『ラヴ・ストリート』【20】
スピリチュアル・ペイン
夏目啓太郎は、バイト先のレンタルビデオ店にいた。午後十一時五十二分。繁華街は眠らない。気の抜けた笑顔でカウンターからDVDや音楽CDを渡す。返却されたものに傷がないかチェックして後ろの棚に戻す。単純作業の繰り返しが有り難かった。今日は疲れた。細心の注意を必要とする職種だったらミスの連続だろう。
美代子に胃癌が見つかったのは、三ヶ月前だった。腹部の圧迫感、食欲不振、背中の痛みのため、病院を受診した時はすでに胃の内部に癌が広まり、肝臓と離れたリンパ節の数カ所に転移していた。
啓太郎は自分を責めた。どうして母の異変に気づいてあげられなかったのだろう。予兆はどこかにあったはずだ。疲れがとれないと言っていたような気がする。食事があまりおいしくないと言っていたような気がする。よく眠れないと言っていたような気がする。思い起こせばきりがなかった。
美代子は婦人服メーカーの派遣社員としてデパートで働いていた。啓太郎が小さい時からなので、かれこれ三十年のベテランだ。啓太郎が大学を卒業してからも、家でじっとしているのが苦手なので、ずっと仕事は続けていた。しかし、入院を機に仕事は辞めざるおえなくなった。
根治切除、つまり手術で癌を取り除くことは不可能だったため、化学療法で治療することになった。第一段階は、経口タイプの抗がん剤の服用だった。そのまま五日間入院し、詳しい検査と化学療法を受けて退院した。その後は、定期的に通院しながら、自宅で抗がん剤を服用していた。癌を消滅させるのではなく、これ以上広がるのを、病状が進むのを食い止めるのだ。疲れやだるさなどの副作用はあるものの、体調はまずまず安定していた。一ヶ月後の検査でも癌の大きさは変わらなかった。抗がん剤も一時休止することになり、外出もできるようになった。
胃癌と聞いた時は目の前が真っ暗になり悲観的になった啓太郎も、自宅で笑う美代子を見ていると、このまま抗がん剤を飲んでいれば大丈夫なのではと思うようになっていた。しかし、先週、四十度近い熱が出て再入院した。やはり癌細胞は確実に美代子の体を蝕んでいた。第二段階、別の種類の抗がん剤の投与が始まった。美代子は点滴が終わる度に、ものすごい吐き気におそわれた。啓太郎は小さな背中をさすってあげることしかできなかった。今週になってようやく微熱に下がり、少し食欲も出てきたようだった。それで、啓太郎は美代子を安心させるためにも、強盗事件の取材を始めたのだった。
しかし、今日の午前中に医師から聞いた検査結果に愕然とした。癌はさらに肺と大腿骨にも転移していた。腹水もひどく抗がん剤も第三段階のものに切り替えるとのことだった。そんなに悪いのか。啓太郎は思わず下を向き、目を閉じてしまった。暗闇でもがく自分が見えた。こんな弱気になっては、美代子に取り憑いている病魔をのさばらせるだけだ。現実を見なければ。啓太郎は両手で顔を擦り、パンッと頬をたたいてくじけそうな自分に気合いを入れた。
それでも平熱になり体力が回復すれば、退院して自宅から治療に通ってよいとのことだった。不安もあるが、窮屈な病院よりも精神的には楽だろうと思った。眠れない夜に話し相手くらいにはなってあげられる。医師に「最後に何か質問はありますか?」と問われ、「余命は」と言いかけて、啓太郎は言葉を呑み込んだ。そして「ありません」と言って、深々と頭を下げた。退室する時も深く頭を下げた。
美代子は最初の入院時から、自分が癌であることを知っている。切除手術なら何とか胃潰瘍と言ってごまかせると思ったが、化学療法をする以上は隠し通せないと、啓太郎の口から告知をした。美代子は予感があったのか静かに頷いた。泣き叫んで取り乱すこともできなかっただろう。母親はどこまでも母親のままだった。それゆえに、啓太郎は今回の検査結果を忠実に伝える必要があるだろうかと考えた。
