『ラヴ・ストリート』【39】
ウインタータイム・ラヴ
南城光輝は、二時間目が終わった頃、頭痛がするので薬をもらいに保健室へ行った。熱を計ると三十八度二分あった。その数値を見たとたん、激しい悪寒にがたがたと体が震え、一気に具合が悪くなった。病は気からというのは本当だ。タクシーで家まで帰った。途中、エリにメールをした。
熱が出て学校を早退した。今日は会えなくなった。ごめん。
光輝は家に着くと制服を脱ぎ捨てパジャマに着替えた。家にあった風邪薬を飲み、這うようにベッドへ潜り込んだ。病気の時に、ひとりというのは心細くて寂しい。母親が亡くなって初めてそれを感じた。もちろん、お粥を作ってくれたり、着替えを用意してくれたり、あれこれと世話をやいてくれるというのもある。しかし、それ以上に、側にいて心配してくれるのが有り難かった。枕元にその存在を、匂いを感じるのが嬉しかった。前にテレビで見たことがある。生まれたばかりの赤ちゃんの顔の左右に、母親と他人の母乳を染み込ませた布を置く。すると、赤ちゃんは必ず母親の母乳の方に顔を向ける。それに近い感覚だった。匂いで安心する。それを実証する出来事があった。それは光輝が十二歳、父が再婚して間もない時だった。舞は熱を出した光輝の看病をしようと枕元に立った。しかし、舞の化粧の匂いに、光輝は吐いてしまった。この人は母親ではないと思った。
先週、舞が出ていった。帰ってくると突然いなくなっていた。来月には正式に離婚するという。嵐のようにやってきて、音も立てずに出ていった。光輝は自分が追い出したのだと思った。六年間、無視し続けた。随分とひどいことをした。父親への不満も全て舞にぶつけていたような気がする。しかし、いなくなった今だから、こうして少しは擁護することができる。また、この枕元に立たれたら具合が悪くなってしまうだろう。非情かもしれないが、それが正直な気持ちだ。舞のことを考えるなんて、熱にうかされているせいだと思った。
光輝はいつの間にか眠っていた。夢をみていた。母がおでこに手を当てている。
「まだ熱が高いわね」
「お母さん・・・」
母はにっこりと笑っている。
「熱は計った?」
「八度七分に上がっちゃった」
「食欲はある?」
「うん。朝ごはん、食べてないんだ」
「ちゃんと食べないから、風邪をひくのよ」
「うん」
食事の話をしたとたん、美味しそうな匂いがしてきた。「いい匂いがする。何?」
「鶏ささみのスープ。栄養あるわよ」
「うまそう・・・」
「でしょう?」
母の顔がエリに変わっている。しかし、あまり驚かなかった。頭がぼーっとしていたせいもあるが、違和感なくスライドしたからだった。
「エリ。どうしたの?」
「私も早退したの」
「僕のために?」
「うん。玄関の鍵が開いていたから、勝手に入っちゃった」
「嬉しいな」
「遠慮しないで来て欲しいって言ってくれればいいのに」
「いつも、ひとりで慣れてるから」
「ひとりに慣れちゃだめ」
「うん・・・」
「本当は心細いくせに」
エリがふふと笑った。可愛いと思った。熱で燃えたようになっている手を伸ばして、エリの頬を触った。エリの冷たい手が光輝の手をつかんだ。
光輝は、はっと目が覚めた。
「すごい熱」
エリが本当に光輝の手をつかんでいる。
「エリ・・・どうしてここに?」
「だから、早退してきたの。あれ? さっき、寝ぼけてた?」
光輝は熱で真っ赤になっている顔がさらに赤くなるのを感じた。
「ひょっとして、変なこと言わなかった?」
「変なこと?」
「うん」
エリが、ずるそうに微笑んだ。
「お母さん、とか?」
光輝の手が、ばたっと下に落ちた。恥ずかしい姿を見られてしまった。光輝はぽつりと呟いた。
「不覚・・・」
「薬は飲んだの?」
「うん」
「じゃあ、上体を起こせる? 水分を採った方がいいから」
「うん」
光輝は起き上がろうとして頭を上げた。頭がずきんずきんとして、途中で動きを止めて顔をしかめた。刹那、エリの腕が光輝を抱き起こした。恋人というより母親のようだった。素早く大きな枕をクッション代わりに背中に差し込んでくれた。枕にどさっと体が沈んだ。どきどきする間もなく、エリはすっと離れた。スポーツドリンクをコップに注いでいる。急に喉の渇きを感じた。エリはこぼれないように運んでくると、光輝の手がしっかりとコップを握るのを確認してから手を離した。
「はい」
「ありがとう・・・」
光輝はそれをゆっくりと飲んだ。ほてった体がすーっと冷めていくようだった。頭が少しスッキリしてきた。エリは光輝が脱ぎ捨てた制服を、しわを伸ばしながらハンガーに掛けている。テーブルには小さな土鍋が載っている。蓋の小さな穴から湯気が立ち上っている。ずっと、ひとりぼっちで暮らしてきた無機質な部屋に生活の匂いがある。人の影が動いている。息づかいが聞こえる。光輝はそれを不思議な気持ちで見ていた。
