『ラヴ・ストリート』【36】
パンドラの箱
夏目啓太郎は、曲がり角から佑香と馨の様子を見ていた。そして、佑香が家の中に入るのを確認してから、家の前に来て表札を確かめた。確かに「今野」とある。佑香は一緒に暮らしている孫の中の一人に違いないと思った。当たり前だが、今野という男にも家族がある。それにしても、この場所に来るのは二回目だ。そう思いながら後ろを振り向いた。エリの家だ。何という偶然だろう。
美代子が退院してから二週間が過ぎた。つまり、興信所の報告書と拳銃を発見してから二週間だ。今野賢吉とは一体誰なのだろう。あの拳銃は? 母の目的は? それに奔走した日々だった。すでに結論は出ていた。しかし、どうしていいのか分からず、心の整理がつかぬまま悶々とした日々を過ごした。そして今、この場所に立っている。
あの白い箱の中に拳銃を発見した時は、父が強盗に使った拳銃なのではと考えた。しかし、美代子が所持しているわけがない。しかも、どことなく新品の匂いがした。拳銃の存在を気にしつつも、美代子が側にいる以上、あの箱を開けて調べることはできなかった。逆を言えば、美代子が側にいる限り拳銃が使われることもない。落ち着け。そう自分に言い聞かせて機をうかがった。
数日後、美代子が病院で抗がん剤の点滴を受けている間を見計らって、再び箱を開けた。ひとつひとつ詳しく見た。拳銃の入っていたクッション材つきの封筒には、代引伝票が入っていた。それは箱の表に残っている剥がした跡と合致する。ピンときた。拳銃は代引で届いた。インターネット販売だ。割り出すのは比較的容易だと思った。拳銃の写真をデジカメで撮影した。代引伝票や興信所の報告書など必要なものは全て、プリンターでコピーして箱を元に戻した。
興信所の封筒に入っていた調査報告書は単なる所在調査だった。つまり、就職や結婚の時に依頼する身辺調査や身元調査ではなく、単純に住居の所在を調べるというものだった。今野賢吉という男の住所と経営する自動車整備工場の住所が明記されていた。年齢が五十九歳ということは母の知り合いだろうか。いや、父親の昔の知り合いということも考えられる。一緒に現在の写真が添付されていた。あまり人相のよくない男だ。不思議なもので、余命わずかの母が、興信所に依頼してまで所在を知りたがる相手なのに、拳銃がセットになっていたことで、すでに恩人やどうしても会いたい友人という線は消えていた。胸騒ぎがした。取り越し苦労であって欲しい。啓太郎がいちばん注目したのは、報告書の最後にあったクライアントからの情報、つまり美代子が依頼する時に提示した情報だった。たった三つの事柄が記されていた。
コンノ。三十五年前、二十代前半。音楽喫茶『パンドラ』に出入り。そして、似顔絵が添付されていた。
この情報から、啓太郎が推測したのは、美代子は三十五年間会っていない。名字だけを知っている程度の関係。しかし、顔はよく覚えている。二十代の似顔絵と現在の写真は、輪郭、目つき、額の広さなど驚くほどよく似ていた。興信所はこの程度でよく見つけ出したものだと思った。この情報の中で脈がありそうなものといったら音楽喫茶『パンドラ』だけだ。これが決め手になったに違いない。
二時間後、美代子を病院まで迎えに行った。送り出した時は比較的元気そうに見えたが、薬のせいか帰りは相当につらそうだった。家に戻り、啓太郎が用意した昼食を少しだけとると、すぐに横になった。
啓太郎は美代子が心配だったが、コンノのことを早急に調べる必要があった。美代子が眠っているのを確認して、『パンドラ』へ向かった。
音楽喫茶『パンドラ』は、店名こそライブハウス『パンドラ』に変わっているが、三十五年経った今も営業を続けていた。隣に練習用のスタジオを構えており、音楽を目指す若者のたまり場だった。啓太郎は美代子が病院にいる間に、すでにアポを取っていた。
