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『ラヴ・ストリート』【47】・最終話

ラヴ・ストリート
南城光輝は、『カサブランカ』を出ると、啓太郎に向かって真面目な顔をして言った。
「僕、弁護士を目指してもいいですか?」
「どうして、俺に許可をとるんだよ」
「夏目さんにいいって言ってもらわないと、だめなような気がしていたんです」
「じゃあ、司法試験、一発で受かれよ」
「えっ?」
「うちの父親の弁護を頼むからさ」
「分かりました」
「その前に、大学に受かるのかあ?」
「がんばります」
   *
 霧島エリは、美代子に向かってピンク色の頬をして話しかけた。
「さっき、みんなで話してたんですけど、来月、この『カサブランカ』で、クリスマスパーティーをすることにしたんです」
「クリスマスパーティー!」
「はい。プレゼントを持ち寄って、音楽に合わせて回すんです」
「そうそう。子供の頃、友達とそんなふうにしたわ。懐かしい・・・・・・」
「だから、早くよくなって下さい。待っています」
「ありがとう」
   *
 五十嵐聡美は、美代子に向かって微笑んだが目が潤んでいた。
「また、クリスマスパーティーで、お会いできますね」
「ええ」
「馨もあんな仏頂面ですけど、今日は楽しかったみたいです」
「よかったわ」
「子供って、親が気がつかないうちに、いつの間にか大人になっているんですね」
「啓太郎もそうだったわ。私の知らないところで悩んで苦しんで、ちゃんと自分で答えを出しているの。そして、恋もしている」
「そうですね」
   *
 五十嵐馨は、啓太郎の方をちらっと見て口を尖らせた。啓太郎はその表情にすぐに気がついて、馨の真似をして口を尖らせて言った。
「何だよお。何か言いたそうだな」
「オルゴールをくれたKって、どんなにかっこいい人なのかと思ったのに」
「俺がかっこよくないみたいじゃないか」
「背だけは高いけど」
「背だけって・・・まあ、すぐに追いつかれそうだけどな」
「はい。追い越します」
「今日は、本当に悪かった。ごめんな」
「あのオルゴール、僕が壊しちゃったんです」
「えっ?」
「クリスマスプレゼント、あれがいいです」
   *
 今野佑香は、店の外に出て初めて、自分だけが部外者のような気がして寂しくなった。
 その時、美代子が佑香の手を握ってくれた。ドロシーをいつも助けてくれる北の魔女のイメージとだぶった。
「佑香ちゃん。楽しいお話をたくさんしてくれてありがとう」
「いいえ。ごちそうさまでした」
「礼儀正しくて立派なレディだわ。言葉遣いが丁寧で、敬語をきちんと使うから感心していたのよ」
「ありがとうございます」
「クリスマスパーティーには、ドロシーの衣装で来てね。ぜひ、見てみたいわ」
「はい。約束します」
   *
 光輝とエリは、ひと通りの挨拶が終わるタイミングを見計らって、しっかりと手を繋いだ。そして、夕日に向かってゆっくりと歩き出した。無言でお互いの顔を見た。言葉にしなくても、一年前のことを思い出していることが分かった。
 光輝は正門前に立っていた。
 エリが校舎から出てきた。
 光輝がエリの手をつかんだ。手を繋いでこの通りを駆け抜けた。恋が始まった。しかし、お互いに恋だと認めようとしなかった。強く惹かれ、求めて合っていたのに遠回りをした。相手のことを思い、別れを決意したこともあった。死を覚悟したこともあった。そして、誰にも負けない強い絆ができた。今、永遠を求めて、この通りを歩いている。相手を強く思えば思うほど、繋いだ手にぎゅっと力が入った。この手を離したくないという気持ちが伝わった。内面から込み上げてくる衝動が、二人の体温をどんどん上昇させた。
   *
 聡美は、前に立っていた馨と、さっと手を繋いだ。馨が驚いて聡美の顔を見た。親子だと美代子にばれると思って、後方を振り返った。美代子が、「それでいいのよ」と言うように、微笑みながら頷いていた。馨は、美代子の気持ちをくんで手を振り払わなかった。しかし、母親と手を繋ぐことが恥ずかしいのか顔は反対を向いていた。聡美はふっと笑って、もう一方の手で、佑香の手を取った。佑香が嬉しそうに聡美の顔を見上げた。三人は、光輝とエリの後ろを歩き出した。聡美は、ずっと啓太郎が好きだった。再会することだけを夢みてきた。その愛しい存在は、本当に夢のように現れた。そして、今、目の前にいる。手が届く場所にいる。全てを捨てて手を差し出すのは簡単だった。
 神様が、前を向いて歩きなさいと言っている。