エリの向こう。窓から雪が降っているのが見える。朝より降り方が激しくなっただろうか。空は白に近い灰色だ。風も出てきた。時折、ぴゅーぴゅーと風が鳴っている。景色が寂しそうで、切なくて、寒そうであればあるほど、目の前の幸福がどれほど温かくて大切かを思い知る。恋は冬の季節がいい。体は熱でだるく、意志から切り離されたように無反応なのに脳だけが勝手にエリを求める。
「抱きしめたい」
光輝は窓の景色を見たまま、ぽつりと言った。
「えっ?」
エリは光輝の視線が自分から離れていたので、何を言われているのか気がつかなかった。「何?」と、言いながら光輝の側に来た。
光輝は、もう一度、エリを見上げて言った。
「抱きしめたい」
エリはふっと笑って、手にしていた冷却シートをピタッと光輝の額に貼った。
「冷たい」
光輝の全身に寒気が走り鳥肌がたった。まだ熱は下がっていないようだ。軽いめまいがした。それでも脳はエリを欲している。
「じゃあ、私が抱きしめてあげる」
エリが柔らかい胸で光輝をふわっと抱きしめた。光輝は驚いたが、すぐに心地がよくて目を閉じた。キスしたいけど風邪を移してしまう・・・あれこれと思いを巡らせているうちに、また睡魔がぐっと押し寄せてきた。
*
霧島エリは、腕の中で眠ってしまった光輝が愛おしくてたまらなかった。静かにベッドに寝かせると髪を撫でた。母性というのは、こういうものなのだと思った。相手を強く求める激しい欲求とは対照的な感情だ。ゆっくりと浸透していく深い愛情。守りたいと思う寛大な気持ち。
男の子にとって、母親は特別なのかもしれない。
エリは光輝を見てそう思った。エリにはもう母親を求める感情はない。中学に入ったくらいの頃から、同姓の厳しい目で見るようになっていた。女として尊敬できれば、こうありたい、存在を超えたいというプラスの存在として認識する。逆であればそのまま反面教師だ。エリは完全に後者だった。母親とは正反対の大人になるだろう。その点、男性にとって、母親は永遠に母親だ。理想の女性だ。よくテレビでそういう発言を目にする。偉大な発明者、芸術家、俳優、タレントに至るまで「いくつになっても母ちゃんが好きだ」と豪語する。
光輝の額に汗が浮かんできた。解熱剤が効いてきたようだ。エリは、びっしょりになっている額にタオルを当ててふいた。
三十分後、光輝は目を覚ました。汗をかいて熱いのか、両手を布団から出した。エリの方を見ると静かに微笑んだ。照れているような感じがした。エリは光輝の首筋に手を当てた。熱が随分と下がっている。光輝が一言も発しないので、エリも沈黙したまま、枕元にあった体温計をちらっと見せてから、光輝の脇の下に入れた。光輝はやはり無言のまま熱を計っていた。ピピッと体温計が鳴った。光輝は体温計を取り出してエリに渡した。
エリは表示を見て、ほっと息をついた。
「七度五分に下がってる。よかったね」
光輝は頬の赤みがなくなり、スッキリした顔になっている。
「お腹、すいた」
光輝は子供のような甘えた言い方をした。
エリはそれを聞いて、にっこりと微笑んだ。実は手料理を食べてもらいたかったのだ。
「じゃあ、今、スープにご飯と卵入れて、雑炊にしてくるね」
エリはテーブルに用意してあったスープを持って下のキッチンへ下りていった。
生活感のないキッチンだった。エリは先程勝手に棚を開けて、鍋や食器、調理器具を探しながら、長い間使われていないことを感じた。エリがここで舞に会ったのは、ほんの二週間前のことだった。舞はもういない。
エリは炊いておいた炊飯器のコンセントを抜いた。そして、一膳分のご飯を鍋に入れて火にかけた。光輝の亡くなった母親の姿を想像した。鍋のグツグツいう音を聞きながら、光輝のために、時として恋人ではなく母親になろうと思った。六年間の空白を埋めてあげようと。雑炊をトレーに載せると、こぼさないように、ゆっくりと部屋を上がっていった。部屋へ入ると、光輝は起きてテーブルについていた。嬉しそうな顔をして待っている。
「はい。どうぞ」
エリが鍋敷きの上に雑炊を置いて蓋を取った。ふわっと湯気が上がった。
「うまそう」
エリは用意してあった茶碗に雑炊をよそった。
「熱いから気をつけてね」
「うん」
光輝はふーふーと冷ましながら一口食べた。「おいしい」
「よかった。じゃあ、私もお弁当、食べよう」
エリはカバンから弁当を出して広げた。
「あ、そうかあ。学校、さぼらせたんだ。ごめん」