店で出迎えてくれたのは、人当たりのいい、しかも饒舌そうなオーナーだった。今年で六十歳になるらしいが、若々しく、ロック大好きオヤジを自称していた。それはファッションからもうかがえた。
啓太郎は名刺を渡しながら頭を下げた。
「夏目です。突然にすみません」
「いいよ。日中はわりと暇だから。今野賢吉のことだよね。この間、興信所の人もあれこれ聞いていったけど、やつなんか悪いことでもしたのかい?」
「いいえ。その興信所に頼んだのが私です」
啓太郎は嘘をついた。
「ああ、そうか」
「かなり昔なのに、よく覚えていましたね」
「当時、うちの店に相当ツケをため込んでてさあ。らちがあかないから、あいつの親のところに取り立てに行ったんだ。だから覚えてたんだよね。確か自動車修理の工場をやっていたような」
今野の家は当時から現住所に工場を構えていた。啓太郎はどうりですぐに所在が判明したわけだと思わず頷いた。
「今も、そこで工場をやっているみたいです」
「そうなんだあ。金にだらしない男でさあ。借金ばかりしてて。なのに飲むわ。騒ぐわ」
「そうでしたか・・・ところで」
啓太郎はそう言いかけて、一瞬、言葉に詰まった。母親の名前を出すべきか、父親の名前を出すべきかを考えた。
「何だい?」
啓太郎は反射的に父親の名前を口に出した。
「リョウスケさんて、ご存じありませんか?」
オーナーは名前を聞いて驚いた表情をした。意外という顔つきだった。
「良介って、高橋良介くんのことかい?」
知っている! タカハシリョウスケ。
「はい。実は、そちらの件を追っていまして」
啓太郎は慌てて、また嘘をついた。苦し紛れだった。
「そうだったんだ。だから、ライターさんが取材に」
「差し支えなければ、タカハシリョウスケさんのことを教えていただきたいのですが」
「ああ」
啓太郎はすぐさま震える手で胸に挿していたボイスレコーダーのスイッチを入れた。真実が語られる。長年の謎が解き明かされる。疑念に終止符が打たれる。そう確信した瞬間、手の震えは膝へと移行し、ガクッガクツと長い足が脳からの指令を無視して前後に揺れた。
オーナーは遠い日を懐かしむような目をして語り出した。
「良介くんは、うちでバイトしてくれていた大学生なんだ。優秀で背がすらっと高い美男子でさあ。私は弟みたいに思ってたんだよね」
「そうでしたか」
「いい会社に就職も決まって、卒業したらすぐ結婚するっていう彼女もいて、ものすごく幸せそうだった」
啓太郎は事件のことを詳しく聞き出すために、本当に取材をしているふうを装いたかった。あえて自分から口にしたくないことを半信半疑で口にした。
「銀行強盗・・・」
「そうなんだよ。何でって誰もが思ったさ。だって、そんなことするを理由がないだろう? お金に困っていたわけでもないし。順風満帆なのに、自ら人生を棒に振るような真似」
「そうですよね」
「それにおかしいだろう。逃走の途中で奪った金を全部投げ捨てるなんて」
投げ捨てた?
啓太郎はそう聞き返しそうになって、慌てて相づちを打った。
「ああ。そうですよね」
「だから、当時のマスコミの書き方もすごかったよなあ。エリート大学生、謎の銀行強盗とか。ああ、ライターさんなら、そんなこと、とっくに知ってるか」
「いいえ。私が生まれる前の事件でして。彼の人柄を示すような資料も、あまり残っていませんし、当時を知る方に改めて伺う方が確かです」
「そうかい」
「はい」
「良介くん、今、どうしているんだろうなあ。海外に逃亡したままなのかなあ」
海外逃亡・・・だから、アメリカなのか!
「・・・みたいですね」
「ところで、良介くんと今野って、何か関係あるのかい?」
「い、いいえ。今野さんが当時のことを知っていないかなあと思いまして」
「なるほどね」
強盗事件の概要を全く知らない啓太郎は、取り敢えずごまかすしかなかった。しかし、今野が父の知り合いなのは、ほぼ間違いない。一体、美代子は居場所を突き止めて、何をしようとしているのか。あの拳銃は?