 聡美は臆病な自分を知っていたから、啓太郎を夢にみていたのだ。心の欲するままに実行できる人間は、夢にみたりしない。比較にならなかった。馨と啓太郎。馨が他人のふりをして挨拶した時、可愛くてくしゃくしゃにして抱きしめたかった。啓太郎と歩いた二倍の時間を、馨と歩いてきたのだ。あの夢。思わず啓太郎の手を放し、赤ん坊の馨を抱きしめたあの夢。今日、この時の決断を暗示していたのだ。聡美は、もう啓太郎を振り返らない。夢にみることはない。
   *
 夏目美代子は、啓太郎と残された。いつも、家に二人でいることが当たり前なのに、こんな賑やかな時間を過ごした後の二人は何だか物足りなかった。
「私たちはどうする?」
「駐車場に車あるんだけど・・・まあ、ここは右に倣えってことで、あの曲がり角くらいまで歩こうか」
「手は繋がないわよ」
「当たり前だって」
 それを聞いて、美代子はふふと笑った。
 啓太郎は持っていたアルバムを美代子に手渡した。
「じゃあ、これと一緒に歩けば?」
「アルバム! そうねえ。お父さんと歩くわ」
 美代子と啓太郎は、聡美たちの後ろを歩いた。美代子は両手でしっかりとアルバムを持っていた。こうして、ラヴ・ストリートを良介と歩いている。啓太郎と親子三人で歩いている。美代子には、まだ絆の糸が見えていた。それは透明できらきらと輝きつづけていた。糸は夕日を反射して今度は赤色に輝いた。光輝とエリ、聡美と馨と佑香、そして啓太郎と美代子まで、赤い糸で電車ごっこをしているように繋がっていた。何という美しい光景だろう。運命を全うし甘受した人間が最期に見るファンタジー。美代子は目を細め、赤い電車の最後尾に揺られていた。
   *
 マスターの保坂は、窓際の席に座って、七人が歩く光景を見ていた。西の空が赤い。夕日が何かを暗示するように皆を赤く照らしている。この通りをラヴ・ストリートと呼んでいたのは本当だった。良介が学生時代に、美代子に片想いしている時に言ったのだ。ラヴ・ストリート。恋が成就したら、この通りを手を繋いで歩くと。
「足りないな。ラヴ・ストリートの住人が一人足りない。何をやっているんだよ」
 その時、パソコンからメールの受信音がした。保坂は急いでカウンターへ走った。そして、メールを読んで、ふーっと長い息を吐いた。
 保坂はドリップポットに水を入れて火にかけた。それから、二人分のコーヒー豆を手挽きミルに入れて、ゴリゴリといい音を立てて碾いた。回しているハンドルが時計の針のように感じられた。二周すると一日が経過する。早く時が過ぎるといい。そう願いを込めて、ぐるぐると力強く回した。手は動かしたまま、視線をもう一度パソコンのメールに向けた。長い微笑みが浮かんだ。今年は例年になく暖かい冬になりそうだと思った。
 覚悟を決めた良介がもうじき帰ってくる。
   *
 夏目啓太郎は、聡美の細い背中を見つめていた。聡美と手を繋いで歩きたかった。でも、それは、プラトニックを懐古する三十男のセンチメンタリズムに過ぎなかった。光輝とエリを素直に羨ましいと思った。ティーンの頃のような純愛はもう再現できない。あの頃には戻れない。聡美は馨の手を迷わず取った。つくづく馨の母親なのだと思い知らされた。
 また、ふられたんだ・・・。
 啓太郎はふっと笑った。あの時、衝動が赴くままに、聡美の前歯が吹っ飛ぶくらいに、強烈なキスをしておけばよかったと思った。まわしたこの手に、聡美の髪の感触が残っている。もう、聡美に触れることはできない。
横で、美代子が、啓太郎の顔を意味深長にのぞき込んでいる。
「人間にとって初恋は特別ですものね」
「ああ」
 美代子は視線を前に戻して静かに言った。
「ごめんね。啓太郎」
「何が?」
「いろいろと」
「別に謝るようなことしてないだろう」
「いいえ。お母さんが 、」
 啓太郎は美代子の言葉を遮った。最後の親孝行として遮った。
「お母さん、俺が小さい頃さあ、よく言ってたよ。嵐の晩に」
「嵐の晩?」
「ああ。たまに嵐が来ないと、快晴で穏やかな日のありがたみが分からないって」
「そんなこと言ってた?」
「言ってた」
 今度は啓太郎が美代子の顔を覗き込んだ。「大人になった俺が、今、敢えて言わせてもらうなら」
「何?」
「全くの無風状態っていうのも相当に息苦しい」
「まあ」
「風は適度に吹いた方がいい。時に強かったり、弱かったり」
「確かに毎日って、それの繰り返しだわ」
「それが人生ってことで、謝ったりするのは、なし」
「啓太郎、ありがとう」
「俺、マザコンだからさあ」
「そうね」
 美代子は少女のようにふふと笑った。