「授業はいいの。うちの大学に推薦が決まってるし」
「そうなんだ」
「だから、いつでも飛んできてあげる」
光輝の食べる手が止まった。
「ちょっと、涙が出そうになった」
「ポイント、上がった?」
「かなり」
「やったあ」
エリははしゃいでいた。
「手の込んだもの作れるんだね。驚いた」
「ちょっと、意外性を見せちゃおうかと思って」
「すごく感動した」
エリはにっこりと笑った。
「料理は上手くないけど、普通のものはひと通り作れるの。うちのお母さん、適当だから」
「適当?」
「夕食はキャベツだけ刻んで、その横にスーパーで買ってきた揚げ物がドンと置いてある感じ」
「そうなんだ」
「いやでも自分で作るようになっちゃって。ちなみにお弁当も自分で作ってるの」
光輝がエリのお弁当をのぞき込んだ。
「おいしそう。卵の黄色。野菜の緑と赤とオレンジ。鮭のピンク。揚げ物の茶色。そういえば、遠足のお弁当って色がきれいだった」
「お母さんのお弁当、覚えてるんだね」
「うん」
「なんか、料理の自慢しちゃった。ちょっと、くすぐったい感じ。今まで、自分をアピールすることがなかったから」
「アピール?」
「私、自分をアピールしないできたの。傷つかないように」
「どういうこと?」
「私って、親に対していろいろアピールしてきたんだけど、あんまり好かれなかったの。最初から好かれようとしなければ、傷つくこともないって思うようになって・・・だから、誰に対してもそうなっちゃったの。友達にも。一緒にいても、どこか距離をおいてる」
「何となく分かるなあ」
「嘘。何もしなくても、好かれるタイプだと思うけど」
「そんなことないよ。エリと同じ。自分をアピールしないと、相手は好きになってくれない。本当の友達って、僕もいなかったよ。もちろん、恋人もいなかった。だから、馬鹿なことしちゃったんだ」
エリは、光輝が同調してくれたことが何よりも嬉しかった。
「でも、これからは、どんどん自分をアピールして、光輝にもっと好きになってもらえるようにする」
「今、南城くんじゃなくて、光輝って言った」
「名前で呼ぶことにしました」
エリは照れ隠しに、短い髪をくしゃっとかき上げた。
「じゃあ、僕は、何をアピールしたらいい?」
「えっ?」
「エリに、もっと好きになってもらえるように」
光輝は真剣な顔をしてエリを見た。
エリは改めてどきっとした。恥ずかしくて視線を少し上にずらした。光輝の髪に寝ぐせがついて跳ね上がっている。
「じゃあ、子供みたいに甘えて」
「えっ?」
「わがまま言って困らせて」
エリは先刻の母親でもありたいと願ったことを思い出していた。「初めて公園で会った時みたいに。強引に」
光輝は、あの時に思いをはせているように沈黙した。そして、無邪気に笑った。
「じゃあ、ずっとここにいて」
「えっ?」
「こんな感じのわがままでいい? 今困った?」
「うん」
エリと光輝は、顔を見合わせて笑った。楽しい食事だった。
光輝は食事が終わると薬を飲んでベッドに横になった。まだ微熱があった。エリはキッチンへ下りていき、残ったご飯で夕食のオムライスを作ってラップをした。そして、洗い物を終えるとまた二階へ上がっていった。
光輝はすやすやと眠っていた。エリはメモを書いてテーブルに置くと、光輝の頬に手を触れて部屋を後にした。
雪はやんでいたが、耳がキーンとなるくらい風が冷たかった。エリは、マフラーを口元まで上げて地下鉄駅へ向かった。この道を、これから何度も行き来するだろうと思うと不思議で何度も振り返った。この間まで一度も歩いたことがない道だった。そんな道が、場所が無数にある。その人に出会わなかったら、歩かなかったであろう道が。
エリは地下鉄に乗ると、走る黒い窓ガラスに今日の光景を映して見ていた。光輝のパジャマ姿と寝ぐせが可愛いかった。思わず抱きしめた。光輝が腕の中で眠った。その感触を、体温を、まだ脳が鮮明に記憶していた。恋愛をしている。そんな充実感が体の中に満ちあふれていた。何て素敵な初恋が訪れたのだろう。
地下鉄を下りると辺りは薄暗くなっていた。寒いので自然と足早になった。光輝の家へと続く道と違って、何千回と往復したいつもの道だ。いつもの家、いつもの公園、いつものおじいちゃん、いつもの犬。しかし、時として、いつもの道に見慣れないものが現れる。侵入者が迷い込む。意外な人が通りかかる。新しい出会いがある。
パーン。
エリが自宅近くの道路に差し掛かった時、その音が響いた。背筋が凍った。それは、エリにしか分からない発砲音だった。
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