その後、話し好きのオーナーのおかげで、父の犯罪を報じる新聞記事に、いとも簡単にたどり着いた。図書館で新聞のマイクロフィルムを二本借りて閲覧するだけだった。中学生の時、新聞の縮小版を一ページ一ページめくって、隈無く探したことを思い出した。十四歳の少年の最大のミスは、自分が生まれる前の事件だと思わなかったことだ。事件が起きた時、自分はまだ母のお腹の中にいたのだ。その後も、インターネットが普及すると、警察庁のホームページで指名手配被疑者の中に「リョウスケ」という名の強盗犯がいないかをチェックした。「銀行強盗」「リョウスケ」「アメリカ」の三つを組み合わせて検索したこともあった。結局、出てきたのは小説や映画のあらすじばかりだったが、心のどこかでほっとしている自分がいた。本当は知るのが怖かったのかもしれない。そして、今、いとも簡単に事実は浮かび上がった。何とも皮肉なものだった。
オーナーの言ったとおりの事件だった。犯人は、まんまと三百万円の強奪に成功したのにもかかわらず、車で逃走する途中、現金を道路に投げ捨てていた。怖くなったのか。逃げ切れないと思ったのか。現金は全額すぐに戻った。
これは・・・光輝とエリの事件と重なった。偶然なのか。運命のいたずらなのか。彼らとの出会いは父の事件へのプロローグだったのか。
結局、銀行強盗の犯人は捕まらなかった。そして、三ヶ月後、ある青年が逮捕される。その数日後、父から警察に犯行を告白した手紙が届く。
美代子が言ったジャン・バルジャンの意味が分かった。誤認逮捕された青年を助けるために名乗り出たということだ。長年知りたかった父親の強盗事件について全てをようやく知ることができた。注目すべきは、父が警察へ書いた手紙に「ある男に騙されて、逃走時の運転だけを知らぬままにさせられた」とはっきり書かれていたことだ。つまり、強盗犯人ではなく巻き込まれたという真実だ。
父は犯人ではない!
しかし、その後の新聞はこう報じている。逃走中に放り出された現金入りのバッグから、父の指紋しか検出されなかったことから、警察は単独犯と断定して指名手配した。手紙は、完全に無視されていた。
父が嘘をつくわけがない!
推測どころか、結論は一つだろう。ある男の正体は、今野だ。どうして、父は今野の実名を手紙に書かなかったのだろう。かばったのか? いや、騙されたのに、かばうわけがない。母は真実を知っているのか? 聞けば済むことだ。しかし、ずっと言わずに隠し通してきた苦労を思うと、それもはばかられた。しかし、何か間違いが起きてからでは遅い。啓太郎はさすがに混乱した。今、確実に言えることは、今野の時効が二十年前に成立しているということだ。今さら警察に言っても無駄だ。刑事罰は問えない。
その後、拳銃の方は家のパソコンのインターネット履歴をチェックして、どこから手に入れたのか大体見当がついた。美代子は違法に改造銃を販売しているサイトにアクセスしていた。その販売元を突き止める必要はなかった。そういう業者を摘発するためではなく、拳銃が本物なのかを確かめたかっただけだった。おそらく殺傷能力のある銃に違いなかった。
美代子が、ずっと、ひとりで背負ってきたもの。それは想像以上に過酷で、つらい現実だったのだ。少女のように笑う顔の裏側には、愛する人と引き裂かれ、犯罪者にされた憎しみでいっぱいだったのだ。死を覚悟した時、美代子の中で何かがはじけた。あの白い箱の中に入っていたもの。それは、復讐だった。それはパンドラの箱と同じだった。人間を苦しめるあらゆる悪が入っていたように。
母に箱を開けさせてはならない。それとも、箱の中には、希望も入っているのだろうか。
啓太郎は今野の家を睨みつけていた。両手の拳を強く握っていた。母と同じくらい憎しみが増殖していくのが分かった。犯罪者の子供だと悩み苦しんだ日々。血の繋がりを憎み、時には姿の見えない父親を恨んだ。全てが誤解だった。母が死ぬ前に、父と会わせてやりたい。しかし、ずっと外国にいた父は容疑者のままだ。帰国すれば逮捕されてしまう。今野は時効が成立して、のうのうと暮らしているというのに。憎い。復讐してやりたい。その存在を消してやりたい。内なるエネルギーが爆発寸前になっている。パンドラの箱を開けてしまうのは自分かもしれない。啓太郎はそんな恐怖と闘っていた。
翌日、パンドラの箱は開いてしまう。中から飛び出したものは、やはり復讐だった。
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