スピリチュアル・ペイン(精神的苦痛)を、これ以上増やしたくなかった。肉体的な痛みは鎮痛剤によって多少軽減することができる。しかし、目に見えない苦痛は日に日に増していく。外見の変貌、女性としての喪失感、死への恐怖。そして、ずっと、ひとりで抱えてきたであろう父親、リョウスケの存在。
啓太郎は、熱が下がったら退院できるとだけ美代子に伝えた。美代子は素直に喜んだ。病院の夜の孤独に耐えきれなくなっていたのだ。家族が側にいるだけで、スピリチュアル・ペインは相当和らぐ。啓太郎は美代子の笑顔を見て、これでよかったと思った。
夕方には、幼なじみの智樹を職場へ迎えに行った。智樹は啓太郎と同じ三十四歳。幼稚園からなので、実に三十年近いつき合いになる。当時、同じアパートに住んでいて、美代子が仕事から帰ってくるまで、よく智樹の家で遊ばせてもらった。お互いに一人っ子同士なので兄弟のようだった。もちろん、啓太郎が兄の立場である。智樹は小さくて、細くて、弱々しくて、いつも啓太郎の後ろをついて歩いていた。
智樹からは今でもよくメールが来る。何ということのないメールだが、純粋で素朴で、ほっとする。美代子の熱が下がったら見舞いたいと言ってくれていた。智樹を連れて、もう一度、病院へ戻った。
美代子は智樹の顔を見て驚き、とても喜んだ。啓太郎はよく会っているが、美代子は数年ぶりだった。
「智樹くん、久しぶりね」
「こんばんは」
智樹は見舞いの品を差し出した。「パンなら食べやすいと思って」
「気を遣ってくれて、ありがとう」
「おばさん、髪、切っちゃたんだね」
「うん。薬のせいで抜けちゃったから」
「きっと、すぐ伸びるよ」
「そうね。さあ、座って」
「はい」
智樹は丸椅子を引っ張り出し行儀よく座った。「おばさん、まだ痛い?」
「全然。智樹くんの顔を見たら吹っ飛んじゃった」
「よかった」
智樹は無邪気に笑った。
「智樹くん、変わらないわね」
啓太郎は、美代子が嬉しそうにしているのを見て、連れてきてよかったと思った。
「あっ、啓ちゃん」
智樹は啓太郎をこう呼ぶ。「田中さんに会ったよ」
「えっ?」
啓太郎は、突然、話をふられて赤くなった。意外な名前だった。
美代子は、啓太郎が焦った表情をしているのを見逃さなかった。
「ねえ、智樹くん。田中さんて誰?」
「啓ちゃんの彼女」
「こら、智樹」
美代子は冷やかすように横目で啓太郎を見た。
「ふーん」
「昔の話だって」
啓太郎は慌てて視線を逸らし、顔が赤いのをごまかそうと頬に手をやった。
智樹は啓太郎の気も知らずに続けた。
「田中さん、いい人だよ」
「そうなの?」
「いつも優しい」
「そう」
その時、面会時間終了の放送が入った。啓太郎は助かったと思った。
「智樹、時間だ。車で送るよ」
「うん」
智樹が立ち上がった。
美代子は頭を下げて感謝した。
「今日はありがとう。智樹くん」
「おばさん、さようなら」
「さようなら」
美代子は入院していることを誰にも知らせていなかった。おそらく智樹が最初で最後の見舞い客だろう。
啓太郎は智樹の背中を押すように病室を出た。自然と小声になった。
「智樹、田中さんに会ったんだ」
「うん」
「そうか・・・」
啓太郎は未練がましいと思われるのが嫌で、その先を聞かなかった。
田中さんは、啓太郎の初恋の相手である。小学校時代、隣のクラスにいた田中さんを密かに想っていた。中学に入り、同じクラスになったのをきっかけにアタック(と言えるか分からないが)し、交際を始めたのだった。純粋だった頃の美しい思い出だ。こういう面においては、女性より男性の方がロマンチストだったりする。そもそも、田中さんを好きになるきっかけは、この智樹だった。
「啓ちゃん、バイバイ」
「おお」
