのオムライスと何が違うのだろう。オムライスの中をのぞき込んでから、もう一口食べた。
 玄関のドアが開く音がした。珍しく父が早く帰ってきた。父は、光輝の姿が一階にあるのを見て驚いた。確かに、光輝は自分の部屋で食事をとることが当たり前になっていた。
「もうパジャマを着てるのか」
 父はぶっきらぼうな言い方だった。
「熱が出たから、学校早退してきて寝てた」
「熱は高いのか」
「今、八度」
「病院に行ったのか」
「薬があったから行ってない」
「平気なのか」
「うん」
 光輝は、父親の会話の語尾が全て「のか」で終わることに気がつき、可笑しくてふっと笑った。
「オムライス、食べるなら冷蔵庫に入ってるけど」
 父は、光輝が笑っているのに気がつき目を見張った。語尾の「のか」は続いた。
「光輝が作ったのか」
「彼女」
「彼女がいたのか」
「うん」
「いつも遊びに来るのか」
「今日が初めて」
「恋愛にうつつをぬかしているから、成績がよくないんじゃないのか」
 確かに上位の成績ではなかった。いつもなら、父の棘のある言い方にカチンとくるところだが、今日は何故か素直に受け止めた。光輝の中で何かが変わった。
「これからは本気を出すよ。将来、何になりたいか決めたんだ」
「そうか」
 こんなに喋ったのは、いつ以来だろう。別にケンカをしていたわけではない。無視していたわけでも、避けていたわけでもない。舞の夫である父とは、以前にも増して話すことがなかっただけだ。
 父はもともと無口で無愛想な人だった。たぶん研究膚なのだと思う。それが不向きな営業職についているから、平日は毎日残業、休日はぐったりなのだ。休日は寝ていることが多く出かけることも少なかった。小学生の頃は夏休みの宿題で絵日記を書かなければいけないので、豊平峡ダムにもせがまれて仕方なく行ったのだ。そんな父でも、母とは恋愛結婚だった。同じ職場だったと聞いた。恋愛からはほど遠い感じがする。恋愛をいちばん面倒くさがりそうなタイプだ。母を喜ばせようとしたのを見たことがない。
 そんな無器用な男が二十も年の離れた舞とまた恋愛をした。世の中は不思議だ。結局、離婚に至ったのだが。
「オムライスなんて、お母さんの以来だな」
 父は、ぽつりと言うと、冷蔵庫からオムライスを取り出してレンジで温めた。そして、光輝の向かいの席に座ると、ケチャップを左から右へ、ジグザグにかけた。光輝は、ポリグラフの線のようだと思った。父の心の動揺を表しているような気がした。光輝は心の中で、父に向かって質問をしてみた。
 全て、いいえで、お答え下さい。お母さんを愛していましたか?
 いいえ。
 舞を愛していましたか?
 いいえ。
 どちらの針が振れたのだろう。いや、どちらも振れた? それならどちらの振れ幅が大きかったのだろう。
「皿、洗っておくからいいぞ」
「うん」
「おいしかったって伝えてくれ」
「えっ?」
 聞き返しても、父は二度、同じことを言わない。
「よくなったら、勉強しろよ」
「うん」
 光輝は父親の白髪が増えたことに気がついた。寝酒と運動不足のせいで体重もまた増えたようだ。角張っていた顔が丸くなった。光輝とは全くと言っていいほど似ていない。一緒に歩いていて親子だと思う人は少ないだろう。光輝は完全に母親似だった。それでも、父の遺伝子を半分受け継いでいるたった一人の息子、後継者なのだ。
 光輝は、フロイトの言うオイディプス・コンプレックスは本当だろうかと思った。あらゆる男性には母親を慕うあまり、父親の存在を亡きものにしたいという欲望があるという。父親は人生最初の敵で、ライバルだということになる。しかし、母親のいない今、その欲望の有無を確かめることは不可能だ。父と息子、これから先、本音で語り合うことはあるのだろうか。心をさらけ出すことは。そもそも父に理解してもらいたいと望んでいるのだろうか。嘘で塗り固めてきたのではないだろうか。光輝は、自分にこそ、ポリグラフが必要だと思った。犯罪を犯してしまったことを父に話す時が来るのだろうか。その時、父はどういう態度をとるのだろう。夏目啓太郎のように受け止めてくれるのだろうか。
「何だ?」
 父は光輝の視線に気がつき尋ねた。
「何も言ってないよ」
「そうか」
「ごちそうさま」
「薬飲んで、温かくして寝ろよ」
「うん」
「光輝」
「何?」
「舞のこと、悪かったな」
「えっ?」
「いやだったんだろう?」
「あの人がいやだったんじゃないよ。お母さんがよかっただけ」
「そうか」
「離婚したの、僕のせい?」
「違う。俺のせいだ」
「そう・・・おやすみ」
 光輝は二階の自分の部屋へ駆け上がった。父の突然の言葉に胸がどきどきしていた。謝罪にも聞こえた。父が謝罪するなんて。額に手を当てた。また、熱が少し上がってきたようだった。解熱剤と風邪薬を飲んで、エリが買ってきてくれた冷却シートを額に貼った。そして、ベッドに潜り込んだ。まだ、どきどきしていた。そのどきどきを聞いているうちに、恋心が湧き上がってきた。エリのことを考えた。明日も熱が下がらなくて休んだら、また来てくれるかもしれない。抱きしめてくれるかもしれない。そんな温かい気持ちで眠りに落ちていった。
 翌朝、熱は下がっていた。光輝は階下へ降りていってリビングをのぞいた。父は、昨日置いた母と光輝の写真を手に取って見ていた。懐かしそうに目を細めている。光輝は、はっと気がついた。
 そうだ。あの写真を撮ったのは、父なんだ。

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