「クリスマスパーティー、みんな楽しみにしてるから元気になってよ」
「それと結婚式もね」
「ああ。そう言えば、今日はそれでここに来たんだった」
 啓太郎は肝心の芝居のことをすっかり忘れていた。苦笑しながら、自分の頭をかいた。そして、近い未来だけを想像した。「その頃はきっと、一面、雪景色だね」
「そうね」
 美代子は頷くと、啓太郎の腕を一瞬掴んだ。弱々しい握力だったが、病気と闘おうとしている母親の強い決意を感じた。生きて欲しい。一分でも一秒でも長く生きていて欲しい。 
 啓太郎は上空に白いカモメが飛んでいることに気がついた。札幌の都会のど真ん中。何故、カモメがいるんだろうと思った。
「何で、こんな所にカモメが飛んでいるんだ?」
「あら。本当ね」
 美代子が空を見上げた。
 エリが立ち止まり、前方で振り向いて言った。
「たぶん、海から迷い込んだと思うんですけど、ここに住みついているみたいです。毎日、教室から姿を見かけます」
「寂しくないのかなあ」と、佑香が子供らしい言い方をした。
「海がなくても生きていけるんだ」と、馨が新しい発見をした。
「海が恋しくなったりしないのかしら」と、聡美が感傷的に続けた。
「もう一羽、いるんです」
 エリは明るく元気に言った。
 その時、赤い夕日の方から、もう一羽、別のカモメが飛んできた。
「本当だ」と、啓太郎は目をこらしてみた。
「きっと、番だと思うんです」
 エリがそう言うと、二羽のカモメは急接近し、連なって大きな円を描いて飛んだ。
「じゃあ、きっと、寂しくないね」と、光輝が自分たちの姿を重ねて言った。
「そうか。彼らも、ラヴ・ストリートの住人なんだあ」
 啓太郎が感嘆の声を上げた。二羽のカモメは大きく離れたかと思うと接近し、交差しては、またそれぞれに飛んだ。お互いを意識し自由に飛んだ。啓太郎はその勇壮さに暫し見とれた。皆も空を見上げ、カモメたちを追った。夕日に浮かび上がる皆の姿が美しかった。同じものに目を向け感動している姿が愛おしかった。同じ場所、同じ空間にいることは奇跡でも何でもない。絆で繋がっている人間のごくありふれた日常なのだ。
 いつまで、好きなんだろう。
 啓太郎は聡美の横顔を見つめた。初恋は色を持たないたったひとつの純愛だ。壊れやすくてあまりに儚い。時には暗澹たる場所に放り出され行き先を見失う。何もできず、ただ膝を抱え、白いため息をついている。そのため息はどんどん積もり、青空を覆い、雲を呼び嵐を引き起こす。しかし、強風に吹かれても募る想いは通りを流れていかず、落葉と一緒にくるくるとその場で舞い続けている。いつしかひとり舞台に疲労困憊し、冷え切った歩道に身を横たえて、雪を待っている。白い雪が全てを覆い隠してしまうことを願いながら。
 この世の中、どれくらいの人が初恋をあきらめるのだろう。
 啓太郎は無意識のうちに、聡美に向かって手をのばしていた。その手に気がついた瞬間、無意識は衝動へと姿を変え、足の裏が現実を蹴った。しかし、わずか二歩駆け出したところで、ぽつんと頬に冷たい使者が降りたった。膝が反応してブレーキをかけ、踵がアスファルトに刺さった。冷たい雪が、ひとつふたつと、熱くなった唇に降りてきては官能を慰めた。啓太郎は瞳を閉じてふっと笑った。
「もう少し、ここにとどまっていようかな」
 皆、ラヴ・ストリートの住人だ。それぞれに家庭があって、いろいろな物を持っている。
 時には満たされない心で、この通りを行ったり来たりしている。誰もこの通りから出ていこうとしない。出たくない。ずっと、この場所にとどまって、愛しい人の姿を追い続ける。
 そう。誰もが、ラヴ・ストリートの住人だ。  
                   了

【参考・引用文献】
『ああ無情』    ユーゴー(世界の名作22 世界文化社)
『アウグスツス』  ヘッセ 高橋健二訳(新潮文庫)「メルヒェン」収録
『ユング心理学』  J・ヤコービ 高橋義孝監修(日本教文社)
『河童』      芥川龍之介(角川文庫)
『ヴェニスに死す』 トオマス・マン 実吉捷郎訳(岩波文庫)
『人魚の姫』    アンデルセン 矢崎源九郎訳(新潮文庫)
『オズの魔法使い』 バウム(世界の名作13 世界文化社)
『オズの魔法つかい』バウム(世界名作ファンタジー ポプラ社)
『斜陽・走れメロス』太宰治(アイドル・ブックス23 ポプラ社)

【登場映画】
『カサブランカ』
『ローマの休日』
『俺たちに明日はない(ボニーとクライド)』


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