啓太郎は智樹を地下鉄駅に送り届けた後、またまた病院へ戻ってきた。面会時間を過ぎても、個室なので多少は大目に見てくれる。それに何となく後味が悪かった。
病室へ入るなり、美代子は待ってましたと言わんばかりの笑顔だった。
「田中さんのこと、話して」
「えっ?」
「お母さん、聞きたいな」
啓太郎は話してもいいつもりで戻ってきたような気がした。
「元カノ」
「彼女がいたのね」
「そりゃいるしょ」
美代子は少女のように笑った。
「安心したわよ」
「安心って、本当にすごい昔の話だよ。初恋の人」
「ふーん」
「智樹さあ。五年生になって、俺とクラスが別れてから、いつもいじめっ子たちにからかわれてたんだ」
「いじめ?」
「そこまでひどくないけど。数人が取り囲んで嫌がることばかりしてた。俺が同じクラスなら、やつらから守ってあげられるのにって、休み時間ごとに心配で見に行ってたんだ」
「そうだったの」
「それが、ある時から突然、女の子が智樹の盾になってた」
「それが田中さん?」
「そう。智樹も、ちょっと嬉しそうでさあ」
「まあ」
美代子がふふと笑った。
「気がつくと、智樹はいじめられなくなってた。あの頃、よく智樹の家に遊びに行っただろう?」
「私が働いてたから、お世話になりっぱなしだったわ」
「智樹、お母さんに田中さんのことばかり言ってるんだよ」
「好きだったのかしら」
「分からない。でも、あれをしてくれた。こんなことをしてくれたって、やっぱり嬉しそうでさあ」
「世話好きの女の子なのね」
「ある意味ね。でも、いちばん驚いたのは、智樹が班を代表して算数の解き方を発表したって聞いた時」
「どうして驚くの?」
「智樹って、あがり症だから、発表とかできるタイプじゃなかったんだ」
「そうなの」
「田中さんが智樹もがんばって発表してみようって言ったらしい。で、言うことを台詞みたいに一生懸命教えてくれたんだって」
「微笑ましい話ね」
「俺は、智樹ができないことを代わってやってあげてたのに、田中さんは智樹に任せて背中を押したんだ。すごい女子だと思った」
「で、好きになっちゃったのね」
「まあね」
啓太郎が好きになった理由を、当の田中さんは知らない。
「どうして別れちゃったの? 今頃、お嫁さんになっていたかもしれないのに」
「俺がマザコンだから」
「そうねえ」
「ここ笑うところだろう。納得してどうするんだよ」
「だって、本当のことじゃない」
「勝手に、そう思ってろよ」
啓太郎は子供のように膨れてみせたが、あながち嘘でもないかなと思った。
「でも、息子と恋愛話だけはすることがないと思ってたわ」
「自分がし向けたくせに」
「確かに」
「男も三十過ぎると、こういう話を照れずにできるってこと!」
「意外といいものね」
美代子はふふと笑った。
じゃあ、今度は、お母さんの恋愛話を・・・と言いたかった。
啓太郎はそれが聞きたくて自分の恥ずかしい恋愛話をした。しかし、結局、切り出せないまま消灯時間になりバイト先へ来てしまった。いつになったら、父親、リョウスケのことを聞くことができるのだろう。
これも自分が昔から抱えている一種のスピリチュアル・ペインだ。
レンタルビデオ店は客足が絶えない。一人出ていっては、一人入ってくる。中には不眠を紛らわすために来店する常連客もいる。人間関係や仕事のストレス、将来に対する言い知れぬ不安が、唯一の現実逃避である睡眠すらも奪う。夜の闇が束になって襲いかかってくる。ひとりでいるのが怖いらしい。啓太郎は忙しくなければ、そういう人たちの話し相手にもなる。みんな生きるために闘っている。
時計は夜中の十二時を過ぎている。また、新しい一日がやってきた。この頃は日付が変わるのが嬉しい。愛おしい。
母は、また一日、生きてくれた。
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